第3話 その名は「猟犬」
ぼくは肉屋の方をようやく向きました。
肉屋の女の人はとっさに腕を構えていて、どうやら驚いただけで怪我はしていないらしいようです。
肉屋の店先、そのカウンターの上に何かが蹲っています。
ウサギよりは小さくはなく、かと言って犬や狼ほど大きくもない体格をしています。
手にはぼくが置いていった釣り銭でしょうか。
小銭が握られています。
そして、ことさら目を引くのは赤い髪でした。
赤い前髪が顔をすっぽりと隠しています。
でも赤い前髪から透かして赤い目が光っているのが見えるのです。
「子ども?」
赤い髪の奥の目と、ぼくの目が合いました。
その瞬間、ぼくは二つのことに気づかされます。
一つは、その目が猛獣のようにぎらついているということと、
もう一つは、どうやらぼくと同じくらいの歳の、やはり子どもらしいということです。
赤髪の子は口を開き、犬歯をむき出しにして一声威嚇します。
確かに人間の声なのですが、それはあまりにも野性を感じる音でした。
赤髪の子が動くたびにジャラジャラと金属の音がします。
どうやら首輪をしていて、そこから金属の鎖が伸びて、馬車の中に通じているようなのです。
人間の、それも子どもを扱うにはあまりにむごいあり様にぼくは呆然としてしまいます。
それに加えて、あの子は確か「猟犬」と呼ばれていました。
名前を持っていないのでしょうか。
ふと、何かが動く音がすると、馬車の亜麻布が揺れて、その隙間から薄暗い内部が見えます。
薄暗い馬車の中では老婆が赤い毛皮の絨毯の上で一人胡坐をかいて座っていました。
その手には何か細いものが幾重にも巻きついて、日の光に透かされて白く光るそれが糸だとようやく分かります。
老婆はぼくの顔を見て、そして首筋を見ました。
そのシワが畳まれた眼に、ぼくは何か吸い込まれるような恐れを感じて、引き下がろうとします。
けれどいつしか下げられていた馬車の天幕が背中に当たり、逃げ場のないことを示すのです。
老婆が左手の小指の先を引き上げると糸がキリリと音を立てました。
「笛」
老婆は呟くように言いました。
「その笛だ。見つけた。お前がイェドの子だね」
老婆は左手をまるで手招きをする様に動かしました。
「来な」
老婆が手を後ろに引き抜くとぼくの体は背中の天幕に押し上げられるようにして馬車の中に引き摺り込まれてゆきます。
手にした干し肉と薬草の入った袋をぼくは落とさないように咄嗟に胸に抱えました。
「なんだ、あんたは一体誰なんだ」
恐怖に苛まれながら発したぼくの言葉に、老婆はそのシワだらけの顔に満面の笑みを見せて、ヒャハハハと笑い声を出しました。
そして馬車は動転するぼくの心をよそに走り出したのです。
鎖がジャラジャラとなる音がします。
見ると赤髪の子が馬車の荷台の中に滑り込んでいました。
馬車が走り出してしばらくの時間は、ぼくと老婆は口をつぐんで、そのまま睨みあっていました。どちらかが根負けして話し出すまで、どちらも口を開こうとしなかったためです。
老婆はため息をつくと、観念してこう話し出しました。
「私が誰か。お前はそう聞いたね。答えてやろう。私の名はイザベラ。オーシュタイン・フォン・イザベラ。オーシュタインは湖畔の名前。領土の中で一際大きい湖から取ったのさ。間違えてオーシェタインと呼ぶんじゃないよ。オーシェタインはポロロッカ島の汚い港の名前だから。」
「ポロロッカ島!」
ぼくがそう叫ぶと、うるさいねと言いながら、老婆、じゃなかった。オーシュタイン・フォン・イザベラは糸の絡まった指を動かします。
ぼくは亜麻色の天幕のようだと思っていた幕の一部に、頭から足の爪先までを包まれてしまっています。
本当は幕の一部ではなくてそうカモフラージュした捕獲用の網らしいです。
顔だけ出させてくれているのは彼女の温情でしょうか。
イザベルが指を動かす度に幕の締まりがきつくなります。
彼女のご機嫌を損なった罰らしいです。
網は体にぴっちりと巻きついて身動きが全く取れず、笛も網の内側にあって取り出せません。
それでもどうにか自由を取り戻そうと体をくねらせてみても全く効果がありません。
でも、ポロロッカ島の名前をイザベラが知っているとは思いませんでした。ポロロッカ島とはポロロと鳴くポロロ鳥の名前が由来の国がある島で、魚のような形をしています。
ぼくはそれを、ここから遠い村の商人の話を盗み聞きしてようやく知ったのです。
「懲りない子だね。」
イザベラが指を動かすと、ぼくの体ごと網が上昇します。
金属の天井に頭がぶつかりました。グワンという音のような感覚と痛みを感じ、世界が揺れます。
「私はお前を逃すつもりはないよ。イェドに会うための生命線だからね。」
イェド。
イザベラはイェドという人に会いたがっているようで、そのためには手段を選ばないようです。
でも、なぜぼくがイェドという人と関係があるのでしょう。
「イェドって誰です」
そう言うとイザベラは目を丸くしました。
そして顔中のシワを一層深くすると乱暴にもその両手で握り拳を作りました。
無数の糸はそれに連動して動きます。
馬車の中はイザベラの張り巡らせた糸の伝線でいっぱいで、老いた彼女が指の動き一つで生活できるように細工がしてあるのです。
イザベラは自分の足では歩けなかったからです。
糸によって馬車を動かし、棚の引き出しを開け閉めして中のものを別の糸を使って引き寄せたり、服を着替えるのも糸を使っているらしいのです。
そんな彼女が感情に揺さぶられて咄嗟に握り拳を作るとどうなるでしょう。
まず、御者の糸が動いて馬を鞭打ち、その足を早くさせます。次に、引き出しの中の大きな袋やら小瓶が彼女のもとに集まります。
あの赤髪の子が鎖が引き寄せられて老婆の側に連れてこられます。
そしてぼくは天井に張り付けにされるのです。
「やっぱり!あの甲斐性なし!自分のものに所有者の名前くらいなぜ教えない!」
イザベラはまるで少女のように喚きます。
暴れ馬は村境を突破して、どうやら草原を走り始めているようでした。
他の村に向かうのでしょうか。
もし他の村に行ってしまったら、先生はぼくの居場所を果たして見つけてくれるでしょうか。
ぼくは呼び出しの笛も吹けないのです。
先生が、どうやって姿も見えず声も聞こえないところにいるぼくを見つけられるでしょう。
悲しくて、涙が溢れ始めました。
赤髪の子は赤い絨毯の上に座ってなぜかにんまりと笑ってそわなぼくを見つめています。
肉屋の前ではあんなに凶暴そうだったのにこの馬車に入った途端大人しくなりました。
見ると丈夫そうな毛皮の服を着ています。
イザベラがあの凶暴さをどうにかしてしまったのでしょうか。このままイザベラと共にいたら、ぼくは今のままで居られるのでしょうか。ぼくは怖くなりました。
怖くなって、今出せる精一杯の声で先生、と叫んだのです。
笛の音が届かなくても、もしかしたらこの声は届くかもしれないと信じて。
その声はあまりにうるさかったのか、赤髪の子は両手で耳を塞ぎます。
腹に据えかねたイザベラは怒ってぼくの髪を掴むと耳元でこう捲し立てました。
「うるさいよ!いいかい?今からこの森にね、この馬車で突っ込むんだよ!」
イザベラは赤髪の子を見やり、何やら目配せすると、赤髪の子はうなずきました。
イザベラは握り拳にした両手をぐいっと引き寄せます。
強い衝撃が馬車のテントを揺らします。体が天井に強く押しつけられます。
見るとイザベラの細い腹に赤髪の子はしがみついています。
天幕の入り口は全て閉じてしまい、外は全く見えません。
でも不思議なことにこの部屋の上下左右の天幕全てが、日の光を透かして亜麻色を見せているのです。
次の瞬間襲った感覚にぼくは何が起きつつあるのかを理解しました。
落ちている。
どうやらイザベラの糸さばきで上空に打ち上げられたこの荷台は森の中へと向かって落ちているようなのです。
なんて馬鹿なことをするのだろうと、ぼくは自分も落ちていくのだということも忘れて、ただ呆気に取られていました。
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