第356話 魔王の遺骸

 さて、マリアナさんの魔法講義を受けた俺達だが、肝心の魔王の遺骸の無力化には未だ成功していないのだ。ゆえに俺はマリアナさんに問う。


「それで、マリアナさん。俺は無事に『昇華』できたわけだけど……ここからどうすればいいんだ?」

「何もしなくても大丈夫です」

「なに?」


 横で聞いていたマリーさんが思わず反応する。


「あなたは『昇華』しました。魔力の波長が正の極限まで高まっているその状態であれば、特に何かをする必要はありません。ただ己の魔力をこの魔王の遺骸に送り込むのです。そうすれば魔王の負の魔力はそのまま中和されることでしょう」


 そう言って微笑むマリアナさん。


「あなたは既に己の魔力が変質していることを直感で理解しているのではありませんか?」


 言われてみればその通りだ。マリーさんにも指摘されたように、これまでの感覚とは少し違うことを俺は直感で理解している。

 全身を隅から隅まで掌握できているという自覚があるのだ。これまでなら不可能だったような、細胞一つ一つに至るまで魔力を行き渡らせるような緻密な魔力の制御だって難なくできている。『纏衣』のように血液に魔力を混合させるというプロセスを経なくとも、任意の箇所を強化することだって可能だ。少し前にマリーさんが見せてくれた高等魔法でさえ、一度見ただけできっと再現できることだろう。


「なるほどの。今のエーベルハルトは精霊と同程度に複雑な魔法が使える……。ならば特に何かせんでも充分に魔王の魔力に対抗できるわけか」


 魔王の遺骸から溢れ出る魔力は実に強大だ。通常の魔力でもって強引に干渉しようとしたら、実に一〇〇万近い魔力量が必要となってくるほどだ。

 普通の人間の魔力が一〇〇もあるかどうかということを考えれば、実に恐ろしい数字だということがよくわかる。

 世間一般に「一人前」と言われる魔法師の魔力量でさえ、一〇〇〇から二〇〇〇もいけば高いほうだというのが実情なのだ。一般的な駆け出しの魔法士であればその数分の一ということだって往々にしてありうる。

 魔力一〇〇〇の魔法士が一〇〇〇人分。文字通りに一騎当千の莫大な魔力が必要だ。


 ただ、幸いなことに遺骸から常時溢れ出ている魔力自体はそう多くない。もちろん世間一般的な基準で考えるならば充分以上に強大であると言わざるをえないだろう。しかしその天災とすら形容しうるほどの魔力の塊から漏れ出る上澄みの魔力は、せいぜいが数百から数千程度なのだ。

 通常の魔力であれば、一〇〇万。しかし『昇華』された正の魔力であれば多くても数千。それくらいなら今の俺でも四六時中、中和し続けることができる。魔王の遺骸を正の魔力でコーティングして、常に肌身離さず持ち運んでいる限りにおいては安全に皇国まで移送することができるだろう。

 もし仮になんらかの異常事態が発生して遺骸を手放さなくてはいけなくなったとしても、その時は既に設置した転移門でまたすぐに世界樹へと戻すことができる。その際はマリアナさんか、あるいはマリーさんに一時的に管理をお願いすればいい。

 要するに、まったく問題ないのだ。


「ではエーベルハルト、頼むぞ」

「うん」


 マリーさんが緊張を孕んだ声で、俺の目を見て言う。俺は彼女にまるでなんでもないことのように小さく軽く頷くと、遺骸を覆い尽くすように正の魔力を注ぎ込んだ。


 ――――バチバチバチ……ッ


 凄まじい勢いで魔力と魔力がぶつかり合い、激しく紫電が飛び散る。

 もの凄い反発力だ。これが魔王の魔力なのか。

 あの『呪詛』の魔人タナトスと戦った俺達だ。魔人を侮る気持ちは欠片もない。

 だが『吻合』して、更にその上で厳しい修行の結果『昇華』するにまで至った俺ですらこうまで押されるとは。

 果てしない熱量を感じる。ありえないほどに高密度で、重たい魔力だ。

 俺の正の魔力。それと対をなす負の魔力。正反対に位置する互いの魔力がぶつかり合い、打ち消しあって紫色の火花を散らす。


 ――――バチバチバチバチ……ッッ


「エーベルハルト……」


 マリーさんが心配そうな目で俺を見てくる。俺は横目でチラリと彼女のことを見遣ると、安心させるように小さく笑って言った。


「大丈夫だよ、マリーさん」


 確かに魔王の魔力は凄まじい。あまりの密度に、少しでも気を抜いたらその瞬間に弾き飛ばされてしまいそうだ。

 ……だが不可能ではない。今の俺ならいける。その自信がある。

 『昇華』は、それだけ俺に劇的な変化をもたらしたのだろう。髪の色も、瞳の色さえも変わってしまった俺ではあるが、それと引き換えに恐ろしいまでの力を手に入れた。

 今こうして魔王の遺骸とせめぎ合っていて、そのことをよく実感する。


 やがて撒き散らされていた魔王の遺骸から溢れる禍々しい負の魔力が、徐々に、本当に徐々にだが小さくなっていくのを感じた。

 押し留めているわけではない。そんなことをすれば魔王の遺骸はたちまち魔力暴走を引き起こしてしまうだろう。今俺がしているのは、あくまで対極に位置する正の魔力で負の魔力を打ち消しているだけなのだ。


 ――――全力で魔力を注ぎ続けてこれなのか。


 既に死んでいる魔王の、しかも六分割された遺骸でさえこれなのだ。現在、魔人達が復活を目論んでいる魔王。もし魔王が復活などしたら、冗談抜きに世界は滅びてしまうのではないだろうか。そう思えるほどに魔王の魔力というものは底無しで、根源的な恐怖を俺に抱かせるものだった。

 これを仲間と協力しながらも討伐して、しかも封印までした初代勇者様っていうのはありえないくらい強かったんだろうなぁ……などと益体もないことを考えつつ、俺はひたすら魔王の遺骸に正の魔力を注ぎ込み続ける。

 遺骸から溢れる魔力を包み込むように、濃密な魔力を打ち消すように。


 やがて数分ないしは数十分が経った頃。魔王の遺骸は真紅に輝くボーリング玉大の宝玉へと姿を変えていた。










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