油断の果てに
リュカとパトリシアが昼食を運んできてくれるまでの間、オレは食堂でアヤさんに絡まれていた。その豊満な胸を押し付けられるほど距離が近いのだが、女体化の影響かあまりドキドキしない。
「ねぇどやったどやった? 自分の悪口散々目の前で聞かされる気分どやった?」
「楽しそうだなおい」
アヤさん自身はもっと修羅場的な状況が見たかったらしいのだが、これはこれで大満足なようだ。羽根を散らせて喜んでいる。
それに対して、始めはあんなにノリノリだった団長が、もうオレに興味を示していなかった。厄介な奴が減って嬉しいと思う以前に、考えが読めなくて不気味だった。
「なぁ、団長。何でもうそんな飽きてるんだ?」
堪らず聞いてしまった。すると団長は、珍しく戸惑うような表情で頭をかく。
「いや、それがな。始めは楽しかったのだが、途中からめっきり興奮しなくなってな。やはり私は男のダーリンが好きなようだ」
少しどきりとしてしまった。
「もう団長ちゃん純情!」
これにもアヤさんは楽しそうだ。実はもう何でも良いんじゃねぇか? それはそれで厄介だが、オレが一番恐れていた修羅場はまだ起こっていないので少しだけだが息を吐く。オレが思っていたよりリュカは大人だったと言うことだ。それが分かったことだけが今回のオレの収穫である。
「お待たせしました」
リュカとパトリシアが昼食をワゴンに載せて運んできてくれた。二人とも憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔だ。良かった。これならリューコちゃんとしてでも仲良く出来そうだ。さっきみたいな腹が痛くなる会話ではなく、もっと女子同士だからこそ出来る会話をしたりしたい。ベールに包まれた二人の本心が分かるかもしれないからだ。
そんな事を考えているオレ。つまりは油断である。呼吸の合間と合間のような意識では防ぎようのない一瞬のほころび。しかし、それを見逃すようなアヤさんではなかった。
「リューコちゃん、リューシちゃんとべろちゅーしたことあるらしいで」
隕石が地球に突撃してきたような衝撃だった。少ないともオレにはそう思えた。団長はくすりと笑い、リーリは頭痛を抑えるように頭を抱えて天井を見上げた。
そして、リュカとパトリシアの時間が再び停止していた。瞬きも呼吸もない完全なる石化。ゴルゴーンに睨まれた人間だってもっと生物らしい。二人が配膳してくれようとした皿が、落ちた。いや、そんな生易しいものじゃない。リュカが皿を床に叩きつけた。
「ほ、ん、と、う、ですかっ!?!?」
朱と蒼の双眸がオレの目ではなく心臓を撃ち抜いた。全身に沸き起こるあり得ないほどの恐怖。地獄の釜が開いたとは正にこのことだ。
ばきっと音がしたので目だけをそちらに向けると、にっこりと笑ったパトリシアが皿を指で粉々にしていた。闇色の負のオーラがわなわなと震える全身から放射されている。
「ほ、ん、と、う、ですか!?!?」
二度目だ。そんな事実はないと一言言えばそれで済む話のはずなのに、怖くて声がでない。パクパクと金魚のように口を開け閉めしているだけで、ひゅーひゅーと変な呼吸音が鳴る。そして、オレは、
「うわぁあ!!」
恐慌をきたした頭が選択したのは、逃げの一手。震える膝を叩いて食堂から飛び出す。
「あ! 待って下さい!」
「あはは! これこれ。やっぱ修羅場やねぇ」
「あんた後で覚えてろよ!!」
下っ端悪役の常套句を叫びながら廊下を駆ける。ここでオレが犯したのは二つのミス。まず、自分が竜士だと説明することに考えが至らなかったこと。次は、屋敷の奥に逃げ込んだこと。どうせ逃げるなら広い屋外に逃げるべきだった。もうこの屋敷で暮らして何日にもなる。中に隠れられるような場所がほとんどない事はよく分かっていたが、たまたま足が向いた方向に走り出してしまったのだ。
「うおおお!!」
ハイヒールを脱ぎ捨て、スカートをたくし上げてとにかく逃げる。なんで女子ってこんな動きづらい格好してんのかな! 災害時とか危ないからもっとスポーティな格好にした方が良いぞ! かつかつかつと、背後からリュカの足音が聞こえてくる。オレは全力で走っているはずなのに、ゆっくりと歩いているはずの彼女との距離が一向に広がらない。ホラー映画とかでありがちな状況が今まさしくオレに襲いかかってきていた。
それがひたすらオレの恐怖を煽り、冷静な判断力を削り取る。そのせいかオレは手近な扉を開いて入り込んでしまった。中はリーリやパトリシアが使う掃除道具をしまっている小部屋。こんな所に逃げ込んだら袋小路だ。窓も通気孔もない。完全に詰んだ。リュカの足音が聞こえる。それは正確なまでにこの小部屋に近づいてきていた。その手が扉にかけられた瞬間、
「あれ、いませんね。ここに逃げ込んだと思ったのに」
リュカはキョロキョロと中を確認して、一つ一つロッカーの中などを探していく。そしてとうとう全てを探し終えると、ガツン! と物凄い音を立てて扉を閉めていった。
「た、助かった……」
「私に感謝しろ」
「おお、マジでありがとう」
そこは、一番奥のロッカーの壁をさらにもう一回開いた所にある隠し部屋だった。広さはオレとリーリが何とか入れるくらい。リュカがオレ達が隠れているロッカーを開けた時など変な汗が流れた。
「もう、大丈夫かな?」
「今出て行っても捕まるだけだ。リュカの怒りが収まるのを待つしかない」
「そうかもしれないけど、あれ収まるのか?」
「……」
せめて何か言ってくれよ。
「ひとまずリュカの怒りが少し和らぐのを待つべきだ。今は頭に血が上っていてああだが、話が出来る所まで落ち着けば何とかなる」
「その作戦しかないな。しかし、ここは何のスペースなんだ?」
「敵の強襲から逃れるための隠し通路だ。私達の足元から逃げられる」
「それなら!」
リーリが頼りになる表情で頷く。
「まず外に出ろ。蓋が開けられない」
「分かった!」
何て出来た執事なんだこいつは! 安心したせいか涙が出てきそうだ。しかし、ここである異変に気づいた。
「あ、れ?」
「どうした?」
「扉が、開かない……」
扉が、どんなに力を入れても開かない。ビクともしない。
「そんなはずはない。少し私にやらせろ」
「ちょ! あんま動くなよ!」
ここはとにかく狭い。二人が向き合う形で立っているのだが、胸やら膝やらが当たる。オレの脚と脚の間にリーリの脚が入ってきているくらいだ。
「本当だ……。開かない……」
「何で!?」
「おそらくは、さっきリュカが扉を乱暴に閉めたから……」
「そんな事で壊れちゃう造りなのかよ!」
仕方ないだろ古いんだと、リーリが焦ったように言う。思わぬ事態に二人してじたばたするが、そんな事をしてもまるで事態は好転しない。それどころか、二人の熱気で小部屋の中が蒸し暑くなってきた。
「ちょ、暑いんだけど……」
「我慢しろ。私だって暑い」
額からポタポタ流れてくる汗を拭うことも出来ない。おまけに背中に流れる汗のせいで、蒸れて痒くなってきた。
「ちょっと、リーリ。背中が痒い」
「はぁ!? そんな事我慢しろ! 今はここから出る方法をだな!」
「いや、マジで痒い。悪いんだけどかいてくれないか?」
「な、に……?」
リーリの体勢ならオレの背中に手が届く。腕を回す必要があるが、こんな状況だから仕方ない。もう無視出来ないくらい痒いのだ。
「わ、分かった……」
意を決したようなリーリが、両手を広げてオレの背中に回す。自然と抱き締められる形になった。彼女の首筋に顔が当たる。少し汗をかいているはずなのに、いい匂い鼻腔をくすぐる。
「あ、もうちょい下。そこそこ」
「く、そ。これで満足か?」
「おお。サンキュー」
リーリのおかげで痒みが取れた。これで安心して脱出方法を探せる。だが、ここで一つ気づいたことがあった。ぽつりと呟く。
「リーリ、お前ってかなり背がたかいんだな」
女体化したオレは背が低くなっているが、リュカやパトリシアのような低身長ではない。しかしそれでも、おそらくはリーリの鼻の辺りまでしか身長がないのだ。そう言えば、オレが初めてこいつに会った時は執事服から男だと勘違いしてしまったが、高身長であったことも理由だったのだろう。
「え……。まぁ、そうだな。私は背が高い」
「だよな」
多分、男のオレとそう変わらない身長だ。しかし、オレとしては何と無くそう思っただけの他意のない話だったのだが、リーリにはそうでなかったらしく、
「……背の高い女は、嫌いか……?」
辛そうな目でオレを見てきた。こいつには似つかわしくないその目にドキリとしてしまう。
「いや、そんな事はねぇよ。美人の条件だし、オレ個人としても好きだ」
「そ、そうか。なら良かった……」
「え、何が良かったの?」
オレの疑問に、途端にリーリは動揺し始めた。狭い部屋の中でじたばたし出す。
「な、何でもない! いちいち言葉尻を捉えるな!」
「えー」
言い出したのはお前だろ。しっかし本当に狭い。そして、出来るだけ意識しないように気をつけていたのに、リーリが暴れたせいでそれも難しくなってしまった。
当たるのだ。胸が。オレの顔のすぐそこ、十センチかそこらのところにリーリの胸がある。彼女の元気よく健康的に張った胸は、男らしい執事服でも隠せない。今はオレが女になっているからこの程度のドキドキで済んでいるが、もし男のままこんな状態に陥っていたならば、変な気を起こしていたと思う。リーリの身体はそれだけ魅力的なのだ。もちろん、彼女の少し頑固だが誠実な性格も含めてだ。
「仕方ない。二人で一気に蹴り開けるぞ」
「え、それだと音がしないか?」
「仕方ないと言っただろう。それとも、ずっとこのままでいるつもりか?」
「う……」
それはそれでちょっと嬉しいと思ってしまうオレがいる。だが、今はここから出てリュカやパトリシアの誤解を解く方が大事だ。
「ほんじゃ、いっちょやるか」
「せーので行くぞ」
「よし。せぇーのっ!」
二人の脚と言うより膝で蹴り開けた。ガツンと鈍い音を立てて扉が吹っ飛ぶ。これはオレを探す二人に気づかれた可能性が高い。急いで脱出口に入ろうとすると、
「う!?」
突然リーリが、倒れた。信じられないという表情で傾くその身体を、背後から支えた者がいる。そいつがリーリを一瞬で眠らせた張本人だ。
「エドガー様。やっと見つけました」
パトリシアが可愛らしくにこりと笑った。
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