第三十七魂

図書室と少年


「……せっぺんってさ、ペンギンの名前みたいだよね。」

「……え?」

「ごめん、ちょっと逃げてた。」


ある日の放課後。珍しく、ひかり木葉このはは帰路にはつかず、図書室の中の机に向かい合って座っていた。何故こうなったのか。原因は、先程ふざけたことを抜かした馬鹿娘である。


「せっぺん……?ああ、“ぺん”の部分ね。じゃあ、切片が何かは言える?」

「……傾きは、xの相方でしょ?」

「相方って……まあ、合ってるのかな……?それで、切片は?」

「せっぺんは……yの、相方……」

「……うーん……」


苦し紛れにああ口にした晄を目の前に、木葉はただ、悲しそうな表情で唸った。

数週間前、市立木霊中学校では前期中間テストが行われた。誰もが悪い点を取らないようにと必死になる中、晄は、数学の基礎的な部分すら理解しきらぬうちに、テストに臨んだのであった。もしかしたら、テストを受けた当日は、それを理解していた可能性はあるが……まあそんなことは無いだろう。そんな彼女は、数学の時間にテストを返却されてしばらくは、その点数を見ては、その語呂合わせで遊んだり、問題の一部を抜き出してちょっとした空想をしたりを繰り返しながら、ただ、平均点を下回る数値から逃避し続けていたのだった。


「切片っていうのは……簡単に言えば、y=ax+bの、bの部分だよ。」

「わいいこーる……?」

「えっ。」

「……あ、この式のことか!」

「わ、分かったならいいや……じゃあ、とりあえず一次関数のプリントやる?」

「……はい。」


テストを返却された時、焦りを覚えた晄は、その日の放課後、自分のクラスを担当する数学の教師に、何か、復習に丁度いいプリントを出してくれないか、と頼み込んだのだ。教師は、彼女からの頼みに驚いたものの、勉強しようという彼女の熱意に感心し、その翌日、想定以上の量のプリントが彼女の元に渡されたのだった。

それが、今晄が向かい合っているプリントである。


「……yの、増加量……とは……」

「あぁ……」


(それも分からないか……そっか……)

彼女の目の前にいる木葉はというと、放課後の教室で一人勉強しようとプリントと向かい合った晄が、微動だにしない様子を見て、勉強の手伝いを名乗り出たのだった。わからないところは彼が教える、というスタンスである。しかし、あまりにも彼女の言う“わからないところ”というのが多く……というより、その基準が低すぎたが故に、悲しさと呆れと面倒くささの混ざった物が、彼の心の中にじわりじわりと浮かび上がって来ていた。しかし、自ら名乗り出ておいて彼女を放棄するわけにはいかない。彼は、あまり理解力のない彼女でもわかるような言葉を絞り出しながら口を開いた。


「えっと……yの増加量は、xの増加量とセットっていうか……」

「セット……ああ!だから問題文にxの増加量書いてるんだ!」

「うん……ほら、こっちのプリントに書いてる式があるでしょ?これ使えばいいんだよ。」


しかし木葉は、自分が理解していることを、改めて言葉にして伝えることの難しさを知った。彼らの数学の教師が昔、人に教えることで賢くなる、と言っていたが、それは事実だろうと木葉は確信した。あまりにも難しいために、木葉は音を上げ、積み上げられたプリントの中から、よく使う公式や言葉の説明が書かれたプリントを見つけ出すと、それを晄に手渡した。


「……なるほど。」

「じゃあ、やってみて。それでもわかんなかったらまた声掛けてよ。」

「おっけー……」


無理矢理に気合いを入れたような彼女の声に少し不安が過ぎるが、木葉はそれに無視を決め込んで、少し前に図書室の本棚から持ってきた小説にまた目を走らせた。

実を言うと、今日は一学期最後の登校日であった。明日からは、誰もが待ちに待った夏休みが始まるのだ。それ故に、図書室に訪れる者があまりにも少なく、今現在ここにいるのは、図書委員を除けば彼ら二人くらいしかいなかった。そんな、ほとんど人の居ない図書室の中では、鉛筆が走る音と、晄のぶつぶつと口にする独り言だけが耳に入ってくる。それを聞きながら本に目を走らせていた時、少し遠くから、こちらに近づく足音が聞こえてきて、木葉はふと顔を上げた。


「どう?進んでる?」


その足音の正体であろう。すぐ横に人の気配を感じ、さらに声をかけられた二人は、そっとそちらを向いた。そこには、両手に何冊もの本を抱え二人を見下ろす、クラスメイトの少年、時和ときわ未来みらいの姿が見えた。


「あ、未来くん!」

「晄なら、さっきやっと問題解き始めたところだよ。」

「あ、あはは……お恥ずかしい……」

「まあまあ、さっき来たばっかりだもんね。」


未来はそう言ってにこりと笑うと、晄達の方に体を向けた。

未来は図書委員である。それも、今日の当番でもあったらしく、今現在図書室にいる数少ない人物の一人だった。彼は、あのトリスの一件以来、失った右目を隠すように前髪を伸ばすなど、外見も変わったが、トリスに目をつけられた時のように自分の辛い過去から逃げるのではなく、向き合って受け入れるようにと、その考え方も変化していた。

それでも晄や木葉との関係は変わらず、互いに勉強を教えあったり、グループ活動の時に一緒になったりとしていた。


「……あれ、晄ちゃん、それおかしいよ。」

「え、どれ?」


晄のプリントを覗き込むと、未来は顔を顰めて言った。晄は、あまりにも心当たりが多いため、未来が言っているのがどの問題のことやらさっぱり分からず、彼のいる方にプリントをスライドさせた。未来は、手に持っていた沢山の本を机の隅にそっと置くと、晄のプリントの上に指を滑らせた。


「二問目。この計算じゃ、xの増加量が一の時のyの増加量じゃなくて、xの値が一の時のyの値になっちゃってるよ。」

「……あたい。」

「ごめん未来くん、晄がフリーズしてる。」


晄はまた根本を理解していなかったらしい。未来はそれを説明したのだが、彼女の貧相な頭では直ぐに理解できないらしい。耳に入った言葉をただ口に出してみるだけのロボットのようになった晄に、未来は苦笑いをうかべた。


「あはは……yの増加量は、傾き……まあ、aって言った方がいいかな?それを、xの増加量で割れば出るよ。」

「……やってみます。」


それぞれに対応する数字を指さしながら未来がそう告げると、晄はまたプリントを自分の前まで戻して、問題と向かい合った。また何かぶつぶつと口にしながら問題を解く晄を、未来は微笑ましげに、木葉は不安そうに眺めていた。彼女は未来の教えたことを理解したのか、二人の思った通りの計算をしていた。しかし、それがだんだんとおかしくなってきたのを感じて、二人は同時に口を開いた。


「待った。」

「……えっ、どうしたの?」

「六を三で割ってるんでしょ?」

「え?……うん。」

「なのに、答えが三って、何があったの……?」

「三二が六でしょ?」

「……ああ!足し算してたぁ……!」


二人の言葉で、やっと自分の失敗に気がついたらしい。晄は慌てて、間違えていた式を消しゴムで消すと、途中からまた計算をし直した。しばらくしてその計算を終えると、晄は解答欄に答えを書き、二人の方に見せた。


「どう!?」

「……うん、正解!」

「よ、よし!次やる!」


まだ、一枚目のプリントのたった二問目で、かなり時間を割いてしまったのだ。晄自身も不安を覚えたものの、もとより不安だからこそ、これらのプリントを貰ったのだ。彼女は、自分の両頬をぺしぺしと叩いて無理矢理に気合を入れると、他の問題に取り組んだ。

残った二人は、また、何かぶつぶつと口にする晄を眺めたが、今のところは問題が無さそうだと判断すると、互いの方を見合わせた。


「木葉くんは、何か心配な所とかある?」

「え、僕?……僕はもうテスト直しもしたし、とりあえず不安なところはもう無いかな。」

「そっか!なら良かった!でも、ボク数学なら得意だから、それでわかんない所があったら遠慮なく聞いて?」

「うん、ありがとう。あ、でも、晄に説明するの苦戦したら、また手伝ってくれる?」

「うん、もちろん!」


木葉の言葉に、未来はにこりと笑って頷くと、テーブルの上に置いていた、何冊もの本をまた両手で抱え込むと、晄達の方から体を背けた。


「うん。じゃあ、勉強頑張ってね!」

「あ、ありがとう未来くん!」


本棚の方に立ち去っていく未来を見て、晄はそっと顔を上げて手を振った。未来はそれに気づくと、左手でそっと小さく手を振り返し、また歩き出した。

晄はただ何も考えず彼を見送ったものの、未来のその足取りは、僅かに左側に傾いているように見えて、おぼつかない様子に思えた。彼はまだ、リハビリを終えたばかりに加え、右側の視界も失ってしまったのだから、当然と言えばそうなのかもしれない。しかし、そんな彼に不安を覚えると、木葉は手にした小説をテーブルに置いて、彼の後を追った。


「……あれ、木葉くん。どうかしたの?」

「え、あぁ、なんかちょっと、大変そうだなって思って。手伝おうか?」


しかし、いざ彼に話しかけられて、木葉はなんと答えればいいのか分からず、咄嗟にああ口にした。彼を追った本当の理由を言うのは、彼を傷つけてしまうような気がして、はばかられてしまったのだ。未来は、そんな木葉の心情を察してか知らずか、まずそれ以前に自分を気遣ってくれたことが嬉しかったのかもしれないが、にっこりと笑うと、手に持っていた何冊もの本の内、二、三冊を手に取ると、残りを彼の方に差し出した。


「うーん、ならお言葉に甘えて。これ持っててくれるかな?」

「あ、うん、わかった。」


木葉は未来から何冊もの本を受け取ると、それを両手で抱えた。未来はそれをそっと見やると、自分の持つ本の背表紙をじっと眺めた。


「……それは、なんの仕事?」

「……えっと、みんなが借りた本を、ラベル見て元の場所に返すんだ。」

「へぇ、大変そうな仕事だね……」

「いや、代本板もあるし、結構慣れれば簡単だよ。」


未来は、木葉の方に視線を送ると、自慢げにそう告げた。そうして直ぐに、彼の視線は木葉から手元の本に移された。彼は、左腕で何冊かの本を抱え、そのうちの一つを手に取った。その本を少し傾けてその背表紙を見つめると、今度はそれと本棚を見比べる。少しして、一度手に持っていた本をまた左腕に預けると、空いた右腕は、目の前の本棚にある代本板にさし伸ばされた。


「こんな感じでね。」


彼はそれをひょいと引き抜くと、そこに先程手にしていた本を差し込んだ。随分と手馴れた様子のそれに、木葉は目を引かれた。


「凄い、十秒もなかったよ!」

「えっへへ。まあ、一年の時からやってるし。」


木葉の言葉に、未来は照れくさそうにそっと鼻の下を擦った。その頬は少し緩んでいたのか、また手元の本に目をやっても、にやりとした笑みが抜けきれずにいた。しかし、そんな自分の表情に、本人は気がついていたのだろうか。徐々にそれは引きつっていき、しばらくして少し頭をふるふると振ると、空気を切り替えるために、本に目をやりながらだが、その口を開いた。


「でもこうしてると、だんだん、この本を読んでるのは誰なんだろうとか思ったりして、本の中の貸し出しカード読んだりしちゃうよね。シリーズになってる本とかは、それぞれの巻で、借りてる人の名前の順番が同じになってたりもするし。」

「ああ、前借りた人を追いかける形になったりしてるのかな?」

「多分そんな感じかな……でもたまに、中途半端な巻を一巻だけ借りてる人とかもいて、その理由とか想像すると、結構楽しいんだよね!」


未来の口は相変わらず動いたままだったが、しかしその手もまた、休むことなく動き続けている。左腕に抱えられていた本は、次々とその手から消えていくのだ。彼の無邪気に思える言葉に対して、テキパキと休みなく動かされるその手に、木葉は目を奪われていた。


「木葉くん、その本少し貰うね。」

「あ、うん。」


気づけば、彼の腕からはすっかり本が無くなっていた。未来は、木葉に預けていた本のうち、また何冊か手に取ると、その背表紙を見やった。少しして、未来は顔を上げると、目の前にあった本棚から体を背け、一度木葉の方を向いた。


「別の本棚に移動していい?」

「う、うん、もちろんだけど……ラベルだけで場所がわかるの……!?」

「うん。本の種類で番号が着けられてて、それによって本棚も違うんだよ。今度は伝記コーナーだね。」

「そうなんだ……」


未来は、そう告げると、更に奥の方の本棚に足を進めた。少しふらついているものの、迷いなくひとつの方向に向かう彼の姿に、木葉は更に関心を深めた。大した距離もなく、そこにはすぐたどり着いたが、そこからの未来もまた、直ぐに仕事に取り掛かった。


そうして、未来が全ての本を元の場所に戻すのは、あっという間のことであった。


「木葉くん、手伝ってくれてありがとう。」

「いやいや、僕なんてただ本持ってただけだし……」


未来に頭を下げられた木葉だったが、大したこともしていない自分とその行動が釣り合わないと感じ、少しの罪悪感を覚えた。されども、未来からしてみればけして釣り合わないとは思えないようで、頭を上げた未来の表情は、笑顔だった。


「それが助かったんだよ!ボク、あんまり力ないから、いつも本置いてやってたんだよね……でも、それってちょっと本が汚れる可能性もあるから、あまりやりたくなかったんだよね。だから、木葉くんにはまた助けられちゃったよ!」

「……そんな、大袈裟だよ……」


木葉の中にあった罪悪感は、その発言の後消えると、その代わりに照れくささがやってきた。あまり大っぴらに感謝などされない彼は、少し顔を赤くした。しかし、少ししてあの言葉の中にひとつ違和感を覚えた。


「……?また助けられた?」


また助けられたと、未来は確かに言っていた。しかし、木葉にはそんな心当たりがありはしなかった。確かに、グループ活動などで一緒になったりした時に、何か彼の助けになる行動をとっていない、とは言いきれないが、そんなことをわざわざこの場で口にするとも考えずらい。トリスの一件に関しても、木葉の記憶が正しければ、彼には戦士やらバケモンやらということを隠していたはずである。


「え?もしかして忘れちゃった?」

「……もしかして、お見舞いのこと?」

「それもそうだけど……鳥沢とりさわ先生から、ボクのこと守ってくれたのは、木葉くんと晄ちゃんでしょ?」


しかし、それと同時に、また新しい心当たりが現れた。トリスと、巨大なマリーゴールドの事ですっかり頭から抜け落ちていたが、未来が入院中、彼に宿題のプリントやノートのコピーを、晄と共に病室まで届けていたのだ。恐らく彼は、このことを言っているのだろう。そう考えた木葉はそう口にしたが、未来の答えはその予想から反していた。

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