第2話 回想と恐怖
私が「猟犬」と出会ったのは、はていつの頃だったか。
花が勝手に咲いて散ることに別に感傷的にはならないからねぇ。
季節がいつだったかはもう覚えていない。
「猟犬」を初めて見た場所がかなり暗い所だったから、もしかしたら夜だったのかもしれない。
そういえば風の音を聴かなかった。
だから、もしかしたら屋内だったかもしれない。
でも、そんなのは些細なことだ。
ただはっきりと覚えているのは、この「猟犬」こそは、私が初めて人様から金品なしに奪った「商品」だってことだ。
「猟犬」はよく鼻が効く。
「猟犬」は夜に目が効く。
「猟犬」は私の命令に従順だ。
そしてなによりも、「猟犬」は強い。
罪を犯すに足る、良い買い物だった。
朝を晴れやかに起きて、とてもいい気分でお出かけに出たのに、目的地に着いた途端土砂降りに降られたような。
ぼくは今そんな気分です。
もちろんぼくは意気揚々と草原を越えてやってきました。日の光は暖かく、草の青々とした香りが鼻をくすぐり、とても心地が良かったからです。
でも、まさか村の前に検問所があり門番が一人立っているとは思いもしなかったのです。
門番に聞けば警備が強化された結果だと一言返すだけでした。
「最近のことたが、そう遠くない村で殺人があった。殺され方も人間の手技じゃない。森から猛獣でもやってきたに違いない。きみも気をつけた方がいい。」
門番の推察にぼくの心臓は高鳴りました。
しかし、知らん振りをしてそのまま通り過ぎようとするぼくを門番は横目で確かに睨んでいました。
「君は草むらから出てきた。あの森を抜けてきたんだ。何か、知っているんじゃないのか。」
ぼくはそのまま通り過ぎました。
何を言っても裏目に出るような気がしたからです。
あの夏の終わりを知らせる大雨が降った日のことが思い出されます。
ぼくは干し肉を買いに森を抜け街に出てきていました。街はレンガで敷き詰められていても人の気配は全くしません。どうやら廃墟らしいと分かった頃にはもう遅く、街の中心部まで歩いてきてしまいました。
廃墟にも人間はいました。
けど、良い人々ではありませんでした。
影で囁き、つけまわし、傷つけ奪い去ろうとすることを営みにする人々。彼らは廃墟に迷い込んだ旅人の身ぐるみを剥いで生活するあまりに奇妙で危ない人々でした。
ぼくは彼らに追い回されながら、廃墟の中で逃げ場がじわじわと減っていくことを実感しました。
廃墟の街はまるで迷路のようで、何度も行き止まりに当たりそうな構造をしています。自分の今いる場所が一体何処なのか、逃げ回っていることに本当に意味はあるのか、絶望に襲われるたびにぼくは無意識に先生から託された呼び出しの笛を吹いていました。
先生はぼくが笛の音を何度も吹くことに、そしてその音が次第に弱まっていくことに、強い焦りを感じたらしいのです。
呼び出しの笛の高い音はたとえ音が小さくても先生の毛むくじゃらの耳には聞こえます。ぼくはそれを知っていました。知っていてなお恐怖に抗えなかったのです。
追手に捕まると、何度も頬を殴られ腹を蹴られ、朦朧とする意識の中でも強い痛みが体を走るたびに揺さぶり起こされるような覚醒を繰り返します。
その反復もいつしか止んで、ぼくは冷たくなる体温と痛みに呻いていました。
先生は雨の降る細い路地でうずくまるぼくを見て、ついに普段の正気を失ってしまいました。
あの廃墟でぼくを追い回していた人々は全部で何人だったのでしょう。
ぼくは覚えていません。
でも少なくとも二人。
二人はぼくの目の前で死んでいました。
先生が殺したのです。
ぼくがこの場所は廃墟だと気づくことがもう早かったら、そもそもあの街にぼくが入らなかったら、きっとあの人たちは死なずに済んだのです。
でも一方では先生は彼らを殺す罪を犯してまで、ぼくを生きている側に残しました。それを忘れることはできませんが、ただ受け取って生きることしかできないというのは、ぼくをひどくやるせない気持ちにさせるのです。
村に着いた時のぼくの仕事は二つだけです。
毛皮を商人に売って、お金にします。
その手に入れたお金で干し肉や薬草を買います。
これでおしまい。
あの街に入るまで簡単にできていたことなのに、そして今日という日はこんなに心地がいいのに、その仕事をするぼくは変にどぎまぎしてしまいます。
毛皮を受け取り代金をくれる商人の目の奥に、そして干し肉を売る女の人の目の奥に、何かぼくの窺い知れないものが淀んでいるような気がしてなりません。
子どもが毛皮を持ってきた驚きに、子どもが干し肉を買っていく安堵の笑みに、そのにこやかな表情の奥にきっと冷えた感情が眠っているように思えてしまうのです、
とにかく背後を見せてはいけない、そんな強迫観念がぼくを支配して、嫌な汗が流れます。毛皮の商人はぼくの後退りに不審そうな目つきを向けました。その冷えた目が恐ろしいから、ぼくは顔を背けてしまいます。
村でするお仕事は果たしてこんなに苦しいものだったのでしょうか。ぼくは干し肉と薬草をようやく手にするとそのまま干し肉売りの女の人からお釣りももらわずに走り去りました。
「坊や、お釣り!」
その柔らかい声にぼくの駆け出した足は安堵し、はたと止まります。それでもぼくは振り返れません。
振り返ったその時に、いったいどんな表情が待っているのだろうと、その声と真実の落差を考えるとあまりに恐ろしく感じるのです。
耳に聞こえた声の柔らかさからその人が善良なものだとはもう信じ切れない自分が心の中にいるのです。
立ち止まるぼくの横に突然砂埃を上げて馬車が停まりました。
その時、馬車の中からでしょうか。
しわがれた、でもやけに力のある老婆の声がしました。
老婆の声は確かに笑っています。
「お前がいらないと言うのなら、私が貰っていくよ。」
カチンと何かの仕組みが動く音。
肉屋の女の人の悲鳴。
金属の何やらジャラジャラと鳴る音。
それが次々と顔を背けたぼくの耳に、否応なく入ってきたのです。
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