第五十三魂

彼らなりの答え


石になったように体が動かない。 ひかりはただ、顳顬こめかみの辺りに汗が伝い、それが頬へとくすぐるように流れていくのをかすかに感じていた。言い合いにばかり気を取られて、まるで気がつけなかったが、一体いつから彼はそこにいたのだろうか。頭上から降ってきた大声に怯みつつ、その目を見つめる晄。しかし彼は、晄の方になど一切目を向けず、廊下で苦虫を噛み潰したような顔をするひかるの方にだけ目を向けていた。


「なんだよ。お前には関係ないだろ。」


地に這うような低い声が、リビングに響き渡った。エレッタに負けるかと目付きを鋭く彼を見つめる洸。晄は、その視線から逃れるようにエレッタだけを見ていた。


「貴様らの幼稚な口喧嘩なんぞ聞かされた我の身にもなれ。中でも特段、貴様の浅はかな言い分なんぞ聞けたものでは無かったわ。」

「浅はかだと……!?」


エレッタは、冷めた目をしたと思えば、そう静かに言い放った。瞬間、ダンッと音を立てて床が揺れる。ビクリと体が飛び跳ねるのを感じる。まずい。晄は直感した。嫌な予感に振り返ってみれば、吹雪のような寒々としたエレッタの目と違い、溶岩のような怒りを目に宿す洸が、そこに立っていた。


「俺の発言のどこが浅はかだって言うんだ!」

「貴様はあくまで自分の胸の内にある苛立ちをぶつけているだけだ。会話などする気もなければ、ただ相手を言い負かそうとするだけではないか。

そんな卑しい感情にばかりまみれた言葉の、どこが浅はかでは無いと?」


エレッタは相変わらず冷めた目で洸を見下ろしている。ただの怒りや簡単な嫌悪感はそこにはなく、浮かび上がるのはまさに、“軽蔑”の二文字であった。洸は、そんな彼の視線の意味に気がついていた。気がついてはいたが、彼にとってはそんなことはどうでもいいとすら思った。彼からすれば、エレッタが目で訴える感情より、自分のことを貶し、晄のことをどうとも言わない彼の言葉の方が余程いけ好かなかった。


「仮にだ……あくまで仮に俺が浅はかだったとしても、それは、こいつも同じだろ?」


彼は、自分が優秀であるかどうかなどどちらでも良いのだ。あくまでも、自分が晄よりも上の存在であるということを、周囲に認めさせたいだけなのだ。例え、自分が下位二番目であったとしても、最下位が晄であればいいし、事実そうであると確信している。それが、雷電らいでん洸という男だ。

それ故に、自分が浅はかではない証拠を探して示し出すよりも、晄も浅はかであり、その質は彼女の方が低いのだと認めさせることの方が余程簡単な事だと、彼は確信していた。しかしそれはあくまでも、エレッタ以外を相手にした場合、ではあるのだが。


「少なからず、此奴は始め貴様に好意的に接していた。貴様が不快にならないような言葉を、此奴なりに探っていた。これが、思慮にかけると?」

「えっ。」


エレッタが言い終えた時、胸の辺りから小さく短く声がしたのを聞くと、長らく洸の方に向いていた視線を晄に移した。彼女は、驚いた顔で彼を見ていた。ただ、その目には僅かに嬉しそうな輝きが映り込んでいるようにも思えて、彼はあまり悪い気がしなかった。


「なんだ、思ったことを言っただけだぞ。」

「あ、いや、だって、エレッタがあたしを褒めるなんて……」

「ああ、そうか!……やっぱりお前はこいつに付くんだな。」


先程よりも随分と明るい晄の声を覆い隠すように、洸は嗤いながら言った。しかし、目は相変わらず怒りの色に染め上げられている。下手に釣り上げられた頬がその目を狂気的に演出するのを、晄は兄弟であることも忘れてただ不快に思った。

流れる沈黙。台所から聞こえてくる、水の流れるジャアジャアと騒がしい音だけが辺りを支配した。リビングへの扉を隔てて対立する二人は、その音が別世界のものであるかのように、互いだけを睨み合っていた。一体、いつまでこんなピリピリした状態でいなければならないのだろうか……。晄がそうして嫌だと感じていた時、彼女の視界の中心にいた橙色の目が、サッと脇に逸れた。洸が先に目を逸らしたのだ。


「ハッ!バケモンなんかと暮らしてる段階でたかが知れてたな。」

「は。」

「お前らとはもう話したくない……俺の部屋には来るんじゃないぞ。」


吐き捨てるように言いたいだけ言って、洸はそのままその場を立ち去った。彼の口から最後に投下された爆弾が頭の中で起爆しそうで、晄は後を追って言い返してやりたかったが、バケモンと呼ばれ侮辱されたはずの当の本人に肩を掴まれ、引き止められてしまった。


「止めておけ。」

「だってあいつ!」


晄は、珍しく怒っていた。バケモン関連のことを除けば、晄は滅多なことで怒らない人間であるにも関わらずだ。エレッタに馬鹿だの阿呆だの言われた時も、ゴキブリのバケモンに脅えた木葉このはに首へ縋りつかれて絞められた時も、ヴァノが店に押しかけて店に迷惑をかけた時ですら怒らなかった。

晄はかなり寛容だが、洸は、そんな彼女の神経を逆撫でするようなことを山ほど言ってのけたのである。そんな数々の言葉を受ければ当然とも言えるだろうが、それらを吐いてきた洸に殴りかかってやりたいと思うほど、晄は激高していた。肩を掴んで来たエレッタに、晄はその怒りを訴えるつもりで見つめる。彼女の目がゆらりと溶けるように動き、零れおちそうになるのを見て、エレッタは珍しく目を見開いた。鼻を見れば、時折すんすんと動いているのが見える。それを見ているうちに不思議と、彼の脳裏に幼い頃の彼女が映し出されていた。まだ戦士となってすぐ、バケモンを恐れていた時の彼女の姿が。


「……関わるな。もう良い。」


元から、特別仲が良い兄妹ではなかった。だが、ここまで仲が悪くなり始めたのは、晄がまだ、エレッタの脳裏を過った姿ほどに幼い頃だった。今でこそ晄は、闇夜に轟き空を真っ直ぐに裂く雷のような激しい光に例えて支障ないが、当時の晄はせいぜい、燭台の上でぼんやりと部屋を照らす弱々しい光に過ぎなかった。

洸は、自分が戦士になるのだと確信していた。事実、彼の両親、当時生きていた祖母、三葉町みつばちょうに暮らすほかの住民達、果ては後に戦士になる晄ですらそう思っていた。しかし、実際に水晶に選ばれて戦士になったのは晄だった。それも、せいぜい一般的な小学三年生に毛が生えた程度の身体能力では水晶の力で増幅させる身体能力にも限界があったし、それを抜きにしても、目の前で父親が酷い損傷を受けたのを見た直後だった当時の彼女は、戦闘への恐怖がなかなか抜けきれず、いざと言うところで失敗を繰り返していた。

そんな態度だった彼女がどうにも気に入らなかったらしい。洸が晄に嫌味を言うようになったのはその時からだった。


「かかわ……うん、そうだね。」


流石に言い過ぎではないか。晄はエレッタにそう抗議しようとしたが、その最中、晄はその言葉を打ち消した。『関わるな。もう良い。』だなどという言葉に、晄は何故か身が軽くなる思いがした。これまで、彼に言われた様々な嫌味の言葉に耐えてきた。毒針だらけのその身に触れて心を通わそうと努力して、その度に失敗してきた。双子なのだから仲が良くあるべきだと、そんな周囲の認識がさらに彼女の首を絞めてきた。だが、それらももう良いのだと、許されたのだと、そう思えた。



――この瞬間、晄の中で何かが吹っ切れた。






三葉町にやって来た日の夕飯に、洸は現れなかった。わざわざ彼の部屋に夕食を運ぶ母の後ろ姿を目で追いかけながら、晄は自分が原因だと何となく察しがついた頭で箸を運んでいた。

翌日の八月十三日、長らく会っていなかった同い年の幼馴染みが家を訪れた。そのまま彼女の家へ連れられると、歳の近い他の幼馴染み達が出迎えて来た。そこでだべって過ごしながら、十五日にあるという花火大会の話を聞いた。晄を家まで迎えた彼女……小萩こはぎに、晄が戦士になった場にも立ち会ったもう一人の同級生である蒼太そうたと共に、その花火大会に行かないかと誘われ、晄はその場で約束を取り付けた。結局その日は、洸と話さなかった。

その翌日の八月十四日、晄はエレッタと共に早朝から起き出して、家からさほど離れていない寺へ墓参りに向かった。天気の良かったその日は、そのまま通り道にあった昔遊び場にしていた公園へ立ち寄って時間を潰した。エレッタに呆れられながら遊具で遊んでいると、いつの間にやら昼過ぎにまで時が進んでいた。流石に腹も減ってきたと、晄はようやく家に帰る気になったらしい。そこまで長くはない岐路を、ずんずんと進んで行った。


「よく疲れないものだな。」

「えへへ。まぁ、さすがにちょっと疲れたけど。」


家の少し手前にある大きく急な坂道を登りながら、晄はへらりと笑いながら言った。ブランコを漕ぎ続けた足では少しばかり応えるものがありそうだが、戦士としての活動が故か、そんな様子はさほど見られなかった。しかし、やはり八月の真昼間となればその暑さは一級品だ。じわりと額から汗が溢れるのを感じて、手を団扇代わりにぱたぱたと扇いでみせる晄。一方のエレッタは、バケモンの体が故にどうとも感じないらしい。涼しそうな顔でその左隣を歩いていた。


「エレッタぁ、ちょっと反対来てくれない?」


ひしゃげたようにぐったりとしながら、自分の右側を指さして晄が言った。歩道と車道を隔てる白線が、陽の光を反射させてはくはくと輝いている。はて、車道側に立てということだろうか?わけが分からず、エレッタは首を傾げた。


「何故だ。」

「えーっと……エレッタ大っきいし……ごめん、日除けにしようとしました……」

「……はぁ。」


大変に失礼な要求をしていたことに気がついて、尻すぼみに声が小さくなっていく。心做しか小さくなったような晄の、帽子すら無い頭を見下ろしてから、エレッタは静かに立ち止まると、さっさと要求通り晄の右隣に移動した。


「まあ、良いだろう。」

「……ありがとう!」


にやにやと、そして嬉しそうに晄は笑った。しかし、エレッタが日向側に来たとて、彼女の顔は十分昼の日差しを受けている。はたして意味があったのか、と疑問に思いながらも、本人の気が済むならまあいいだろうと、彼女の歩幅に目をやりながらエレッタは足を動かした。


「……」

「暑いねぇ……。」


やはりエレッタが日向側に立ったところで結局、晄の体感温度はさしてかわらなかったようだ。未だ彼女は、手をせわしなくぱたぱたと動かしている。しかし、熱を感じないバケモンの体ではそれがどれだけのものなのかも分かってやることも出来ず、やるせなくもどかしい気分だった。何となく自らの手に触れてみたところで、ザラザラとした皮膚の触感は感じられても、それが温かいのか冷たいのかは分からない。実際に自身がはっきりと温度を感じたのも、まだバケモンとして感情の持ち主から分離する前の……千年は超えるだろう程に古のことだ。

そして本来ならば、それほど昔に死んでいる人間。ソウルブレイカーのおかげで、その魂の一欠片が未だ輪廻の輪からはぐれて現世を彷徨い続けている。そのはぐれこそが、エレッタという存在。所詮、人間未満のバケモンなのだ。


「エレッタ?」

「……な、んだ。」


前触れなく声をかけられて、エレッタはようやく我に返った。前をみれば、心配そうにこちらを見上げる晄がいた。汗でまとまった前髪から覗く眉が、少しハの字に歪んでいる。そこまで発汗するほどの猛暑なのか。汗をかかない体をひっさげながら、本題でもないにも関わらず、エレッタはそんなことに注目していた。


「エレッタ、もしかして熱中症なった?」

「なにを馬鹿なことを。我はもう人間ではないのだぞ。」

「あ、そっか……」


突然にかけられた見当違いの疑い。心配そうな顔はそういうことだったのか。エレッタは一人納得すると、さっさとその心配が見当違いだと言ってのけた。そうは言われたものの、エレッタからしてみれば晄の方が心配だった。はて、人間はどれほどの暑さまで耐えられたものだっただろうか、実は既に辛いのに、我慢をしてやり過ごそうとしたりはしないか……。すっかり思考がいつも通りのものに切り替わっていたエレッタだったが、しかし晄からの視線はますます存在感を増す。疑いは晴らしたはずであるが、まだなにかあると言うのだろうか……?べたべたといつまでも離れず無視しきれなくなった視線に、エレッタは自分の視線をかち合わせた。


「まだ何かあるか。」

「……、エレッタ、やっぱ気にしてるんじゃないかと思って。洸の言葉。」


予想だにしなかった彼女の発言。聞いた途端何故か驚きだけでなく焦りもを感じてしまった自分に、彼女の言葉があながち間違いではないと気付かされた。


「何故、そうなる。」


しかし、エレッタはそれを認めることはしなかった。なにも意地を張ってだとか、そんな幼稚な理由ではない。彼は自分がバケモンになってから今までの長い間、一度たりともバケモンとして生き続ける自分を愛したことも、ましてや好きになったこともなかった。それが今更“バケモンなんか”などと言う軽蔑の言葉をかけられたところで、傷ついたりなどするはずがない。まだ齢十三の小娘ならばいざしらず、我は千年以上を生きた物の怪であるぞ。そう心の中で言い聞かせるエレッタに、一切疑いはなかった。


「いやだってエレッタいつも、昔人間だったとか言わないのに、おかしかったもん。さっき。」


一方の晄も、彼にはなにか事情があるのだと信じて疑わなかった。たまたま今日が晄の勘が冴え渡っている日なのか、家族ほど長い縁が故に異変に気がついたのか。彼女は、彼が突拍子もなく『もう人間ではない』などと言い出したのを聞き逃さなかったのだ。

確かにエレッタは、バケモンとなった自分のことを良く思ったことなど一度もない。状況を受け入れられるようになった現在ですらも、もう諦めているとは言え、バケモンとしての自分を殺せるものならば殺したいとすら思っている。しかしそれと同時に、彼は人に滅多なことで弱さを見せようとしない男だ。ましてや弱音など、早々吐くことはない。

しかしさっき、彼は弱音とまではいかないものの、普段思っていても隠し通しているようなコンプレックスをぽろりとこぼしてしまったのだ。エレッタに、自分が弱音を吐いたのだという自覚は無かった。晄が聞き間違えただけなのではないかとすら思うほどに信じられなかった。


「言ったか、そんなことを。」

「言ってたよ……だから、そうなのかなって。」

「我があやつの言葉で思い詰めている、と?」


そう問い返してみれば、晄は静かに頷いた。真剣なその眼差しは、確かに幼いながらもどこか頼もしくも見えた。自分が弱ったときはそれを隠そうとするくせをして、他者が弱ったときはそれを誤魔化すことも許さず、明らにしようとする。一体、誰に似たのだろうか。全く、敵わないものだ。片手で頭を抱えながら、エレッタはため息をついた。


「全く、何を言うか……」

「え……あたし、もしかして余計な事……」

「はっ。貴様こそそうではないか。」


おかしそうに笑ってから、反撃とばかりにエレッタは言った。思いもよらない言葉に思わず黙って驚いてしまったが、しばらくして我に返った晄は、ようやく声を上げた。


「な、え!?なんでさ!?」

「貴様、あれからあからさまに洸を避けてるだろう。」

「う……それは、そうだけど。」


長い間エレッタをみつめ続けていた視線は、その言葉の後バツが悪そうに逸らされた。なんの勝負でもないのに、晄は何故かやり返されてしまったような気分だった。


「いや、でも聞いてエレッタ!」

「別に悪いとは思わん。無理な言い訳もいらんのだぞ。」

「ちがっ、そうじゃなくて!」


エレッタはもう晄が何を言おうとしていたのか分かっていたのだろう。この二、三日間、洸とは会わなかったのではなく会えなかったのだ、などという言い訳を言う暇すら与えられなかった。それでもまだなにか元の話題に戻れる手立てはあるはずだ、そう思って声は上げてみるものの、何か言う前にエレッタに腕を掴まれた。ずっと立ち止まっていた晄の足は、そのままエレッタに引っ張られる形で帰路へ向かう。そのうちに、なにか弁解する気も失せてしまった。


「……あの日、あやつと和解する気はなくなったのだろう?ならばそれでいい。和解だけが正しいわけではないのだからな。」

「うん。」


いつの間にやら、家はすぐ目の前だった。ふと庭を見れば、いつもあるはずの母親の車がそこにはなかった。今頃母親と父親と洸を乗せて、数時間前にエレッタと向かった寺へ、墓参りに行っている頃だろうか。自分の腕を掴む、少し冷たい掌が心地いいのは、この猛暑のせいだけではないことに晄は気がついていた。

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