名前


 食事の後は、ご自由におくつろぎ下さいと言われ、オレは屋敷を探索していた。全てが魔王基準で作られているため、とにかく色んな物がやたらとでかい。その代わりと言ってはなんだが、二階は存在しないようだった。歩いてみるとわかる。広い屋敷はどこもピカピカだ。それほどたくさんの使用人がいるとは思えないが、よく掃除が行き届いている。


「お!」


 歩いていると、中庭が見えた。ここもとても広い。中央に噴水があり、多種多様な草花がそれを彩る。オレから見て右手に、屋根のある小さな休憩所があったので、喜んで座る。


「あ、そう言えば」


 オレは靴を履いていた。おそらくセルバスあたりが用意してくれたものだろう。ベッドから出た時、あまりよく考えずにそこにあった靴を履いたのを思い出した。

 柔らかな陽射しの中、陰になっている休憩所は心地良い。ここであの娘が読書でもすれば、さぞかし絵になることだろう。そんなことを考えながら、ヒヤリと冷たい石の卓に頬をあてて目を瞑る。オレに課せられた使命を思えば、随分と平和な時間だ。本当に六体の魔王が人間界を滅ぼそうとしているのか疑問がわくほどに。良い風がオレの髪を撫でた。のんきに涼しい風を楽しんでいると、


「あはは。もうダメよ! くすぐったい! あはは!」


 魔王の娘の、明るい笑い声が聞こえてきた。おそらくペットの犬とかとじゃれあっているのだろう。フランダースの犬のパトラッシュみたいな、優しい犬を想像してほんわかする。


「ダメだって! ほら、こっちおいで!」


 目を開くと、噴水の影から娘が駆けてくる。白いドレスが綺麗だった。頬杖をついて見つめる。そして彼女について現れたペットは、


 ケルベロスだった。


「いや、襲われてるようにしか見えねぇ!!」


 ケルベロスの鋭い牙の生えた口が、娘の頭を甘噛みしている。いや、甘噛みしているのはわかるのだが、ちょっと間違えると大惨事になりそう。


「あ! エドガーさま、いらしてたんですね!」


 モコモコの髪の毛が、楽しそうにオレに手を振る。オレのどの過ぎたツッコミで気づいたのだろう。


「ま、まあ、ちょっと散歩しててな」


「はい! 今日は暖かくて気持ちいいですよね」


 娘は片手で左目を隠しながら、こちらに歩いてくる。オレも立ち上がってその距離をつめていく。ケルベロスはちょっと怖かったが、そのぶん興味もあった。


「えっと、これ、ペット?」


 硬そうな針のような銀色の毛並み。三頭の頭に、三本の尻尾。脚の爪は、槍のように鋭い。オレが見上げる形になる猛獣は、どう見てもペット向きではないように思えた。


「はい。左からシラタキ、ハクサイ、ネギです」


 ん?


「今、なんて?」


 なんか妙な単語を聞いた気がした。


「わかりにくかったですか? 右からネギ、ハクサイ、シラタキです」


「いや、そう言うことではなく」


 右手で制しながら、左手で眉間をつまむ。これは、オレが間違ってるのか? それとも魔界が間違ってるのか?


「あの、ネギとかシラタキとか白菜とか、魔界にあるの?」


「はい、ございますよ?」


 あるのか。いやまて、名古屋攻めの例もある。もしかしたらネギはこっちの世界では美しい宝石かもしれない。


「あの、それって野菜かな? ごめんね、変なこと聞いて」


「いえ別に。そうですね、全てお野菜ですよ?」


 野菜だった。しかも何で鍋に入れたら美味い野菜ばっかなんだよ。


「この世界、いや、魔界では、野菜って何か神聖なものだったりするのかな?」


 オレの言葉に娘は、口元に手をあてて、クスクスと笑う。


「なんですかそれ。お野菜はお野菜です」


 決定。オレが間違っているのでも、魔界が間違っているのでもない。おかしいのはこの娘だ。


「なんでまたそんな冬の食卓シリーズな名前に……」


 あきれてケルベロスを見上げる。意外と大人しい。大してオレには興味を示さず、もっぱら魔王の娘ばかりにじゃれついてばかりいる。


「そうですね……」


 魔王の娘は、左手でネギの頭を撫でながら、右手の人差し指を口元に当てて考えている。


「どれも、わたくしが好きなお野菜だからです」


「んん……」


 言ってることは分かったが、意味がまだよく分からない。


「……初めてこの子達がうちにやってきた時、もう大分大きくなってて、私とっても怖くて。でも、可愛がってあげたい気持ちもあったので、それなら、名前だけでも私の好きな物にすればいいかなって思ったんです」


 思い出を探るようにポツポツと話す娘の言葉に、オレはやっと少し納得できた。


「そうか。なら、良い名前だな」


 思った。この娘は変わっている。明らかに変な娘だ。しかし、良い娘だ。大好きな物が野菜ってだけで、なんとも素朴ではないか。魔王の娘とは思えない。


「あ、あのエドガーさま、そんなに見つめられると、恥ずかしいです……」


「あ、ごめん!」


 思わず見つめてしまっていた。そして、ふと思う。


「ねぇ」


「はい?」


「リュカってどう言う意味なんだ?」


 気になった。この娘の名前には、どんな意味があるのだろうか。


「はい。それはですね。リュカ石と呼ばれる、魔界に一つしかないと言われる伝説の宝石からいただいております。私には、少しぶん不相応な名前ですが……」


「そんなことねぇよ」


 そうか。ならこれからは、魔界に一つしかない、一人しかいないこの娘の、大切な名前を呼ぼう。


「リュカ。良い名前だ」


 あと、良く考えると、シラタキは野菜ではない。なら何かと言われると、即答できる自信もないが。


「それと、もう一つ聞いていいか?」


「はい、なんなりと」


 ケルベロスとまたじゃれあっているリュカを座って眺めながら、オレは尋ねてみる。


「オレの右腕、怖くないか?」


 いつもしていた黒の手袋は、元の世界に置いてきてしまった。今は、緑色の鱗が陽光に照らされている。人間のオレから生えているそれは、バランスが悪く、自分の腕だと言うのに、少し不気味だった。


「いいえ? どうかしましたか?」


 芝生の上に仰向けに倒れながら、自身の頬を舐めるケルベロスの相手をしているリュカは、顔だけをオレの方へ向ける。


「いや、オレのいたせか、故郷では、恐怖の対象だったからな。ちょっと思っただけだよ」


「エドガーさまは、ご自身の右腕のことがお嫌いなんですか?」


「ああ、嫌いだね」


 こいつのせいで、散々嫌な目にあってきた。少し思い出しただけでも吐き気がするようなことばかりだ。


「そうですね……。魔界には、もうドラゴンは希少な存在になってしまっております」


「へぇ」


 ケルベロスの鼻先を手で押し返して、リュカは立ち上がる。白いドレスのすそを両手ではたく。花びらが舞った。


「かつては魔界を支配していたドラゴン。それが衰退した理由は定かではありません。ですが、今なお魔族の象徴として、絶大な羨望と憧憬を集めております。ですので、カッコいいとは思いこそすれ、怖いなどとは微塵も思いませんよ」


「……そうか」


 まっすぐにこちらを見つめながら笑うリュカを、見ていられなくなって、空を仰いだ。太陽、とこちらの世界でも呼ぶのだろうか。大してキツくもない陽射しに目を焼かれて、少し視界が滲んだ。


「さあエドガーさま! お屋敷のことはわかりましたか? 良ければ私がご案内しますよ!」


 両手の拳を胸の前で振り回しながら、リュカは張り切って言う。それも良いか。正直広すぎて、どこから探索したものか困っていたのだ。


「ああ、頼むよ」


 そう答えたその時、オレの顔に降り注ぐ陽光が、サッと遮られた。雲なんてなかったはず。そう不審に思って見上げてみると、太陽の方向から、ドス黒く、随分機嫌の悪そうな雲が流れてきていた。一気に空を埋めつくし、静かに泣きだす。あまりに唐突な天候の変化に驚いていると、


「ふむ。来たか。相変わらず耳が早い」


 オレのすぐ後ろに、魔王が腕を組んで立っていた。その巨体に似合わず猫のような身のこなしだ。全然気が付かなかった。魔王と言いセルバスと言い、魔族は気配を消すのが上手いのかもしれない。


「リュカよ。雨に濡れてしまう。こちらに来なさい」


 まだ雨は小降りだったが、黒い雲には、雷の光が見え隠れしていた。しかし、不思議なことに、降り続く雨が、一箇所のみに固まって降っている。噴水のすぐそばだけに水溜りが出来るのだ。

 リュカがオレのところまで歩いてきて、くるりと振り返る。その目は、じっと大きくなっていく水溜りを見ていた。魔王も同様だ。なんなんだ、一体。オレは訳が分からない。しかし、明らかに超常的な自然現象は、大変興味深い。その瞬間。

 カッと音が聞こえてきそうな程、辺りが白く光ったかと思うと、一条の閃光が、その水溜りに落ちた。すると、そこから、低い音を立てながら、何かが湧き出してくる。


「な、なんだ?」


 それは、真っ黒な粘土のようで、チューブから出てくる絵の具のようでもあった。ゆっくり時間をかけて、それが人の姿に変化していく。完全に人の形をかたどった時、魔王が声を発した。


「ようこそ、マミン」


 すると、


「ええ、久しぶりね」


 粘土の瞳に色が宿り、命が芽吹いた。


「いやあ、この魔法使ったのも百年も前だから、少し勝手が違って難しかったわ」


 それは、粘土などではもちろんなく、生きている人間、いや、魔女だった。

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