第四十九魂
天使のような人
明らかにおかしい。少年が後ろを振り返ると、やはり彼の予想通り、数分前に見たのと同じハンチング帽の男が歩いていた。ここ最近……というよりは、十日ほど前に、水色の髪の少年をバケモンから助け出した時からだった。その日以来、度々あのハンチング帽の男が付きまとってくることがあるのだ。
どこからつけてきたかもわからない。ただ、気がついた時には後ろにいるのだ。初めは、通らなければならない道が偶然同じだっただけだと思っていた。しかし、人通りのない道にも着いてくるし、自分が立ち止まると立ち止まり、自分が走ると同じく走るその男は、明らかにこちらをつけてきていた。
「はぁ、はぁ……」
少年……
前追われた時は、どれも学校への用事で出かけたときで、用事を終えて校舎から出る頃には男はいなくなっていた。しかし今日は、無くなりそうなシャープペンシルの芯や消しゴムの予備を買いに近場の文具屋へ出かけるだけのつもりだったため、私服で家を出てしまった。そのため、これまでのように学校に逃げてやりすごすわけにもいかなかったのである。そもそも、今日から学校はお盆休みであるため、制服だったとしても立ち入れないのだが。
今日あの男と遭遇したのは、少なからずその文具屋を出てからのことだ。用事を終えて家に帰ろうとした時、木葉はその男の姿を見た。その男に自宅を知られたくないと思った木葉は、家に帰るはずだった道を変え、あの男を撒こうと歩き続けていたのである。
歩き始めて一体どれだけ時が経ったのか、木葉にはもう分からなかった。ただ、普段歩く距離よりは確実に上で、彼の息もすっかり上がっていた。不思議と、頭もくらくらする。本来なら一休みと行きたいところだが……なんなら帰宅したいのだが、そうしたらあの男が何をするか分からない。とりあえず、視界に偶然入ってきたショッピングセンターに入ってみようか。一度立ち止まって軽く息を整えてから、木葉はその足をまた踏み出し……
「ねえ、キミ大丈夫?」
踏み出しかけたその時だった。ちょうどショッピングセンターから出てきたのだろう一人の女性が、木葉の肩を叩いた。聞こえてきた中性的な声と、肩からの感触に驚いて、木葉がふとそちらを見ると、不安そうな顔でこちらを覗き込む、金色の髪の美女が立っていた。
「えっ。」
あのハンチング帽の男で頭の中がいっぱいだった木葉は、初めてあの男以外の人間に意識を向けた。その顔をふと見ると、ただでさえ少し赤かった顔をさらに赤らめた。木葉は、美しい女性に話しかけられると緊張するタイプの人間である。目の前にいる女性は、ちょうどその“美しい女性”の条件に当てはまる人物だった。彼女はどうやら、何故かこちらを心配してくれている様子である。しかし一体何を心配してくれているのか、木葉には分かりかねた。どう答えればいいのか分からず、しばらく声を出していなかった喉からようやく絞り出した一文字が、彼の頭の中に響いた。
「やっぱり……ちょっと着いてきて。」
「あ……わっ!」
彼女はそう言うと、有無を言わさずに木葉の手を引っ張り、さっき出てきたばかりだろうショッピングセンターへ歩き出した。その歩幅は、女性にしては幾分か大きく感じられた。
「……もう、大丈夫ですよ。」
「でも、もっと休んだ方がいいんじゃない?」
「い、いやっ……そのっ。」
木葉は、今の状況が気恥ずかしかった。ショッピングセンターの中に用意されていた休憩スペースの一角、そのベンチの上で、拳一つ程度しか離れていない近距離で二人は座っていた。
あの女性が木葉を心配していたのは、彼が熱中症になりかけていることを疑ったからだった。そんな彼女の予測は見事的中しており、今まで木葉は彼女に介抱されていたのである。自動販売機で冷たい水を三本買い、そのうち二本を両脇に当てて血管を冷やし、残りの一本は飲みながらも、時折首を冷やすのに使った。
特に、介抱されてすぐの時、木葉は頭が沸騰するのではないかという程に恥ずかしさを感じた。というのも、彼女は世話好きなのかなんなのか、わざわざ水を彼女に飲ませてもらう展開になってしまったのである。おかげで、彼女の顔を見るとその時の光景が思い起こされ、その度に赤面し彼女に心配される……という負の連鎖が続いてしまったのだった。ただでさえ綺麗な女性に緊張するというのに、それが明確なエピソードで肉付けされてしまっては、平常心ではいられない。そんな木葉にとっては、早くこの場を離れて家に帰りたい気分だった。
「ホントに……?まだ顔赤いよ?」
「いや、これは!あの……大丈夫なんです……」
しかし、彼女はこちらを変わらず心配してくれているようで、なかなか解放される気配がなかった。木葉は、否定しかねる彼女の言葉になんとすれば正当な断り方が出来るのかと頭を捻らせたものの、結局は、 それらしい言葉も見つからずに、語尾を濁して誤魔化すのみだった。
「……まぁ、そんなに言うなら。」
しかし、彼女は長らく木葉に言われ続けたからか、彼を介抱から解放するように決めたようだった。木葉は、その言葉を聞いた途端、無意識のうちにホッと安堵の息を吐き出した。
「でも、あまり無理しちゃダメだからね。」
「わかってます……あ、ありがとうございました。」
チラリとだけその顔を見ると、木葉はそのまま頭を下げた。一体、正確にどれだけの時間介抱されていたのか分からなかったが、それにしてもかなり長時間彼女をこの場に拘束してしまったことは確実だった。
そういえば、彼女は先程会った時にこのショッピングセンターから出てきたところではなかっただろうか……?そこに偶然通りがかった木葉を、彼女が心配して介抱してくれた、というのが事の顛末だった。もしかしたら、自分を介抱している間にほかの用事があったのでは無いだろうか……木葉は不安になり、その口を開けた。
「そういえば、僕と会う前にここを出ようとしてませんでしたか……?」
「ああ……そうね。買い物終わって、出ようとしたところだったかな?」
それがどうかしたの?と不思議そうにする彼女。木葉はまた一瞬だけその目を見ると、また視線を下げて、手元のペットボトルのラベルに目を落としながら言った。
「もしかしたら、本当は何か用事があったのに、僕がその邪魔をしてしまったんじゃないかと思ったんです。」
そう告げると、木葉は恐る恐るその視線をまた彼女に向けた。見てみれば、彼女はハッとしたような表情でこちらを見つめ返していた。そして、木葉とは反対隣に置かれていた紙袋に手をやると、その持ち手を掴んだまま膝の上に乗せた。
「そうだった!ワタシったらうっかりしてたぁ……」
「や、やっぱり、何かあったんですね?」
そんな彼女の様子に、木葉はみるみる顔が青ざめていった。この様子では恐らく彼の予想通り、彼女には用事があったのだろう。自分のせいで、彼女は大事な用事をすっぽかすことになってしまったのかもしれない。体調が悪そうな見知らぬ少年にわざわざ声をかけて介抱してくれるような優しい彼女に、なんてことをしてしまったのだろうか……!木葉はそう思うと同時に、胸の中に居座っている“緊張”の意味が変わっているのを感じた。
「すみません……」
「そんな、大したことじゃないから……気にしてくれたのね。大丈夫よ。」
暗い表情で謝る木葉に、彼女はそう言って笑って見せた。影のない優しい笑顔に、不思議と先程とは異なった緊張が強まる感覚がする。今日は、何だかおかしい日だな、などとこっそり思いながら、木葉は彼女の横顔を眺めていた。と、その時、急に彼女が長らく腰かけていたベンチから立ち上がった。想定していなかった展開にビクりと肩を跳ねさせる木葉だったが、そのまま彼女がこちらに体を向けて、腰まである金色の髪を払ってみせるのを、ベンチに座ったまま見上げていた。
「それに、今からでも問題ないわ。確か、七時くらいまでやってたはずだから。ところで、ちょっとお願いがあるんだけど。」
「は、はい……?なんでしょうか。」
目の前の彼女がそう言ってはにかんでみせた。先程まで見た彼女とはまた違ったその表情に、少しドキリとしながらも、どうしたのかと不思議に思った。そのお願いが、介抱してもらったお礼になるだろうか?そう思いながら、木葉は彼女の言葉を待った。
「案内して貰いたいところがあるの。」
「案内……ですか?」
「そう。イタリア料理のお店でね?『
「いるぐーすと……あれ。」
「……どうかした?」
彼女が告げた店の名前。木葉は、その名前をかすかに聞いた覚えがあった。いつのことであったか……事は、約三ヶ月前にまで遡る。彼のクラスに、
どうやら、彼女が用のある場所とは、晄とエレッタの店のようである。それはわかったものの、それと同時に、木葉はそんな彼女の願いを引き受けられない事がわかってしまった。
「いや……えっと。その店、しばらく休みなんです。」
「は……え、そうなの?」
木葉は、何日か前に来た晄からのメールの内容を思い出していた。お盆休みに、彼女はエレッタと共に実家に帰る用事があるのだという。それも、少し早めに日取りをしているらしく、今目の前の彼女と話している今日……八月十三日には、既に里帰り中のはずだった。
「お盆に里帰りするらしくて、確か昨日あたりに出発していたはずです。」
「そう、なんだ……」
どうやら、そのあたりの事情については知らなかったようである。彼女は、木葉の言葉に気分を落としたようで、悲しそうにそう零していた。落胆したからか、その声は女性にしては少し低く思えた。
「晄ちゃんに会いたかったのに……」
「……え、晄と知り合いなんですか!?」
さらに残念そうに続いた彼女の言葉。しかしその中に、木葉にとって爆弾のような言葉が混じっていた。
「やけに事情に詳しそうだなって思ったら、キミも知り合いだったのね……呼び捨てってことは、もしかしてボーイフレンド?」
「なっ……!そんな!違います違います!友達です!」
これまでの人生で一二を争うほどに首を振って、木葉は彼女の発言を否定した。そんな彼の姿に、目の前の彼女はふふっと声を上げながら、いたずらっぽく笑ってみせた。
「冗談よ!あれ……もしかして、キミが木葉くん?」
「えっ、そ、なっ…」
「やっぱり!たまに話に出てくるのってキミだったのね!」
不意に名乗ってもいない自分の名を呼ばれ、木葉はあわあわと口を動かした。そんな彼を、彼女はやはり面白がっているようで、その白い手を口元にあてがって笑っていた。
「ふふっ……でも、そっか。お店は休みなんだ。」
「……すみません。」
「なんで木葉くんが謝るの?木葉くんがお休みだって教えてくれたから、無駄足踏まずにすんだんだから。ね?」
彼女はそう言うと、一度彼に背を向けて、数歩その場で歩いて見せた。そうしてからまた彼女は振り返って、ニッコリとした笑みを木葉に見せた。不思議と、その顔に釘付けになっている自分に気がつく。今日の自分はどうしてしまったのだろうか……。木葉は、少しふるふると頭を揺らして気を取り直すと、膝の上に乗った三本のペットボトルを、足元に置いておいた、文具屋で買った文具が入り乱れるエコバッグに詰め込んだ。
「……そう言う木葉くんこそ、ここに用事があったんじゃない?」
「え……?あぁ……」
木葉がこのショッピングセンターに立ち入ろうとした時、彼女に話しかけられてそのままこの休憩スペースに来た。彼女は恐らく、木葉を急に引き止めてしまったために、彼の用事を邪魔してしまったと思ったのだろう。しかし木葉は、この場所に何か特別用事があったわけではなかった。彼がここに訪れたのは、あのハンチング帽の男を撒くためであった。
「そんな……特別、用事があったわけではないんです。」
木葉はそう言いつつ、辺りを見回した。もしかしたら、あのハンチング帽の男がここまで来ているかもしれない。そう思ったが、ここから見える範囲には、少なからずその姿は見つけられなかった。
「ふーん……そうなの、ならよかった。何か急いでるみたいに見えたから、てっきり何かあるのかと思ったけど。
まあ、ワタシも用事無くなったし、もう少しここで買い物してから帰ろうかな。」
彼女は、木葉の方に向けていた体を百八十度動かして、少しゆっくりと歩き始めた。ハーフアップの髪が、振り子のように揺れる。去ろうとする彼女の背に、不思議と名残惜しさを覚えていた。そのうち、木葉はベンチから立ち上がった。
「あのっ!」
「……?どうかした?」
「えっと…………晄に、貴方がお店に行こうとしていたこと、伝えておきます。」
彼の言葉に、再び振り返る彼女。今度は上半身をひねらせるのみだった。声をかけて少し遅れてから木葉が言うと、彼女はまた、彼にニッコリと笑いかけた。
「……じゃあ、お盆明けに、シエルが向うと伝えて。」
「シエル……?」
「ワタシの名前よ、シエル。」
彼女……シエルは、その全身を木葉に向き合って告げた。全体的に白でまとめられた服装が、天使の羽根のようになびく。その中で、首元にあしらわれた金色の飾りがついたネックレスが輝いていた。
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