第118話 信念を貫くこと

 これはまだ俺が日本にいた時の記憶だ。事故に遭ってこちらの世界に転生する、半年ほど前の話である。


「ねぇー一樹カズキぃー。なんでさっき修学旅行係の立候補辞めちゃったの? 一緒にやろうって言ったじゃーん」


 放課後、担任に言われて修学旅行の企画運営を行う係の仕事を済ませた俺が、西日の差し込む教室に入ろうとした時のことだった。

 男に媚びるような、甘く艶かしい不快な声が聞こえてきたのだ。


「いやぁ、だってまさかあいつが立候補するとは思わなかったからさ」

「えー? あのガリ勉? 別に無視でよくない? どうせ多数決なら一樹が勝つに決まってんじゃん。あいつ友達いないし」


 当時の俺の女子生徒からの評価は著しく低かった。中にはちゃんと話してくれる子もいたにはいたが、それは俺を異性として意識していないからこその話。別に俺はブサメンでも肥満でもなかったが、同時にイケメンでもなかった。モテるようなタイプでは決してなかった俺は、虐められるようなことこそ無かったが、クラスの主役になることはなく、引き立て役になることすらもなく、モブCかDくらいの立ち位置をクラスで築いていた。


「うーん、けどまぁ、あいつ才能無いからなぁ。せめて雑用係くらいは譲ってあげようかなって」

「だから譲ってあげたの? 一樹優しすぎじゃん」

「あはは、でも修学旅行の係なんて内申点稼ぎにもならないよ。生徒会の仕事の方がよっぽど楽だし評価も高いって」

「ねー、じゃあ今度の生徒会選挙でうちも立候補しちゃおっかな〜」

「いいんじゃないかな? 立会演説人やるよ」

「きゃー! 一樹大好き!」


 しかも俺が必死で勉強や仕事をしている間、こいつらは乳繰り合っているのだ。

 粘膜と粘膜が接触する、水っぽく生々しい音が教室内から聞こえてくる。二人の息継ぎのようなものが聞こえてきて耐えられなくなった俺は、廊下の端のトイレに駆け込んで個室で蹲ることしかできなかった。


 しばらくそうしていただろうか。気が付けばトイレの中は真っ暗で、旧校舎の音楽室から聴こえていた吹奏楽部の演奏も既に聴こえなくなっていた。


「……帰るか」


 流石にあいつらももう帰ったことだろう。それにしても、なんで俺は隠れているんだろうな。堂々と教室に入って何事もなく鞄を持って帰ればよかったのに。咎められるような行為をしているのはあいつらであって、自分ではないのに。


 そう思っても、なかなか自分の生き方というのは変えられないものだ。机の中の参考書を鞄に入れ、イヤホンを耳に挿し、英語のリスニングを聴きながら昇降口へと向かう。

 昇降口に向かうと、そこには生活指導の教師が立っていた。腕を組んで、随分と不機嫌そうな顔をしている。きっと下校指導なんて外れクジを引かされて気が立っているのだろう。教員にとって校務分掌は必要なことだが、やらないでいられるならやらないに越したことはない。


「おい、校内でのイヤホンは禁止だ。外しなさい」

「これ英語のリスニングなんですけど……」

「校則は校則だ。守らないなら没収する」


 ただでさえ聞き取りにくい発音を少しでも聞き取るために、少し高めのイヤホンを買ったのが運の尽きだった。無事に没収されてしまい、俺は踏んだり蹴ったりな気持ちで学校を後にする。


「……今日くらいはサボるか」


 いつもならこの時間は必死こいて図書館か喫茶店か、あるいは自宅の机に噛り付いているのだが、今日は色々と嫌なことがありすぎた。たまには自分を慰めてやる日があってもいいだろう。

 俺は趣味の読書用の本を買うべく、本屋へと向かう。通っている高校から数駅。自宅に帰る途中にある乗り換え駅の周辺には立派な本屋がいくつかあるのだ。


「新刊出てるかな……」


 俺は本なら何でも……というほどでもないが、それでもかなり幅広いジャンルの本を読む。教養としての純文学、ノンフィクション、新書、歴史書、趣味の漫画、ライトノベル、ミリタリーやバイク、アウトドアなどのムック本……。

 友達がいないので、お小遣いのほぼ全てをこれらに費やすことができるのは、交友関係が狭いことの数少ない利点だ。俺は気になる新書とラノベの新刊数冊を購入して本屋を出る。今日は金曜日。夜更かししても問題ない日だ。帰ったらどれから読もうか。

 そんな風に少しテンション高めに駅への道を歩いていると。


「……あ」


 向こうからは気付かれていない。しかし、俺は思わず立ち止まってしまった。


 駅前のホテル街。未成年に相応しくないそこから出てきたのは、学年一の秀才にして人気者の菅原一樹と、同じ修学旅行係であるにも関わらず、俺に仕事を押し付けて教室で菅原と乳繰り合っていたクラスメイトの女だ。


「……何でだろうなぁ」


 菅原が頑張ってないとは思わない。奴は奴なりに努力もしているのだろうし、それを否定しようとは思わない。

 だが、間違いなく俺の方が頑張っている。それなのにこの仕打ちか。神様ってものがいるなら、そいつは随分と残酷だ。

 俺はさっきまでの幸せだった気持ちがどん底に沈むのを感じながら、駅へとゆっくり歩いて行った。


 もしかしたらこの時から、俺は狂い始めていたのかもしれない。これまで以上に周りを顧みず、ひたすら成果を上げることのみに注力して勉学に励み出したのは、ちょうどこの頃からだったような気がする。


 そうして俺は疲労と視野の狭窄から注意力散漫な状態に陥り、車が近づいてきていることに気が付かず思いきり轢かれ。


 異世界に転生した。



     ✳︎



「なんかなぁ……。あの時のことを思い出すんだよな」


 性格は全く違う。菅原一樹はここまであからさまに他人を見下すことはなかった。奴は良い人のように見せかけて、その実、裏では倫理観の欠片も無いような言動をしていた。そういう意味では奴は社交性に富んでいた。

 クリストフには表も裏も関係ない。思ったことは隠さずにそのまま伝える。そして思ったことがとにかく最悪なので、結果的に人間関係にも不和を来す。それがクリストフという人間だ。


 しかしそんな性格真逆の二人ではあるが、どことなく両者に通ずるものを俺は感じていた。それが、自らの才能に溺れ、努力に価値を置かず、倫理観など欠片も持たずに他者を見下す点だ。

 見下された方は堪ったものではない。なぜ自分の努力を、努力もしていない奴に笑われなければならないのか。持って生まれただけの奴に、持たずに生まれた人間は一生叶うことがないのか。

 そう思うと悔しくて堪らないだろう。


 だからこれは、俺の私的な恨みによる、理不尽な復讐だ。悪いのはクリストフ個人ではない。強いて言うなら、世界の構造だ。才能を持たない人間でも、努力によって才能に打ち勝つことができるのだという証明を俺はしたい。


 人によっては「【継続は力なり】などというを持って生まれている人間がよく言う」などと思うこともあるだろう。しかし、その固有技能があったからと言って、必ずしも今の俺のようになれる訳ではない。

 俺がここまで強くなれたのは、ひとえに俺が努力を惜しまず、ひたすらに鍛え続けてきたからだ。俺は異世界に生まれ変わることでようやく、中身もことができた。


 才能には負けない。努力は俺を裏切れないのだということを、俺は世界に見せつけてやる。だからこそ、俺はこの生産性の無い勝負にわざわざ乗ったのだ。


 俺は様々な騒動に巻き込まれる系主人公の気持ちに共感しつつ、しかししっかりと戦意を高めて前に踏み出す。戦う準備は既にできている。

 ――さあ、合法的殺試合ショータイムといこうじゃないか。

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