第4話 邂逅
イェドは少年を見送った後に、寂しさに襲われていた。
昨日まで枯れ木にしがみついていた一枚の葉が、朝起きると落ちていることを目撃してしまったときのように、時間の流れと人の営みは森を吹き抜ける風のように、この手でいくら行手を遮ろうとも手の隙間から確かに流れ去っていくと味わったからだ。
あの夏の日が過ぎてからイェドは少年を村へと行かせることがないように努めた。
秋はイェドが森の獣を狩る間に森の中で薬草を集めることを少年に課した。少年は気づいていないだろうが、イェドは少年と森の中を進む時には、村から遠ざかるために森の奥深くへと進むようにしていた。
秋のうちに食料を毛皮と万が一の薬草たちを蓄えて、寒い冬を少年と森の中で越そうとイェドは無謀にもそう考えていた。ただ単純に寒い日であれば少年は森の中でイェドは側を離れてもすぐに戻ってきたために、問題が起こるとは思っていなかったのだ。
しかし、少年があれほどまでに雪に魅了されたのはイェドを驚かせた。深く積もった雪の上は地面までの深さが判別がつきにくい。イェドは少年にそう言いつけていたはずだったが、積もった雪を見た少年のあのはしゃぎように、雪を踏みしめ跳ね回るその姿があまりにも快活だったから、イェドは強く咎められずにいた。
獣人姿のイェドを慕ってくれているからではない。ただ少年のかつてのような、いや今まで見たこともないような元気に、イェドはは深い安堵を覚えたのだ。イェドが犯した罪は、たとえ雪の白さであっても消されはしないだろう。少年はそれに気づいていた。だからイェドと共に背負うことを、その小さい体で選んだのだ。
イェドは少年の生きる意志を尊重することにした。少年がイェドとこの森を歩みたいと願うなら、それに従おうと思ったのだ。あの雪の日に頑なであろうとしたイェドの心はついに解かされたのだ。
少年は雪で昼間中遊んだのちに、熱を出し、鼻水を出し咳をするようになった。体を冷やし過ぎたためであろう。
薬草と毛皮をたくさん用意していて良かったと、この時ほど思ったことはない。しかし少年のこの不調を本当に私一人で癒せるのか。私は不安の中で持ち物で出来ることを考えなければならなかった。少年にはその顰めた顔は怒っているように見えたかもしれない。
毛皮を何枚も巻きつけて体を冷まさないようにし、汗を拭いてやり、薬草をふやかして何とか食べさせる。たちどころに良くなっているという確証はなかった。しかし少年が今日も生きているという事実が、私を勇気付けた。
日の光は一層明るく輝き、あの白い雪もこの森にはもう跡形もない。空気にはこれから萌え出る草木を支える土と水っぽい泥の匂いが確かに含まれている。
あの寒い冬は当分やってこないのだろう。
今生きている、そしていつか生まれ来る命を平等に祝福する春が、今まさにやってきているのだから。
森の中を泥を踏み締めて歩きながら、今日の薪を拾う。その中で、草原に駆けていった少年の後ろ姿を思い返す。村で元気にしているだろうか。今日ばかりは、呼び出しの笛の音は聴きたくない。
今日はしきりに森がざわめいている。木々が軋む音がする。どこかでまだ溶け残った雪があるのだろうか。
いや、違う。
木々の向こうから、幹をへし折り、泥を辺りに跳ね除け何やら巨大な影が私の方に猛烈な風の音を響かせて向かってくる。
あれは何だ。
大岩か。
尋常ならざる猪か。
当たれば私といえども命の保証はないだろう。
しかし幸いにもその猛進する塊は私のいる方向から逸れると森の幹をへし折りながら、私の前にその正体を晒す。
跳ね散った泥水が私の体にかかる。
亜麻色の天幕が四方を包み、大きな袋のような形をしている。森の中を木々をへし折り進んできたのか。
亜麻色の布に思えるそれは木々の破片が突き刺さろうとも決して破けてはいない。大きな金属の車輪が片方だけでも二輪付いて接地している。
これでこの森を走ってきたのだろうか。
天幕の中で何やらもぞもそと動く人影が見える。天井から何かが降ろされ、こちらに向かおうとするとすぐに後ろに隠れていく。
中にいるのは人間か、人の言葉が通じるのか。
「何者だ」
私はそう声を掛ける。
幕の内側から二つの声が帰ってきた。
一つはしわがれた老婆の声で、どうやら笑い声のようなものだった。
それをかき消すほど大きく聞こえたのは、先生と呼ぶ、少年の叫び声だった。
天幕が開くと、そこは見慣れた森の中でした。そして正面には毛むくじゃらの先生が立っています。
イザベラは網を外しました。
しかし駆け寄ろうとしたぼくを糸で天幕の壁に押しやってしまいます。多分ぼくの着ている服に糸が絡みつけられているのでしょう。
少年を放せと息荒く主張する先生にイザベラは動じません。恭しく頭を下げるとぼくにしたように自分の名前を先生に明かしました。
イザベラは先生のことをイェドと呼びます。
しかし人違いではないでしょうか。
先生もぼくもイェドという名前は知らないのです。先生はそんな名など知らない、人違いをしているのではないかと答えました。
イザベラは驚いた顔をしましたが、それはぼくの時のような怒りが混じったものとは違っていました。その後に何か納得したような、それでいて何かを諦めたような顔つきをしたからです。
イザベラは中指を動かします。すると部屋の暗がりから物々しい長剣が糸に引かれて出てきました。
長剣は糸で釣られているのでしょうか。宙に浮いていて、鞘は金色で火を吹く龍が描かれています。
「風読みの長、ロロ。お前はどうやら覚えていないようだが、あの老翁はお前の若かりしときの師であった。これはその置き土産だ。」
イザベラは中指を人差し指の爪先で弾きました。するとイザベラの指に巻きついていた糸がするすると先生の元へ伸びてゆき先生の毛むくじゃらの手首に巻きつきます。
糸に繋がった長剣は先生の方へと宙を漂って近づいてゆきます。先生は落ちてくるその長剣を両手で受け止めました。しかしその顔には疑問符がありありと見て取れます。しかし触ってみても特に害はないどころか、先生の毛むくじゃらの体つきにその剣は不思議と馴染んでいるようです。
「その剣に触れられるのは風読みの長ロロから指南を受けたものだけだ。そうでなければその剣は霞となって消えてしまう。これで確証はついた。」
イザベラはそう言うと指を動かし糸を操ります。
イザベラの横に座っていた赤髪の子は糸に釣られていましたが、その糸による束縛が一つまた一つと解かれていきます。最後にその首輪の拘束も外れると赤髪の子は気持ちよさそうな顔をします。
「さて、心は忘れていてもその肉は忘れていまいな。試してやれ、『猟犬』」
拘束を解かれた赤髪の子は『猟犬』とイザベラに呼ばれると、天幕の部屋から飛び出ると、先生に向かって飛びかかっていきます。
先生は、ついさっき手にしたばかりの長剣の柄をとっさに両手に持ち直し、次の瞬間に襲いかかる赤髪の『猟犬』の体当たりを剣の鞘で受け止めました。
体と金属が触れ合ったはずなのに、鋭い金属音が響きます。
よく見ると『猟犬』はその右手に黒く光る短剣を握っていました。さっきのは飛び掛かったのではなく、先生を斬りつけようとしたようです。ぼくは状況を今ようやく理解しました。
「やっぱり。その受け方はイェドの剣筋だ」
そしてイザベラが赤髪の『猟犬』と先生を戦わせようとしている事実にも。
「その調子で思い出すがいい」
『猟犬』は弾き飛ばされるとすぐに体制を整えて別の方向から斬りかかります。しかし、先生はそれをなぜか剣の鞘で的確に防ぐことができます。金属音が立て続けに響き、近すぎる音と音が共鳴して別の音を生み出します。イザベラはその光景を見て頬を綻ばせてばかりでまるで至上の音楽でも聴いているかのようです。
人と人を傷つけ合わせていることに何の罪悪も抱いてはいないのです。
やめろと声を上げようとするぼくの口を網が塞ぎました。
「これは私とイェドの問題だ。お前が口出しする領分ではないよ。そこで黙って見ているんだ」
こんなことは間違っている、そう叫びたくても出来ずに、ぼくは目に涙を溜めることしかできないのです。
赤髪の『猟犬』は何度も鞘に弾かれるうちにその体に擦り傷を増やしていきます。それでもその攻撃の手を緩めようとはしません。まるで痛みすら感じてはいないようなのです。
「おまえは、おまえの主人よりも、『猟犬』が心配なのかい。」
イザベラはぼくの目線を追っていたずらっぽくささやきます。先生はなぜか鞘から剣を引き抜かないまま、剣をまるで盾のようにして『猟犬』の攻撃を防いでいます。驚くのはその巧みさでまるでその剣の使い道を熟知しているようにその動きには無駄がなく、背後から来たと思えば足元を、足元を防いだと思えば正面を狙ってくる、その俊敏な『猟犬』の動きをまるで手の内を知っているかのように避けて、防いでいるのです。金属のぶつかる音と共に足元の泥がびちゃびちゃと跳ねます。目にも留まらぬ戦いの中で、赤髪の子はその顔に疲れを見せ始めます。しかし先生は眉一つ動かさず、身動ぎ一つしないのです。先生は一体いつこれほどまでの技を身につけていたのでしょうか。
金属の剣で奏でる音楽、その決着はあっさりとついてしまいました。先生は耐えかねたように鼻息を漏らすと、地面に弾かれ一瞬で体制を立て直そうとする『猟犬』の首筋に剣の鞘を差し向け、身動きを取れなくしてしまったのです。
「退くんだ、『猟犬』」
イザベラの言葉に『猟犬』は
「ちぇっ」
と初めて人の言葉を話しました。
先生は『猟犬』が人の言葉を使ったことに驚き、向けた剣先を慌てて逸らします。『猟犬』は隙を見せた先生に、笑いかけたようです。
先生は戸惑った顔をしました。
『猟犬』はイザベラの元へと、つまりはりつけになったぼくの近くに戻ってきます。
イザベラの前に戻った『猟犬』は不満そうな顔をしていました。赤い髪の奥の目には涙さえ溜めていました。
「もう少しであの毛ボーボーに勝てる気がしたのに」
イザベラは『猟犬』の赤い髪、その頭を撫でました。
「あの毛ボーボーは、私の古い友人なのさ。だから今は勝たせてやれないね。」
今までの非道さはどこへやら、イザベラは憑き物が落ちたように穏やかな顔つきをしています。そして呆然とするぼくの方を見て、
「大体のことは分かった。君たちが何も知らないこと、覚えていないこと。それとイェドが毛ボーボーになっても風読みの長に習った剣の使い方をきちんと覚えていたことだ」
と言うとぼくの体に巻きついた糸の束縛をいっぺんに解いてしまいます。
ぼくは呆然としながらも天幕の荷台から降ろされて、森の大地に足を踏み入れます。
そしてイザベラはそれを見届けると、ぼくに二つの大きな袋と一つの小さな袋を投げてよこしました。
一つの大きな袋にはぼくが買った見覚えのある干し肉と薬草が。
もう一つの大きな袋には毛皮の服と薄い布の服が入っていました。ぼくは村人が着るような服を着たことがなかったので、いざ手に取ってみるとその感触の柔らかさに驚きました。
最後の小さな袋には小銭が入っていました。
「最後のは『猟犬』が渡しそびれたおまえのお釣りの半分だ。もう半分は手間賃にもらっていくよ。それとイェド。勝手に袋を開けるとは、おまえのしつけがなっていないんじゃないか」
イザベラはぼくに駆け寄ってきた先生にそう不満げに言いました。
そして呆然とする僕らをよそに天幕は閉ざされてしまいます。
イザベラと『猟犬』を載せて、よくわからない幕屋は金属の車輪を回し、泥をぼくらに撒き散らすと森の奥へと走り去ろうとします。
先生が耐えかねて叫びました。
「貴様たちは一体、何者か!」
いつもなら「おまえたち」と言うのに、この時ばかりはそんな言葉を使うので、ぼくは不思議に思いました。
森の奥からイザベラの声がよく響いて返ってきました。
「『姿なき竜』を恐れよ!」
先生はその言葉を聞くと、はっと目を見開いてそのまま呆然としていました。
先生の体はもう泥まみれで、呆然と立ち尽くすその顔はまるで悪戯をされた後のようでした。しかし手にした置き土産の剣の金の鞘には、不思議なことに泥が全くついておらず、あんなに『猟犬』の剣を受けたのに、傷も擦り減った後も無いのです。火を吹く竜の眼は暖かい日の光を浴びて輝いています。
イザベラたちが去っていった森の方向を見ても車輪の轍はすぐに泥に埋まってしまいどこに行ったのかはもう分かりませんでした。
ぼくと先生の春はこうして幕を開けたのです。
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