2-3



 バンカの森の夜はまだ明けない。


 木々の葉の隙間から星々が見えるけど僅かな隙間なので星座の形が正しく見えない。星の位置が分かれば「指針星」が分かるけどこれでは見つけるのは難しそうだった。素直に朝を待ったほうがいいだろう。


 ぼくはパチパチと爆ぜる焚き木の音と、止まることのない死体の少女のお喋りに耳を傾けながらそう思っていた。


 こういう何もすることがない夜にぼくはこの日記を書くようにしている。

 単に文字の練習のためと、あと気持ちの整理のためである。


 ただこの時は何かをしていないと眠ってしまいそうだからだ。

でも焚き火程度の明りでは手元の手帳がまったく見えなくて文字が書けそうになかった。背中の死体に気付かれない様に密かに懐からこの手帳を取り出したのに取り越し苦労だった。


その様子を目聡く見つけた死体の少女はお喋りを止めて話しかけてきた。

「──ところで、それは何かしら?」


 ドキリと心臓が脈打った。

 ぼくは背中の彼女に見えない様にまた手帳を懐に隠した。


「いや、別に。何でもないよ」

「いいえ、間違いなく何かを隠していたわ。お喋りに夢中になって気づかないとでも思っていたのかしら? こんなに近くにいるのだから気づかない訳がないじゃないの」

「……話はちゃんと聞いていたよ」

「ええ、もちろんそれは承知しているわ。というよりもわたしの話を聞くことは当然のことでしょう? でも問題はわたしに隠し事をしたことよ、何を書いていたのか教えなさいな。これから長い付き合いになるのだし、今更わたしたちの間で隠し事なんて失礼じゃないかしら?」


 出来ればぼくは隠せることは隠しておきたい。

 それにぼくは彼女とは長く付き合う気は無かった。

朝になって歩鹿を見つけたら一目散にトロメライに戻るつもりだ。いやこの時は森を抜けだすのが先決か。とにかくぼくは彼女との関わりをこれ以上は遠慮しておきたい。


ただ死体相手に我を張るのは馬鹿らしいので、ここは素直に正直に答えておいた。

「手帳だよ。日記を書いているんだ」


「あら、そう。感心ね。わたしも生前に元気な時までは毎日日記をつけていたわ。でもなんでヨダカは今日記をつけようとしたのかしら? わたしのお話しの途中だったでしょう? 時と場所を選びなさいな。罰としてその手帳を見せてごらんなさい」


 とはいえ、見せられる訳がない。

 死体相手とは言っても日記を見せるのは自分の内面を晒しているようで恥ずかしい。


ぼくは懐に仕舞った手帳を外套の上から抑えて絶対に見せないと表明した。

「い、いやだよ」

「そのコートの内ポケットに隠しているのね」

 ぼくの肩口から顔を覗かせぼくの懐を伺おうとする死体の少女に隠すようにして自分の身体を抱え込んだ。なんてがめつい死体なんだ。

「絶対に見せないから」


すると思いの外、彼女はこう言った。

「分かったわ。そんなに言うなら仕方がない。もう諦めたわ。安心しなさいな、見せなくて結構よ」


 少し拍子抜けだったけど、見ないと言うなら助かった。


「それでは、お話しの続きをしましょう。どこまで話したかしら?」

「シントの医学進歩には死体運びのビジテリが大きく関わっていたとか、どうとか」

「そう、そうだったわね。感心したわ、本当にしっかり聞いていたのね。ちなみに今のはヨダカを試してみたのよ。ではお話しの続きをするわね、……その前にアレは何かしら?」


急に彼女のお喋りが止まったので、ぼくはその様子が気になった。

「……どうしたの?」

「大きな獣が見えたわ」


 彼女はぼくの肩をぎゅっと掴んだ。

 彼女の視線の方向を見てみるが、森の中は闇に覆われてぼくには何も見えない。


「……どんなやつ?」

「分からないわ、わたしの視線に気づいてあの木の陰に隠れたの」


 彼女はそう言って闇の先を指差す。

 ぼくにはどの木の陰かも分からない。


「もしかして見えているの?」

「ええ、昼も夜も同じように見えているわ、だから今が夜であることに先ほど気づいたくらいよ」


 何度も書くけど、こんなにお喋りならそういうことはもっと早く喋っておいてほしいと思う。




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 さて、久しぶりですが、ここで不足しがちな説明の補足をします。

 この時、死体の少女、ネリ、──つまり、わたしですが、わたしがどのように闇の中を見えているのかというと、この時わたしが言っていた通りですが、昼も夜も同じように見えていました。

 ただし、どちらも色が抜けた白黒の世界になります。死んでしまうと色彩を認識できなくなるのかもしれません。他にもこの身体になって変化したところがあります。五感は生前と同じく健在ですが、どこか、何かが欠けたように思えます。たとえば痛覚ですが、痛みは確かに感じますが、その痛みはどこか他人のもの様に感じて苦痛には感じません。

可能性のひとつとしては、もしかしたら感情が乏しくなっているのかもしません。ただ、朝日を見て感動を覚えたように僅かながら感情は残っている節もあります。相変わらずこの身体の不思議には皆目見当つきません。

死体運びの道中では科学的な検証が出来ないので心残りはありますが、今後もこのように気づいた現象を「このヨダカの手帳」に残しておこうかと思います。

 ちなみに、どうやらヨダカは一度書いた文章を読み返すことは無いようです。そのためヨダカが寝静まった深夜には読み放題、書き込み放題です。闇夜を見通せるこの目はとても便利です。


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「あ、動いたわ! 三匹もいるわ。わたしたちの様子を窺っているわね。ヨダカには見えるかしら?」

「見えないよ、……どんなやつ?」

「種類は分からないけど大きな犬に見えたわ、大きいのが二匹と小さいのが一匹、家族かしら?」


 簡単に死体の彼女は言った。

 それだけでぼくはその獣の正体が分かった。


というのも、この森に犬みたいな獣は一種類しかいないからだ。

「……たぶん森犬だ」


「あれが森犬ね、初めて見たわ。意外と大きいのね」


 森犬は天敵の少ない冬に子供を産む。

春から夏に掛けて大きくなった子供に夫婦で狩りを教える。森犬は夜行性で夜に獲物を狙う。

 この時の狩りの標的は残念ながらぼくだった。


 火には絶えず焚き木をくべているのに恐れていないようだ。

 獣は火を恐れて近づかないと聞いていたけど例外がいたらしい。


ただこの時ぼくは猟銃を持っていた。これは獣を殺す道具だ。ただ残りは三発しか残っていない。銃弾は出発前に沢山用意したけど、勿論それは行方知らずの歩鹿が持っている。


 ぼくはその猟銃を構えて先ほど彼女が指し示した方向へ文字通り闇雲に銃口を向けた。


 銃弾の数が限られている。無駄撃ちはしたくない。

 若干の躊躇はあったけど、ぼくは引き金を引いた。


 耳を刺すような銃声と時を同じくして何かが爆ぜる音がした。

空の薬莢を排出して、また猟銃を闇に向かって構えた。引き金に指を掛けたまま相手の出方を待った。


 これは威嚇射撃だ。

この闇の中では森犬に当てるのは当然難しい。この銃声に恐れて森犬たちが逃げてくれるのを祈った。あとできれば偶然にも当たってくれたら有難かった。


「……当たったかな?」

唯一この暗闇でも目が見える背中の彼女に聞いてみた。


「外れたわ。でも逃げないでこちらを伺っている。怒らせたかもしれないわね」


 ぼくの祈りは通じなかったようだ。

 神様がいるシントたちが何だか羨ましい。


 そういうふうに軽く絶望していると、森犬たちの唸り声がぼくの耳に届いた。枯葉を踏む音も聞こえてくる。彼女が言うようにただ怒らせただけだった。


そんな絶体絶命の状況にも彼女は喋りかけてくる。

「それよりもヨダカ、知っているかしら?」

「……なに?」


「森犬は死肉を食べないらしいわ」

「…………」


 ぼくは言葉が出なかった。

 相変わらずこの死体を好きになれない。


 ただ悔しいけど彼女が言いたいことはぼくにも分かる。

血に飢えた森犬が狙うのは生肉だけで、噛み付いたところで血が滴ることがない死体の彼女は対象外になる。つまり森犬の晩ご飯はぼくだけだ。


「それはぼくも知っているよ……」

「ところでヨダカも死んだらわたしみたいに喋るのかしら?」

「……知らないよ」


 仮にぼくが死んで彼女みたいに動いたとしても、彼女みたいに喋る事は無いと思う。だってぼくはお喋りが苦手だから。


 なんて冗談を思う余裕はこの時のぼくには無かった。


「少し気になってきたわ。──まあ、口に出したら余計に気になって来たわ! ところでヨダカは死にたいって思う?」


 そう言われてぼくはすこぶる彼女を嫌いになりそうになった。


「死にたくないよ」

「そうよね、わたしもそうだったわ。でもそれはあの森犬たちもきっと同じよ。彼らも死にたくないのよ。生きるためにヨダカを食べようとしている。だから森犬たちを悪く思わないでね」

「……何でぼくが食べられないといけないの?」

「わたしは死者として客観的な立場から公平な目線で言っているのよ。向こうの命は三つ、こっちの命は一つ。さあどちらの命が重いでしょうか?」


 とても嫌な問いなのでぼくは答えようとしなかった。


 でも答えは決まっている。その答えは一つのほうが重い。

 だってぼくはその一つの命の方だから。

 森犬に食われて死ぬのはごめんだ。


 猟銃を持つ手に力を込めた。

 胸に溜まる重い空気を吐き出したら息が白く見えた。


 この闇夜の中では森犬に命中するのは難しい。

 だから飛び掛かるその瞬間を狙って撃つつもりだ。

自慢にならないけどぼくは射撃が苦手だ。外れてしまったら心許無いナイフで応戦するしかない。死ぬよりましだから多少の怪我は覚悟の上だ。


 何だか次第に身体にも力が入ってきて、恐怖が和らいできた。


 この時ぼくは思った。というかその前からずっと思っていた。

何でぼくは彼女と会話を続けているのか、彼女は死体だ。死体を相手にするのは間違っている。いや、そもそも死体が喋るわけがない。何て馬鹿らしいやり取りをこれまでしていたのだ。


 恐らくこの背中の少女はぼくの妄想で喋っている。

 彼女はぼくの弱い心が生んだ幻想だ。

 ぼくはもっと強くならないといけないんだ。


 そんなことを思っていたら、予想外の相手の動きにぼくは戸惑った。


「あっ、ちょっと!」


 予想外の相手とは背中の彼女の事だ。

その幻想だと思った彼女の動きは森犬より早く、彼女の腕がぼくの肩口から伸びてきてぼくが握りしめている猟銃を軽々と奪い取った。


 彼女は手際よく猟銃をぼくの背中で構えて躊躇なく撃った。

けたたましい銃声の破裂音と共に、「キャン!」という獣の断末魔の叫び声が聞こえた。


 ぼくは一連の行動に呆気に取られていた。


「当たったわ、見に行きましょう」


 当然のように言われてしまい、これまでの葛藤は何だったのだろうか、とやるせない気持ちになった。


「撃ち方を知ってたんだ」

「まあ、ヨダカはわたしを何の死体だと思っているの? それにわたしは生前も脚が動かなかったのよ、室内で銃を撃ちまくる野蛮な淑女に見えるかしら? さっきヨダカが撃っていたじゃない。それを見て覚えたのよ。人間が使う道具だから元人間のわたしにも使う事くらい訳ないわ」


 松明と猟銃を手にして彼女が示した先へ向かった。


 その先には彼女が言う通り森犬が倒れていた。

 倒れているのは一頭だけで、他の二頭は一頭が撃たれたのと同時に逃げ出したらしい。


 先ほどの彼女の言い分では初めて銃を撃ったような事を言っていたけど、見事に頭を撃ち抜いていた。これは即死だっただろう。


 ぼくは三頭の森犬が暗闇で見えてなかったので、どの森犬を彼女が狙っていたのか分からなかったけど、この頭を撃ち抜かれて死んでいる森犬を見たらすぐに分かった。


 これは彼女が先ほど言っていた三頭の内の一番小さい森犬だろう。


 他の二頭を見てなくても分かる。

 どうみてもこれは子供の森犬だった。


松明と猟銃を手にして立ち尽くしていたら、背中から声が聞こえた。

「さっきのわたしからの問いの答えだけど……」


 ぼくと森犬のどちらの命が重いかの質問のことだ。


「なに?」

「答えは簡単。命は三つの方が重いわ。当然よね、だって一より三の方が数は多いもの。でも、それは死者として命を公平に見た時の判決よ」


背中の死体はこう続ける。

「でもそれは死者としての意見であって、それ以前にわたしはわたし、死体であっても一人の人間よ。わたしを支柱にして貴方と森犬たちを天秤に掛けたら、もちろん貴方に傾くわ。わたしにとって貴方はそれほど大切な命なのよ」


 彼女の言葉でぼくはドキリと胸が鳴った。

基本的にはぼくは何事にも動じない種類の人間だと思う。まあ流石に命の危機に瀕した時は動じるけどそれは例外だ。ただ他人の言動では基本的に動じないのは間違いない。


 でも彼女の言葉にぼくの心は揺れ動いた。


「……なんで、なんで大切なの?」

ぼくは探るように彼女に問いかけた。


すると彼女はこう言った。

「だってわたしは森犬の言葉が分からないわ。お喋りの相手はヨダカだけだからよ」


 何だがぼくはがっかりした。



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