第四十三魂

迷惑な来客


誰も座らないテーブル席を、柔らかな布巾が撫でる。既に充分に磨かれていたそれはさらに輝き、より清潔さを増した。そうして、一面綺麗に磨き終えると、雷電らいでんひかりは、客が一人しかいない事をいい事に、大きな背伸びを一つした。


「ふぅ、よし。」


磨かれたテーブルを見下ろして、彼女は満足気にそう呟いた。

例え学校は夏休みであろうと、エレッタの店には夏休みなど存在しない。そうして、いつものように土曜日と日曜日の予定を店の手伝いで埋められてしまった晄であったが、それにはすっかり慣れていたようで、彼女にはまるで不満に思う様子は見られなかった。

現在の時刻は午後三時。これまでの経験上、いつもこれくらいの時間になるとそこまで客は入らない。そうだとしても、今はたった一人だけである。しばらくゆっくり出来るな、などとこっそり思いながら、窓の外を眺めていた。


「やっぱり、この時間になると、お店も空いてくるよね。」

「え、あ、桜子さくらこさん!」


ふと声をかけられ、晄はゆっくりと後ろを振り返ると、その先には、この店で店員として働く女性、小森こもり桜子の姿を捉えた。どうやら、こちらに話しかけて来たのは彼女のようである。お昼時になると、その忙しさ故にエレッタと共に調理場に籠る彼女だが、どうやら、二人で調理場に立つほど、もうそちらも忙しくはないようである。それ故に、彼女もホールの方にやって来たようだった。


「でも、今日はいつもよりもっと少ない気がします。」

「そうね……あれ、もしかして今いるのって、リナルドくんと話してる、あの子だけ?」


今二人がいる場所からは遠く離れた、二人がけの座席。そこには、淡い茶色の髪を三つ編みハーフアップに整えた後ろ姿が見えた。腰にまで届かんばかりの長い髪の彼女の横に立ち、彼女に何か話しかけていたのは、この店でバイトの仕事をしている、リナルド・ジョーカーであった。客のあまりいない店内では、その二人の会話がよく聞こえてきた。


「この前寿司屋に向かったんだが、本当に寿司が回っていた。」

「あらセンパイ、四月から日本に来てたのに、まだ寿司屋行ってなかったんだ。」

「あぁ、寿司屋はカクシキのある場所だと聞いていたから。ただ、私は寿司が自転しているものだと想定していた……」

「うっふふふ!そんなわけないじゃない!」

「友人の嘘を真に受けてしまっていたようだ……」

「それが本当なら、魚が飛んでっちゃうわよ!」


そう告げる彼の肩は、少し恥ずかしそうにすくんでいた。しかしどうやら、なんの他愛もない話をしているようである。偶然耳に入ったその会話に、晄はそれを理解したが、それと同時に、妙に親しげな二人に、晄は頭を捻らせた。


「……あのお客さんたまに来てるの見るけど、いつもリナルドさんと話してるなぁ……」


リナルドの隣にいる彼女の姿を、晄は度々この店で見かけることがあった。といっても、やはり仕事中ではあるし、たいして話しかけられることも無いために、あくまで晄と彼女との間には店員と客以上の関係は無かった。しかし、晄と本来同じような立ち位置であるはずのリナルドは、よく彼女と会話をしているのを見かけた。彼は彼女と何らかの関係があるのだろうが、晄にはその詳細など何も分からないし、聞くことも不自然に思えて今まで控えて来た。しかし、その不思議に思う感情が、ふと気づけばその口から漏れ出していた。

そんな彼女の呟きは、遠くにいる二人の会話よりも鮮明に耳に響いてきたらしい。桜子は、彼女のその呟きを耳にすると、彼女の方を向いて告げた。


「あれ、晄ちゃんは知らなかった?あの子、リナルドくんと同じ学校の後輩?らしいよ。」

「え、そうだったんですか……!そういえば、さっきあの人センパイって言ってたかな……?」

「まあ、厳密にはちょっと違うっぽかったけどね……」

「……?そうなんですか。」

「あ、そうだ!晄ちゃんそろそろ休憩時間だから呼びに来たんだったわ!」

「え……?あっ!」


彼女の言葉に、一度晄は納得出来ずにいたようだった。普段、晄はもう一時間早くに休憩時間を設定していたために、違和感を覚えたのだ。しかし今日は例外で、普段休憩時間に入る時刻にも、まだ多くの客が訪れていた分、休憩するにもできないような状況下にいたがために、後回しにしたままだったのであった。

少し置いてようやくその事に気がついた晄は、その耳に腹の虫の呻き声を聞いた。昼休憩無し……すなわち、昼食抜きで働く羽目になっていた彼女は、それでようやく空腹を自覚したのである。テーブルを磨いた満足感など、すっかり塗り替えられてしまったのだった。


「ふふっ、店長がご飯作ってくれてたから、食べてしっかり休憩してきて。」

「うん!分かりました!あ、えっと……きゅーけーはいりまーす!」


まるで鳥の羽の様に足取り軽く控え室に向かう晄。桜子はそれを途中まで見送ると、彼女がテーブルに置き去りにした布巾をサッとたたみ直した。と、その時、店の入口から、扉に付けられたベルの音が聞こえてきた。どうやら来客のようである。


「いらっしゃいま……あれ。」


しかし、いざ対応をしようと彼女がそちらに目を向けたのだが、閉まりきらない扉の方には人の姿が見えない。だが、それと同時に、すぐ隣から僅かな風と人影を見つけ、そちらを目で追った。

少し黒っぽい服から、透明感のある白い肌が覗き、その手には、今日が晴れにもかかわらず、不自然に傘が握られている。その髪は、肌に負けぬほどの純白であった。その後ろ姿は、桜子を気にもとめず、一直線に晄の方に近づいていた。


「わっ!」


彼が晄に追いつくのには、そう長くはかからなかった。彼は彼女を逃すまいと、傘を持つ手とは反対の手でその肩を掴むと、そのままぐいと引っ張って、顔を覗き込んだ。


「え、ヴァノ!?」


突然視界が変化したと思えば、その視界に入り込んだのは、銀色の戦士、ヴァノ・エースだった。その赤い瞳に吸い込まれそうになり、晄はわずかに恐怖した。彼の表情は笑っているのだが、その目は獲物を逃がさんとする獣のように鋭かったのである。


「やあ。久しぶりだね。」

「そ、そうだね、えっと、いらっしゃい……?」

「出迎えてくれてどうも、この能天気野郎。」

「……なんか怒ってる?」


相変わらずその表情を崩さぬまま、ヴァノはこちらを見つめ続ける。晄は、休憩するにもできず、彼が何故怒っているかを理解できない現状にただ困惑した。その少し後ろで、どうやら知り合いであるらしい二人のやり取りを止めることも出来ず、おろおろとする桜子。奥にいる二人は、まだこちらの小さな騒ぎには気がついていないようだった。


「へぇ、あくまで白を切るつもり?」

「え……?」

「しらばっくれる気かよって言いたいの。分かる?」

「……ごめん、ほんとにわかんなくて……」

「んー……あぁ、こりゃダメだ。」

「うぉあっ!」


彼は、晄の肩から手を離し、くるりと体をかたむけた。そうして支えの無くなった晄は、そのまま真後ろの方向に倒れ込んでしまった。床にぶつかる直前、咄嗟に受身をとって起き上がると、彼女はひりひりと痛む利き手を軽く擦りながら、ヴァノを軽く睨んだ。


「てか急に店来なくても、メールでよかったじゃん!」

「何言ってんの。直接来て追い詰める方が確実じゃん。そもそもキミ、約束から一週間以上放置とかどうなの?一言二言連絡ぐらいしろっての。」

「……一週間以上?」

「え、何、本気で忘れてるわけ?」


軽蔑の目でこちらを見つめてくるヴァノ。その視線に耐えられず、晄は一度目を逸らし、床を見つめた。

一週間以上放置、ということは、約束をしたのは少なからず一週間よりは前のことである。確かに、晄がヴァノと最後に会ったのは、ランコレと戦ったあの日である。正確な日時までは記憶していないものの、確実にその時は、まだ夏休みには入っていなかったはずだ。そうなると、夏休みに入った日からは今日で一週間と一日が経過しているはずであるので、その時になにかあったのだろうと予想が着く。

しばらく前の出来事故にはっきりとはしない記憶の中で、晄は必死で彼の言う“約束”とやらを捜索しはじめた。たしかその日は、ランコレを捜索しようと家を出た時、偶然にヴァノと会ったのだ。そして、その場で桜子からランコレの目撃情報を聞き、二人でランコレを見つけ出すために繁華街に向かった。二手に別れて捜索中、ランコレを発見したらしいヴァノからの連絡で、彼の元に向かい、そのままランコレを長時間に渡り追いかけ、そしてそのまま戦闘に入ったのだ。

確信を持てるような心当たりは浮かばない。だが、ランコレを追いかける道すがらなにか会話をしたが、もしかしたらその時に何か話したのだろうか?微かなその心当たりを、晄はぽつりと口に出した。


「……ランコレ追いかけてる時……?」

「……」

「あれ、違うか……」

「あの時の話の内容も忘れたの?」

「え、いや……」


彼女も、その時の話した内容は所々記憶の中にあった。ただ、その中でヴァノから語られた、金色の戦士の三つの特徴が強く残り過ぎたもので、それ以外の他愛もない話など、すっぽり抜け落ちてしまったのであった。もしその中に答えがあるのならば、自力で答えを導き出すのはほぼ絶望的である。それでも、これ以上長引かせて、昼食にお預けを食らうのは些か厳しいものがある。空腹故のエネルギー不足と戦いながら、晄はなんとか思考をめぐらせようと必死になった。

一方、晄の曖昧な返答に、ヴァノは困ったように眉を歪ませた。だが、晄がまた間髪入れずに頭を抱えだしたのを見て、ヴァノは、このまま黙っていることの生産性の無さに気がついた。何も、晄はわざと答えが出ないように渋っているのではなく、本当に頭の中からすっぱりと無くなっているだけだということは、彼にも既に理解出来ている。少し諦めた様子で、彼は口を開いた。


「……ま、いいや。戦ったからぶっ飛んじゃったんでしょ?濡れて帰って怒られたりしたろうし。」

「ごめん……もしかして大事な事だった?」

「そうだな……オレにとっては大事だよね。」

「でも、約束なんていつしたっけ?ランコレの日よりは前?」

「いやその日で合ってる。じゃあヒント。オレがランコレ探しを手伝う条件にって、何か約束しただろ?それが何かわかる?」

「そんなのあった……?ん?」


彼のヒントを元に、晄はまた思考をめぐらせようと、彼から視線を逸らした。そうしているうちに、一度彼よりも奥で、心配そうにこちらを見つめる桜子と目が合うと、晄は一度、そこで視線を定めた。

突然に見つめ合うことになり、桜子の表情は、心配より疑問が強く浮かび上がり始めた。しかし反対に、晄の表情はみるみる晴れ始めて行った。彼の言う約束。その中に、彼女が関係していることを何となく思い出したのだ。すると、その微かな記憶の糸から、次々にまた別のことが思い起こされていく。と、ある瞬間、その脳裏にいつかの記憶が蘇った。



『ランコレ探すんだろ?オレも手伝ってやろうか?』

『え!いいの!?女の子と遊んでたのに!?』

『いや、それはもう終わったんだって……色んな意味で。』

『色んな意味って?』

『……。あ、そうだ。せっかく手伝ってあげるんだからさ、後でさっきの電話の相手、紹介してくんない?』

『無視!?てかそれより、桜子さんは巻き込みたくない!』

『へぇ、桜子って言うんだ……?』

『あっ……』

『ほら、ぼーっとしてないでさっさと行こうぜ?今だってアイツは移動してるかもしれないんだからさ。』



「……あっ!」


完全に全てを思い出した。途端、晄は桜子から目を逸らし、自らの足元をじっと見つめた。艶のあるブロックが、店の照明の光を反射させて光るのを、どこか遠い出来事かのようにして感じている自分が居ることを、妙に不思議に思いながら、この後どう動くべきかを考えあぐねた。


「ん?どうかした?」

「いや……えぇっと……あははは……はは。」

「……キミ、約束思い出しただろ。」


図星をつかれ、晄はビクリと飛び跳ねて背筋を伸ばした。それでも、それを認めたらろくなことにはならないことを理解した晄は、必死に頭を横に振る。しかし、晄の期待とは裏腹に、ヴァノはニヤニヤと笑うだけだった。


「へぇ、そう。」

「そう!さっぱり!ごめんね!」

「そう。なら別に、桜子じゃなくていいんだぜ?」

「えっ!」


笑いながら晄に詰め寄るヴァノ。そんな二人の会話の中に、全く無縁であるはずの自分の名を聞いて、桜子は信じられず声を上げた。勿論、ヴァノがそんなことに気が付かないはずもなく、彼は晄の方から体を大きく傾けて、その声がする方に視線を向けた。そして、その胸元に付けられたネームプレートに目をやると、彼女に近づきながら、その文字を読み取った。


「……なるほど、アナタが桜子さん。」

「え、そ、そうですが……」

「そうでしたか!実はオレ、アナタに会うためにここに来たんですよ。」

「えっ?あの、ひ、晄ちゃん?」

「ああ!!ごめんなさい!巻き込むつもりはなかったんですけど……!ヴァノ!ほら会ったでしょ!?もう良くない?」

「何言ってんの邪魔しないでくんない?」


晄が止めに入ろうにも、ヴァノは一切やめるつもりがないようで、更に桜子に詰め寄る。想定していなかった出来事に、桜子はただ固まっていることしかできない。少し遠くから聞こえる足音など気にもとめず、兎に角彼からどう逃れるかを必死で思案した。


「今ってお仕事中ですよね?なら、何時が休みとかあります?」

「え、え?」

「桜子さん困ってるじゃん!もう話したんだからいいでしょ?」

「お前さ、オレがどういう意味で紹介しろって言ったのか分かってる?」

「……ちょっと、騒がしいと思ったらアンタじゃない。」


わずかに近づいてきていた足音が止むと、突然、晄やヴァノ、桜子の物とも違う、パッキリとした声が聞こえて来た。それに驚いた晄と桜子がそちらに目をやると、そこに居たのは、リナルドと共に会話をしていた、薄茶色の髪の少女だった。


「あー……晄、今の雑音何?」

「あら可哀想に。淫魔って耳が腐って役に立たないのね。」

「あぁあ、空気読めない痴女が湧いてるみたいだなぁ……」


少し前のニヤついた笑いとは似つかない、酷く不機嫌な表情を浮かべた彼は、二人から遅れて、ようやく彼女の方を見た。彼のルビーの瞳が、彼女のエメラルドの瞳とかち合う。途端、二人は口元だけに笑みを作って、互いを睨みつけた。


「おい、何でここにお前が来てんだよ。」

「はぁあ?こっちのセリフなんだけど。コッチはセンパイと楽しくお話してたってのに、あんたのせいで台無しだわ!」

「へぇ、お前リナルドセンパイにも手ぇ出そうとしてたわけ。やっぱろくな女じゃないね、あぁヤダヤダ。」

「あんたこそ、無理に女の人誘おうとしてたくせに!」


途端に始まった口喧嘩に、残された二人はただぽかんとしていることしか出来なかった。と、そちらにも、また彼女とは別の人物……リナルドが近づくのが見えた。晄はそれを捉えると、藁にも縋る思いで話しかけた。


「リナルドさん!!」

「晄、ヴァノが何かしたみたいだが……」

「あたしじゃなくて桜子さんに!」

「あぁ……桜子さん申し訳ありません。ヴァノは悪人ではないのですが……」

「えっ、リナルドくんとも知り合いなの?あの子。」


未だ口論を続ける二人から一度視界をずらしてリナルドに問う桜子。申し訳なさを感じていた彼は、特に断ることも無く、むしろ進んで答えた。


「そうです。あの二人も私と等しく、月乃宮の生徒ですから。」

「そうなんだ……」

「会う時は少ないが、異国から来た者同士だから、多少関わりがある。そうだな、彼らは見る度にquarrel……あー、何と言うんだろうか……」

「喧嘩って言うんすよ。」

「きゃっ!」


突然、言い合いを切り上げてこちらに近づいてきたヴァノ。桜子がそれに一歩引いて距離をとるのを見ると、ヴァノは都合が悪そうに目を逸らした。


「ま、つまりオレ達仲悪いってことだよ。」

「ま、それは同意ね。女の子で遊ぶような淫魔と仲良くなんて出来ますかっての。」

「自分のこと安売りするような痴女には言われたくないね。」

「何偉そうに。店に迷惑かける男にとやかく言われる筋合いないし。ほら、行くわよ。」

「は……!?おいこら離せっ。」


彼女は、ヴァノの腕をしっかりと捕まえると、そのまま彼を引きずって、店の出口に向かった。ヴァノが抵抗しようともがくものの、彼女は慣れた様子でそれを受け流していた。


「ごめんね!あ、そうだ!センパイ明日もいるでしょ?お金その時でいい?」

「……あ、あぁ。」

「お二人もごめんなさい!こいつは絞めとくから!」

「Damn it!」


ヴァノが何かを叫んだのを最後に、二人は店の出口から姿を消した。ようやく静けさを取り戻した店内。その中で突然に、晄の腹の虫の呻き声が響いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る