第6話 忘却の此岸

 暫しの葛藤のあと、麻巳子まみこは廊下に足を踏み出した。後ろに付かれるのが嫌で、先に降りてくれるのを待っていたのだが、男は頑なに〈開〉ボタンを押し続けている。


 早足で部屋の前までたどり着き、バッグを探って鍵を取り出す。たまにしか使わないわりに、金属の光沢が薄れて曇りを帯びている。これだけがそうなのか。他の人の鍵もやはり同じように薄汚れているのだろうか。

 ドアを開けながら隣を確認しようとして、ぎょっとした。


「やだっ、なに、離して!」

 腕を掴まれ、反対の手で押し退けようとしたものの、隣人はしがみつくようにして麻巳子の体を抱きすくめ、共に部屋へとなだれ込んできた。そのままベッドに押し倒される。男の体重を丸ごと受ける破目になって息が詰まった。まるで昨日の再現みたいだと思い、だがすぐに違うと否定する。


 ヒロは客だった。ちゃんとお金を払ってくれた。この人は違う。それにもう暫くしたら、本物の客の韮崎にらさきが来る。嬉しくない。だが拒否はしなかった。五万円。麻巳子とお尻でするための代金。それって高いのかな、安いのかな。どちらでもいい。どうせ受け取るのは貴世たかよだ。麻巳子が貰うのはそのうちの二割だけ。貴世の五分の一。それがあたしの価値。あたしが自分でそう決めた。本当に馬鹿みたいだ。笑える。


「ぐがっ」

 セーラー服の胸元をまさぐっていた隣人が、踏み潰された蛙みたいな声を上げる。大きく一度痙攣して、ぐったりと力を失った。


 重いな。どいて。

 力を込めて身をよじる。隣人が床に落ち、ごちんと大きな音を立てる。

 なんだかおしっこくさいと思って見下ろすと、気絶した男のズボンの股に、黒い染みができていた。


 麻巳子は手にしたスタンガンを枕の下に戻した。万が一の時のためにと貴世が用意していたものだ。使ったのはこれが初めて。自分まで感電しなくてよかった。

 ちゃんと役に立ったのはいいが、後始末の仕方まで貴世は教えてくれていない。たぶん考えてもいないだろう。もっともそれは麻巳子だって同じだ。


「どうしたらいいのかな、これ」

 倒れた隣人の肩をつま先でつついてみる。とりあえず生きてはいるらしく、胸が規則的に上下している。


 気が付くまで待って帰ってもらう。大人しく帰ってくれるならいいが、自分に電撃を喰らわせた相手の言うことを素直に聞くものだろうか。しかも麻巳子を暴行しようとした男だ。

 身動きできないよう縛り付けて警察を呼ぶ。あまり真面目に検討する気にはなれない。都合よくロープなどないし、あとが大変過ぎる。


 いいか。めんどくさいし。

 男をまたぎ越すようにしてベッドから床へ下りる。

 このまま部屋を出る。もし韮崎が訪れたらさぞかし驚くことだろう。マンションの玄関では応答がない。他の誰かが来るのを待って一緒にガラス扉を通り抜け、この部屋に来てノブを回すと鍵は開いていて、中に入れば知らない男が倒れている。きっと、いや間違いなくその場で回れ右するだろう。介抱しようとか救急車を呼ぼうなんて頭にも浮かばないに違いない。


 たぶん心配しなくても大丈夫。そのうち勝手に目を覚まして、隣の自分の部屋に帰るだろう。

 だけど。

 頭を打ってる。結構な音がした。


 誰も見ていないところで顔色が真っ青になって、呼吸が浅く切れ切れになって、最後には止まってしまう。様子がおかしくなった時すぐお医者さんに診せていれば、助かったかもしれないのに。

 だから? そんなの、あたしの知ったことじゃない。


        #


 後頭部にひやりとした感触があった。手に取って確かめると、赤と茶色のチェック柄のハンカチを濡らしたものだ。誰の持ち物なのか考えるまでもない。

 記憶は全部揃っていた。何があって自分の部屋と似た間取りの部屋で寝ていたのかも分る。

 だが理由が分らない。


 制服姿の少女が椅子に座り、机に向かっている。

 直光なおみつはわざと音を立てるようにして身を起こした。

 少女は柔らかく背中を丸めたまま振り向かない。


 今度はそっとベッドから下り、少女の傍らへ歩み寄る。

 眠っていた。

 左手で頬杖をつき、静かな寝息を立てる無防備な横顔に、直光の鼓動が速くなる。

 今ならたやすく欲望を遂げられる。

 

 少女は直光を許してくれた。警察に通報されることもなく、仲間を呼ばれて袋叩きにされることもなく、ベッドまで使わせてくれたのだ。

 理由は分らないが、許された。その事実が直光の胸を突く。


 だがそれは自分に都合のいい考えだ。本当は許されてなどいない。そんなことがあるわけない。少女が気遣ったのは直光という人格ではなく、気を失った怪我人だ。迷子を保護するのと変わらない。一般的な善良性の表現。

 だからせめて直光はこのまま消えるべきだった。少女に二度と不快な思いをさせてはならない。


「……悪かった」

 囁く声は衣擦れより微かだった。

 自分の後ろ暗さを薄めるだけの無価値な言葉だ。許されなくていい。忘れてほしい。自分という存在を、少女の世界から消し去りたい。初めからいなかったみたいに。彼の罪を滅せる、たった一つの冴えないやり方。


「帰るんですか」

 部屋を出ようとして、だが首に縄をかけられたみたいに足を止めた。ぎこちなく振り返った直光に、目元をこすりながら少女が問う。


「頭を打ってたみたいですけど。気分が悪かったりしませんか」

「気分は悪いな。最悪だ」

 直光は自嘲した。頭の後ろには大きなコブができているし、しかも少し漏らしたらしい。


「自分がやろうとしたことを考えると死にたくなる。実際、俺なんか早く死んだ方がいいんだ。生きてたってしょうがないし、他の人の迷惑になるだけだ」

「たぶん、そうなんでしょうね」

 化粧っ気のない少女の顔に、怒りの色は見つからない。艶消しの塗られたような黒い瞳を真っ直ぐに直光へ向けている。


「あたしもあなたみたいな人は死んだ方がいいのかもって思います。意見が一致しましたね。それで、どうするんですか? いつか死神が殺しにきてくれるのを、ただじっと待ってるだけですか?」

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