第7話 星

 標高はほんの二百メートルばかり、登山道というか散策路も整備され、休日ともなれば手軽なハイキングを楽しもうという人でそれなりに賑わう場所だ。しかし平日の今は暫く前に老夫婦とすれ違ったきり、まるで深山幽谷にでもいるみたいひっそりしていた。


 湿り気を帯びた土に足を取られそうになり、丸太を渡した手すりを慌てて掴む。木のささくれが肌に痛い。

 足を止めて一息つくと、直光なおみつは額を流れる汗を拭った。空は灰色の雲に覆われ、地面にできる影も薄いが、九月ではまだ暑さは去らない。ここ何ヶ月も基本引きこもっている身にとっては死にそうにきつい道行きだ。つまり目的には適っている。


「少し休みますか?」

 先を歩いていた麻巳子まみこが振り返った。直光がへばっているのを察したらしい。デニムにパーカーというボーイッシュな格好が案外似合っている。


「……だい、じょうぶ……歩け……る」

 答える声が既にして息も絶え絶えでは、説得力皆無である。

 麻巳子もうっすらと汗をかいてはいるが、まだまだ余裕がありそうだった。筋力はともかく、持久力ならひきこもり大学生より現役女子中学生の方が上らしい。


「でも展望台までまだ結構ありますよ。途中で動けなくなったりしたら、あたしではどうにもできないですし。まあそうなったらやめればいいだけですけど」

「……平気だって、言ってる、だろう……自分の面倒、ぐらい……自分で、見られる」


「そうですか」

 麻巳子は素っ気なく答えた。先に進もうとして、またすぐに立ち止まる。少し先の大きく右に曲がった場所に、道から張り出すようにして木のベンチが設えられていた。


「じゃあ、あたしが休みたいからって理由ならいいですか?」

「……分ったよ」

 微妙に不貞腐れた口調になったが、内心ではほっとしていた。このままあと十歩も歩いたら腰から崩れ落ちそうだ。


 麻巳子はベンチに腰を下ろした。樹木の隙間から、これまで登ってきた道を見下ろすことができる。大した高さではないはずなのに、地上からずいぶん離れたように感じられる。吹き過ぎる風は湿気っていてぬるい。麻巳子はパーカーの袖を肘の辺りまで捲り上げた。


「座らないんですか?」

 木のベンチの傍で、膝に手を付いた直光はまだ荒い息をついている。

「……ずいぶん、親切なんだな……君に、ひどいことを、しようとした相手に……」


「嫌われるのって苦手なんです。恨まれたまま死なれたくないですし」

「……死ねって、言ったのは、君だ」

「あなたが死にたいって言ったんです。あたしは強制なんてしてません。したくたってできないですけど」


「……座る」

「どうぞ」

 麻巳子は体を横にずらした。別にそんなことをしなくても直光が座れるぐらいの余地はあったが、気分の問題だ。


 麻巳子がこの場所のことを直光に教えた。

 頂上に見晴らしの良い展望台があり、腰ぐらいの高さの柵を乗り越えれば、あとは崖下の岩場まで遮るものは何もない。飛び降りれば確実に死ねるだろうと。


「……どうして、一緒に来たんだ? 俺がちゃんと死ぬのを、確かめるためか?」

「人が死ぬところなんて見たくないです」

 そんなの当り前じゃないですか、と麻巳子は言った。直光は顔をしかめた。


「じゃあ、信じてないってことだな。本当に自殺なんかするわけないって、俺にそんな度胸あるわけないって思ってるんだ。そうだろうな、俺だって信じられない。もし自分で決めたことだとしたら……だけど、そうじゃない。俺が死ぬのは俺に生きる価値がないからで、それは世界が決めたことなんだ。だったらそうなるしかないだろ」

 この人は何を言ってるんだろう。麻巳子はベンチから腰を上げた。半歩前に出てから振り返り、直光の正面に立つ。


「一時間二万五千円です」

 手を差し出す。

「あたしとセックスしたいんですよね。いいですよ。だけど無理やりは駄目です。ちゃんとお金を払ってください。口でもするし、追加料金を払ってくれるんなら、お尻でもいいです。昨日は結局すっぽかしちゃったけど」

 韮崎にらさきさん怒ってるかな、と相手には理解不能のことを呟き、直光の前に膝を付く。股間へ手を伸ばしてジッパーを引き下ろす。


 指が触れる。そっと握り締められる。先端を柔らかく湿ったものが撫でていく。

 直光は声にならない叫びを放った。体の中心が炸裂したようにベンチから立ち上がり、その勢いに押された麻巳子が後ろに倒れ込む。だがそこにもう平らな地面はなくて、直光は咄嗟に手を掴んだが、半端な体勢で踏みとどまることはできなかった。


 二人は折り重なって坂を転がり落ちた。

 潅木に足を払われ、落ち葉に顔をはたかれ、土の匂いを嗅いだ。自分を守ってくれるものではないと知りながら、それでも全てが流れ移ろっていく中で、たった一つ確かにそこにある手をきつく握り締める。

 命が助かったのは生きるために懸命にあがいた結果でも、万に一つの奇跡が起きたからでもなかった。もともと大した高さではなかっただけだ。


 二人は一周下の道の脇の茂みに倒れていた。体のそこら中が痛みで悲鳴を上げているが、どれも打ち身や擦り傷程度のもので、動かせなかったり痺れているような箇所はない。直光はとりあえず出しっ放しだった自分のものをしまった。一息ついてから少女の様子を確かめる。


 麻巳子は動かなかった。痛がっている素振りはなく、直光の存在を気にかけることもなく、大きく見開いた目をどこか中空の一点に向けている。瞬きさえしていない。まるで肉体から意思が抜け出てしまったかのようだ。

 浮かんだ不吉な連想を、直光は頭を振って打ち消した。少女は確かにここにいる。自分の傍らで息をしている。


「おい、大丈夫か? 怪我でもしたのか?」

 こわごわと肩を揺する。麻巳子は答えない。精巧な人形を相手にしているような居心地悪さを振り払って、直光はもう一度呼びかけようとした。


「……星が」

 ぽつりと、呟きが洩れる。

「星……?」

 問い返して直光は上を向いた。だが白昼の曇り空に星など見えるわけがない。うそ寒さを覚えた刹那、未だ少女と繋がっていた手が強く引かれた。


「ほら。見て」

「あ」

 直光も気付いた。二人が落ちてきた元の道の陰に、青紫の五片の花弁が、暗闇に光を灯すように揺れていた。


「……きれいだね」

 麻巳子が言う。

 本当だ。

 直光は思った。

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