第四十魂
踏み出せぬ夏の日
翌日。
しかし彼らは決して、ただ静かに勉強をするためにここにいる訳では無かった。その証拠になり得るかは分からないが、先ほどから晄の前に広げられた課題はほんのわずかしか進められた様子が無かった。木葉も、視界の先に見える壁掛け時計や図書館の出入り口を時折覗き込んでおり、晄ほどではないにしろ、課題には集中出来ていない様子であった。
「いつ集合だって言ったんだっけ。」
「部活終わる頃って話だったから、そろそろだと思うんだけど……ん?」
そう言って木葉がふとまた出入り口を覗いた時。その向こう側から、徐々にこちらに近づいてくる人影を一つ捉えた。それをけして見失わないようにとして、木葉がそこから一向に目を離そうとしないからだろう。晄も彼に習い、すぐ後ろを振り返って出入り口を見やった。すると、彼が捉えていた人影……
「ご、ごめん、ちょっと遅れちゃって。」
未来は、二人のそばに来るやいなや、少し息を切らしながらああ口にした。どうやら、二人の前に現れる前から走ってきていたようである。申し訳なさそうにそう口を割る彼だったが、晄も木葉も、そんな彼を咎めることなどなく、いつものようににこやかに笑っているのみであった。
「ううん。むしろ、急に会ってくれなんてお願い聞いてくれてありがとう。」
「えへへ。部活終わっても暇だったし。それで、ボクに話って……?」
「えっと……とりあえず、場所だけ変えたいんだけど……」
「そうだね、図書館で話するわけにいかないもんね。」
三人は互いに意見が一致したらしい。各々荷物をまとめると、そのままの足で二年C組の教室まで歩き出した。
昨日、晄が木葉に相談した後、彼から返ってきた返事を簡単に言えば、紫の水晶に選ばれたのは未来であろう、ということであった。水晶が光ったあの日、未来が戦士のことや、バケモンやトリスの事について理解していたと告白したこと、そして、当時夢だと思っていたクラゲのバケモンや、巨大なマリーゴールドのバケモンを生み出していたことを踏まえて、自分にも何か手伝えることはないかと提案してきたことを、木葉は事細かに書き起こし、晄に伝えたのである。ソウルブレイカーの幹部の一人に目を付けられ、バケモンという者の存在に深く関わった未来だからこそ、誰よりもバケモンを生み出してしまった人々の気持ちを理解出来た。だからこそ、木葉にはあの未来の発言を軽く見る事は出来なかったのである。そんな出来事を前に、未来が戦士であるという可能性など捨てられるはずなどない。晄も木葉の意見には大賛成であった。
そして、二人は相談の後に、既に知っていた未来の連絡先を通して、次の日の部活が終わった後……すなわち今、未来と会う約束を急遽取り付けたのであった。理由は言わずもがな、あの紫色の水晶である。
「……だから、未来くんが戦士なんじゃないかと思うんだ。」
他には誰もいない教室。三人は、その黒板の前に立っていた。晄と木葉が未来に事の経緯を話すと、彼はただ、驚いた様子で固まっていた。何度も二人の顔を交互に見つめるその表情には、徐々に疑いが現れていた。
「……それって、確かなの?ボクが……?」
「うん。水晶もそうだって言ってたから。」
「でもさっき、水晶には意思があっても喋れないって……」
「あっ、えっと、ホントに喋ったんじゃなくて!うーん……見てもらった方が早いかな。」
晄はそう言うと、制服のスカートのポケットから紫色の水晶を取り出した。そして、それを他の二人にも見えるように手のひらの上に乗せ、一つ深呼吸をすると、そっと囁くように問いかけた。
「君が選んだのは、あたしのクラスメイトの時和未来くん?」
「……わぁっ!?」
そうして晄が話し終えた時。彼女の掌から、落ち着いた紫色の光が教室中に広がった。それに対し、晄や木葉の持つ水晶は何も変わった様子もなく、ただその紫色の光を反射させるのみである。紫色の水晶だけが、自ら光り輝いていたのだ。それが水晶なりの意思表示であろうことは、少し前に戦士や水晶の話も聞かされていた未来にも理解出来た。
「ほら、ね?」
そう言って、晄は何故かほんの少しだけ誇らしげに笑ってみせる。しかしその一方で、未来はこの事実に納得出来ないでいた。何故自分であるのか、一体何を決め手に、この水晶は自分を選び出したのだろうか、と。
自分が選ばれた理由もわからなければ、彼にとってそれを受け入れることは決して容易ではなかった。しかし、真っ直ぐにこちらに向けられた晄の笑顔を前に、それを伝えるのは申し訳が立たない。そうして黙り込んでいると、晄の掌がこちらに伸びて来た。
「いきなりな事でびっくりさせちゃったよね。でももちろん、不安ならあたし達に言ってくれたらいいし、無理ならそう言って。でも……なんかウソっぽく聞こえちゃうかも知んないけど……この水晶は、未来くんと一緒がいいんだと思う。だから、君に受け取って欲しいんだ。」
何も、目の前で水晶を差し出す晄も、その隣で、彼の胸の内を知ってか知らずか、不安げに笑みを取り繕う木葉も、未来を何がなんでも戦士にしてやろうとしているわけではない。むしろ、こちらを気遣って、ただ手を引くどころか、肩すらも貸そうとしてくれている。彼自身、それは理解してはいたのだ。
「うん、分かったよ!わざわざボクを選んでくれたんだもんね!任せて!」
彼は言った。晄の掌からは水晶が消え、その代わりに、未来の右手は強く握られる。その答えに嬉しそうに笑う目の前の二人を眺め、自らも笑みを浮かばせた。
あれから数日が経過した。その間、水晶が光った数は合計五回であった。全く光ることの無い日や一度だけ光った日のあれば、その日のうちに複数回光る日もあった。それらにはこれといった規則性など見つけられず、しかも何の前振りも無いために、紫色の光が目に入る度に、彼はひどく驚かされるはめになった。
晄達に水晶を渡された時、虚偽の決意を口にしたものであったが、口にするのは簡単であっても、なかなか具体的な行動まで成り立つものではない。『水晶が光った時、“できれば”バケモンの所に向かって欲しい』とは、彼の決意表明の後に晄が返した言葉であった。この言葉が、一体どういったニュアンスで伝えられたのかは、未来にも分かっていた。この“できれば”が指す意味とは、なにかしらその場から抜け出すことが憚られる様な状況下に居る時、ということであろうと。それでも、未来はその言葉を利用して、大して忙しいわけでも、どうしても外せない用事があるわけでもないにも関わらず、光り輝いた水晶の光に無視を決め込んでいた。初めは、決心がつくまで、などと言い訳していたものであったが、そんなことを繰り返していくうちに、気づけば、行くに行けない状況に自らを追い込んでしまっていたのであった。
「ただいま。」
からからからと音を立てて、慣れぬガラスの引き戸を開ける。前に暮らしていた真新しいアパートとは全く作りが違う、昔ながらの一軒家に慣れる日は、一体いつになるというのだろうか。返事などない玄関に、未来はふとそんなことを浮かべていた。
引き戸を閉めると、それに少し覚束ぬ様子で鍵をかける。靴を脱いで、他の並べられたものよりも真新しい、綺麗なスリッパを選ぶと、それに足を入れた。やはり、他の住民はまだ帰宅していないらしい。自分を引き取ってくれた伯父と伯母は共働きをしていていつも忙しそうであるし、従姉も、所属する部活が大会目前であるらしく、夏休みであるにも関わらず夕方まで部活だ。そのせいか、不思議と自分だけ少し贅沢をしてしまっているような気分になる。何も、彼らは自分に何か文句を言ってきたことなどない。むしろ、気を使われてばかりいるような気さえする。それなのに少し卑屈になりすぎているのは、彼自身理解していた。しかし彼には、それを止められるような気がまるでしなかった。
玄関からほど近いところにある階段を上り、その先にある自室の扉を開ける。そこには、見慣れた家具が、見慣れぬ配置で並んでいるのが見えた。彼は、ずっと斜めがけにしていたカバンを入口付近にある勉強机の横に置くと、窓際のベッドに腰掛けた。そして、そのまますぐ横に倒れ込んだ時、ふと腰の当たりに異物感を感じ、彼はすぐに起き上がった。
「……あぁ。」
腰のポケットを漁ってその手に触れたのは、あの紫色の水晶であった。それを見た途端、未来は胸が苦しくなるのを感じた。ただ、情けない。数日前のあの日を思い返し、未来はその愚かさをしみじみと感じていた。
未来には勇気がない。新しいことに挑戦する勇気も、誰かに声をかけたり、手を差し伸べる勇気も、失敗する勇気も、そして……断る勇気も。先日、木葉に『手伝えることはないか』などとは言ってはみたものの、それはあくまでも裏で支える程度のことであって、まさか自分も戦う立場にされようとは思いもよらなかったのである。
未来には、自分が戦士に選ばれてしまった、その理由が分からなかった。何も、自分である必要など何も無いのだ。自分には、晄のように優れた身体能力も、木葉のように困った誰かにすぐに気づいて、支えてやれるような優しさも、何より、自分の身をすり減らしてまで、誰かを守ろうなんてことが出来るような勇気など、まるで持ち合わせていなかった。精神的にも肉体的にも弱く、それでいて、自分が可愛いのだ。そんな醜い人間が、戦士になどなれるものだろうか……?いや、そんなわけがない。未来は、ただ自分をああ否定していた。
しかし、この結果に持っていったのは他でもない自分である。折角晄が手を引こうとしてくれたというのに、その手をわざわざ叩き落とすようなことをしたのだ。あの時、戦士としてバケモンを前にするのが怖いのならば、正直にそう伝えれば良かったはずなのだ。けれど、もしそう正直に伝え、二人を失望させでもしてしまったら……そうして、二人の友人を失ってしまったら……
「絶対、そんなこと無かったのに……。」
けれど、未来は分かっていたのだ。二人がそんなことをするはずがないことを。二人の優しさは、一ヶ月ほど前のあの事件を通して良くわかっていた。ふと頭に浮かんでしまったこの考えは、あくまでも自分が臆病だと認めないための言い訳の一つに過ぎないのである。掌の上で嫌に透き通った水晶を眺めながら、未来はそれを理解した。
結局は、戦うのが怖いのだ。気味の悪い、自分と同じ程度か、時にはずっと大きな怪物……いや、バケモンを前にして、果敢に挑める方がおかしいのだ。未来は、また突如浮かび上がった自分の保身をするかのようなこの考えに、ただ自分を恨めしく思った。
「……すっごい晴れてるなぁ。」
何気なく自室の窓を覗くと、そこには澄み渡った青が広がっていた。少し遠くには、大きな入道雲が空に堂々とした出で立ちで構えているのが見える。恐らくは、今日の部活中に訪れたゲリラ豪雨の犯人であろうか。その巨大な白は、その周りに存在する深い青をさらに引き立て、見事に夏らしい風景に仕立て上げていた。半分まで開かれていたカーテンをさらに開くと、その清々しい風景が左目に飛び込んでくる。その青さに、すっと、少しばかり胸が軽くなるような感覚を覚えた。ふと、壁に吊されたコルクボードに目をやると、その目を一度細めた。そこには、一枚の紙が貼り付けられているのは分かったが、その文字は、こちらに大したことを何一つとして伝える気は無いように小さかった。ベッドから立ち上がりそちらに距離を詰めると、やっとその字がはっきりとした。
「明日から三日間も休みなんだっけ……。」
紙の上部には、『科学部通信 八月の予定』と書かれており、その下には、大きく場所を割いて一つの表が描かれている。どうやらそれは、簡易的なカレンダーのようになっているらしい。左のマスにはそれぞれ数字が、右のマスにはなにかしらの文字が書かれている。その、上三段分が薄く塗りつぶされているのは、彼の言うとおり、その間は部活の無い日であるということを示しているらしい。彼はそれを確認すると、また窓の外の景色を眺めた。そうして、しばらく何か考え込むような素振りを見せたが、それもそれほどかからなかったらしい。彼は、勉強机のそばの鞄の方に駆け寄ると、その中身を確認してから、それを持って部屋を後にした。
鬱屈した気分になるのは、午前までとはいえど、ここ数日休み無しに部活が行われていて、家に居ても勉強ばかりしていたことが要因であろう。自分のための時間を設けないのは、その自覚が大きいか否かに関わらず、楽観的な思考を奪い去ってしまう物である。そう考えた未来は、なんとなく外に出てみることにしたらしい。目的地も何もなく、ただ思うままに足を進める。不思議と足は迷うことなく、彼自身も知らない目的地へ向かっていた。
これまでに感じたことの無いその不思議な感覚を楽しみながら、その感覚に任せて道を選ぶ。そうしているうちに、大分時が経過していたらしい。いつの間にやら彼は、全く見覚えが無いわけでもないが、大して既視感も覚えない景色の中にいることに気付いた。ふと車道の向こう側に目をやると、よく整備された自然が目に入った。ボール遊びをしながらきゃっきゃとはしゃぐ子ども達、木陰のベンチで本を読む女性、画材を広げ、何かを描く青年……そこには、思い思いに過ごす人々の姿が見えた。どうやらそちらには、広い公園があるらしい。
もしかしたら、自分の足はここに向かっていたのであろうか……?未来は、根拠もなく不思議とそう感じた。少し先には、そこに向かうのにちょうど良い歩道橋が目に入った。また、足が不思議と動き出す。これは、自分の予想した通りなのかもしれない。そうして頬をほころばせたときだった。
「わっ!」
突然視界端に、紫色の光が見えた。驚いて一度ピョンと跳ねてしまったが、その光には大きな心当たりが存在した。それに従って、服のポケットから紫色の水晶を取り出した。
「やっぱり……」
「うわぁぁああっ!!」
「え……?」
彼の予想通り、その水晶は強い光を発していた。しかし、これまで見た光と見比べると、妙にそれが激しく感じられる。そんな考えに取り憑かれていたとき、その耳に子どもの物のような叫び声を聞き、未来はゆっくりと車道側に目をやった。先ほどと等しく、綺麗に整備された自然。そこに、一瞬少し前までとの相違点など見つけることができなかったが、しばらくして、明らかにおかしな点を見つけ出した。慌てふためく人々の中に、それと等しい大きさの茶色の毛玉が混じっていたのであった。
「何、あれ?……っ!まさか……!」
それが何の前振りもなく現れたこと、そして先ほど光った水晶……それが示すのは、あの毛玉の正体がバケモンであるということに他ならなかった。
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