イェドと少年
遠影此方
第1話 薫風
むかしむかし。
ずっとむかしのことでした。
この地に生きる全ての人間の祖先はオルトードという民でした。
オルトードの民は遥か昔に大きく栄え、しかし没落した一族です。
没落した理由は分かりません。隣人づきあいが悪かったのか、それか病気にでもなったのか、はたまた住む土地を追われたのか。とにかく今生きるぼくらはその末裔に当たるそうです。
没落したオルトードの民はこの世界で一番高い雪山を一団となって登ってきたといいます。住み慣れた土地にはもう住めなくなり、新天地を探す旅をしなければならなかったためです。
しかしオルトードの民はやっと着いた頂上で喧嘩して、三つの民族に分かれてしまいました。彼らが新天地と定めて夢見心地に目指した地、すなわち僕らが今住んでいるこの土地は、来てみれば今のように豊潤な土地ではなかったからです。その喧嘩は七日七晩続き、雪山は頭の上で人々が起こす喧嘩にほとほと呆れてしまいました。
それからはもう喧嘩なんてしないで寄り集まっていなさいと、喧嘩をした時期になると末裔のぼくらにも冷たい風を吹きつけるようになったらしいのです。
おかげでぼくは耳が赤くなり鼻からは鼻水が垂れくしゃみをしたり咳をコンコンとするとしまいには熱を出してしまいもう大変なありさまでした。
先生は、
「それは雪の中を一日中駆け回っていたお前が悪い」
だの、
「我らの祖先たる雪山に怒るな」
などとうるさいのです。
それよりも
「体を冷やすな」
と秋のうちにたくさん狩った獣の毛皮で、もこもこの布を何枚も作ってくれました。作ってくれるのはまだ良いのですが、先生はぼくの体にその毛皮をぐるぐる巻いて身動きを取れなくしてしまいます。これでは手足がもこもこに邪魔されて満足に歩けません。
先生はしょうがないからとぼくをおぶってくれました。しかしこれではまるでおくるみの中の赤ちゃんのようで、ぼくの気分は良くなるどころか、恥ずかしさで一杯になっていました。
夜になれば焚き火にずっと当たっています。炎の先にほのかに輝く白い雪はあんなに綺麗なのに、先生だけ触れることができて不公平だとぼくは怒りました。そのときの先生は(大人なのに!)子供のようにむっとして、そばにある雪を一掴みすると、ぼくのおでこに押し付けるのです。
「ごちゃごちゃ言うな、鼻垂れ小僧!」
雪の日の先生はいつもよりなんだか怒っていました。多分川が凍ってしまうからでしょう。川が凍ると飲み水を手に入れるのにも一苦労するのです。
先生は鍋を使って秋のうちにぼくが森で採った薬草を、雪から溶かした水を焚き火で温めたお湯でふやかして、さじで掬って食べさせようとしてきます。薬草の味はこの世のものとは思えないほど苦く、飲み込んでも口の中にじんわりと味が残るのです。なのでぼくは薬草を食べるのを嫌がり、精一杯抵抗しましたが、先生は毛むくじゃらの腕力でぼくの頭を掴むのです。
勝敗は目に見えていました。
隙を見て吐き出そうとするとちゃんと飲み込めと叱られます。ぼくはそんな生活を続けているうちに、あんなに好きだった雪さえだんだん見るのが嫌になっていきました。
しかし、とうとう鼻水も咳も出なくなると、先生はもこもこの毛皮をぼくからようやく外し、自由に動いてよいと言いました。
そのときの喜びはとても言葉では言い表せないほどです。言葉では言い表せないので、ぼくは森を駆け回ることで先生に示して見せました。もうこの野ウサギのような心を縛るものは何も無いのです。
木々の中を走りたいだけ走れるし、幹にも登れるだけ登れるのです。
ただ残念だったのはそれまで見飽きるほどに積もっていたあの雪がすっかりなくなってしまっていることでした。
しかし一面に積もっていた雪が溶けると、そこにも新たな楽しみは眠っていました。春の森は辺り一面が泥のぬかるみでいっぱいになるのです。
雪と違ってお日様の暖かさを泥は残しています。裸足を踏み入れるとほのかに暖かく、足裏をぬちゃぬちゃした泥が優しく包んでくれます。
寒い冬を抜けると、全身で触れるもの何もかもが暖かくぼくを迎え入れてくれるのです。きっとこれが春なのでしょう。
どろんこになったぼくは川の流れに体を預けて体の泥を落としました。雪が溶け出した頃は流れも早く近づきにくかった川も、陽気に当てられてさらさらと心地よい歌を聞かせてくれます。冷たい水も心地よいのですが、ぼくが川で一番好きなことは水面に自分の姿を映してみることでした。
川の水面もそうですが、ナイフだったり、とにかく光ってツヤやかなものは不思議なものです。いつもは透き通ってここにいないかのように振る舞うのに、ふと誰かに覗き込まれたら驚いて、覗き込んだ人の顔を映し出します。
笑って見せたら笑い返してくれるし、膨れっ面をしたら膨れっ面で返してきます。まるでもう一人の自分がその向こうにいるようで、うれしいような怖いような気持ちになります。
でも、触れようとしても触れることができずに、水なら波が立って消えてしまうか、ナイフだったら触ろうとしたこっちが痛い思いをします。
痛い思いをするとあっちの彼も痛そうにするから、きっとこちらの気持ちも分かってくれているのでしょう。一度、ぼくのいるこちら側に来てくれないでしょうか。身振り手振りは完璧だけど、いざ話してみたら別人かもしれません。向こうのぼくはこちらのぼくと違って暴力的かもしれないし、そもそも好きじゃないから出てこないのかもしれないのです。
でも、どうしても一度でもいいから会ってみたいのです。会ってみなくては、話してみなくては、見ているだけでは何もわからないのです。向こうにぼくを見つける度に、ぼくはそう願ってみます。そうすると言葉は届かなくても、気持ちは届いているような気がするのです。
先生は暖かい日の光が好きなのでしょうか。日向ぼっこをしているとときおり気持ちよさそうに目を細めます。ぼくも真似して目をつむってみますが、それでもっと心地よくなるということにはなりません。先生が毛むくじゃらだからそう感じるのでしょうか。
先生は猫のような顔つきをしているのに、大きな体つきをしている変な人です。毛むくじゃらなのに同じくらい毛だらけの狼や兎を捕まえて殺して肉にしてしまいには食べてしまいます。先生はぼくの話す言葉が分かり、ぼくも先生の話す言葉が分かります。先生はよく自分を人間だと強く主張します。姿形とは別にもっと本質的なところで獣ではなく人間なのだと力説します。ぼくにはよくわかりませんが、先生にとっての大事な哲学なのでしょう。
先生はぼくが遠くに走ると追いかけてきます。はぐれるといけないと言われます。ぼくは先生から呼び出しの笛という笛を貰っているのに、森の中でも滅多に吹いたことがありません。ぼくが笛を吹くときははぐれたときか、ぼくの身に危険が迫っているときなので、吹かないでいることはいいことなのです。ですが雪が降ってぼくがはしゃいで、鼻水を出してからというもの、先生は付きっきりでぼくの面倒を見ようとします。雪が辺りに見えなくなってもそんな調子なので、ぼくは先生の心配性に困り始めていました。
ある日、久しぶりに木々の隙間から野原が見えました。野原を越えれば村があります。蓄えてきた食料も残り少なくなり、ぼくは野原を越えて村に向かうことを先生に告げました。
「危ないと感じるその前に笛を吹け」
「先生もぼくが笛を何度も吹いても、慌てないでそっと来てくださいね」
ぼくも先生もあの雨の日を二度と繰り返さない。ぼくらは決意に満ちています。
少年が村につくその前に一つの馬車が村についた。
亜麻色の布を天幕にして草叢を越え、畑を越え、人の住む村の地をその隕鉄は踏みしめる。
馬の上にはそれを操る御者はいない。
ただ奇怪な金属と木の塊が馬の背に付いている。天幕の中の人間がその指に巻いた糸を引くと奇怪なその塊はキリキリと音を立てて引き締まり、先端に結えた鞭が馬の腹を打つ。
見物にやってきたごろつきは、御者がいないのをいいことにその馬を奪おうをしていた。しかし、急に馬がひとりでに嘶いたので驚いた。
天幕の奥、その薄暗がりで馬を操る青い眼は淡く光る。
『さあ「猟犬」、お前の獲物だよ』
しわがれた声が指で糸を引くと錠の外れる音がした。
馬の背に乗ったごろつきの男は、背後にいるものは老いた声だけど慢心していた。
いや、慢心せずともごろつきの反応は遅過ぎたのであろう。
背後からの奇襲は鉄砲玉のように男の背を撃つと、そのまま馬から転げ落とした。
奇襲者は地面に倒れた男をみやるとしてやったりと笑った。
赤く長い前髪が揺れる。
爛々と輝くその眼は狼のようにぎらついている。
痛みに呻く男は目を開き、なにが起こったかを理解する。
そして不可解に目を見開いた。
大人の男を、子どもが体当たりだけで弾き飛ばしたのだ。
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