第5話 尾行

 終礼が済み、机の中から取り出したノートと教科書を通学バッグの中にへ詰め込むと、麻巳子まみこはジッパーを締める前に試しに持ち上げてみた。うわっ、重っ。

「まーみちゃん」

 以前から読みたかった本を図書室で借りられたのはいいのだが、分厚いハードカバーの上下巻組で、たぶん教科書全部を合わせたよりずっとページ数が多い。


 家で全教科の予習復習をするわけでなし、適当に置いて帰ろうかと思ったが、取捨選択をするのも面倒だった。あきらめてそのまま肩に掛ける。

 ……やっぱり、数学と英語だけにしようかな。


「麻巳ちゃんってば」

「わ」

 ずっしり感に軋む肩を叩かれ麻巳子はあえなくバランスを崩した。だが転びそうになったところを力強い手に支えられる。


「ご、ごめん。ありがと」

 相手を見上げて礼を言う。前の席の花島はなじまは顔を赤くして、「おお」と「ああ」の中間ぐらいの声で応じる。


「こらハナジー、なーにあたしに断りもなく麻巳ちゃんのこと抱き締めちゃってんのよ。そんなことしてただで済むと思ってるの? ラブラブなの?」

「そんなことっ……」


 半眼で突っ込む貴世たかよに花島は一瞬激しい動揺を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻すと、胸の中に抱き止める格好になっていた麻巳子をそっと押し離した。

 ふわりと甘い匂いが麻巳子の鼻をくすぐる。どうやら花島がつけている整髪料らしい。珍しい、というか初めて見た気がする。もっとも部活を引退するまではずっと丸坊主だったのだから、何も使っていなくて当然だ。


「それ、プールの後でつけたの?」

 確か朝は普通だったはずだ。

「ああ」

 花島は頭に手をやった。短めの髪がツヤツヤと光沢を帯びて逆立っている。

「変か?」


「いいんじゃないかな。似合ってると思うよ。ね、貴世ちゃん?」

 本音ではあったが、あまり自信がないので、おしゃれな友人のお墨付きを求める。だが貴世は不服そうに首を左右に振った。


「えー、そんなの絶対なしだって。坊主じゃないハナジーなんてハナジーじゃないもん。ハナブーだもん」

「意味分んねえからな。それより来宮きのみやに話があるんだけど。このあといいか?」


「いくないよ。麻巳ちゃんには大事な約束があるんだから。ハナブーなんかと遊んでる暇はないのです。明日また出直すように」

 麻巳子が返事をする間もなく貴世が腕を組んできて、花島に「んべっ」と舌を突き出す。

「じゃいいや。明日な」

「あ、うん。バイバイ」


 あっさりと背中を向けた花島を麻巳子は手を振って見送った。いったい何の話だったのだろう。少しだけ気になった。

 外靴に履き替えて校舎を出る。昨晩やっていたドラマの感想を熱心に語っていた貴世は、まるで同じ話題の続きみたいに麻巳子に告げた。


韮崎にらさきさんがね、また麻巳ちゃんと会いたいんだって。今日って時間ある?」

「韮崎さんって、こないだの?」

 眉をひそめる。さっき花島に言った「大事な約束」とやらはこれらしい。


「うん、ちょっち渋めのおじさん。麻巳ちゃんのこと気に入ったみたい。それでね、今度はお尻の方にしたいんだって。最初は断ったんだけど、五万出すって言うから引き受けちゃいました。えへへ」


 お尻って、お尻に入れるっていうこと? アレを?

 そういう仕方があることぐらいは知ってるけれど。麻巳子が思わず黙り込むと、貴世は上目遣いに擦り寄ってきた。


「えっとー、やっぱりいやだった? 韮崎さんにはごめんなさいしないとだめ?」

 これまで考えたことすらなかった。痛いのかな。痛いんだろうな。汚いし。どうしてそんなことしなくちゃいけないんだろ。

「分った。いいよ」


「ほんとに? わーい、ありがとー。麻巳ちゃんならそう言ってくれると思ったんだー。優しいもんね。あ、でもでも無理はしないでいいからね。途中で『やっぱやめるー』ってなったら、遠慮なく断っちゃって。お金は返せば済む話だし。もしそれでも力ずくで迫ってきたら、容赦は無用だよ。思いきってやっちゃえ」

 バチッとね。貴世は鋭く指を鳴らした。


     #


 おそらく偶然と必然の間は案外近い。偶然と思えることでも、そこに至るまでの道筋は確実に存在しているし、必然と思えることもまた、起こり得た幾つもの可能性の一つに過ぎない。


 夏セーラー服の少女が直光なおみつの前を歩いている。右手には重そうな通学バッグを、左手にはコンビニのビニール袋を下げている。

 昨日出会った少女をコンビニで見かけた。それは一つの偶然だ。

 昨日出会った少女のあとをつける。それは直光には必然だった。


 緩い坂道が始まる手前で少女が足を止めた。腕が疲れたのか、バッグを下に置いてぷらぷらと手首を揺する。直光も距離を置いて足を止め、少女の後ろ姿を見つめた。

 もし今あの少女が振り向いたら、自分はどうする。どうすればいい。

 だが結局少女は振り向ことなく、再び歩き出した。二人のマンションが近付く。直光は足を速めた。


 少女が建物のガラス扉を通り抜けてすぐ、直光は扉脇のパネルで六桁の暗証番号を押した。閉まったばかりの扉が再び横に開く。中に入ればエレベーターの前にいるのは一人だけだ。

 直光が隣に立つと、少女は居心地悪そうに距離を開けた。


 エレベーターの到着を知らせるチャイムが鳴った。ぽっかりと四角く切り取られた空間に直光は先に乗り込んだ。〈開〉ボタンを押して待っていると、ためらうように少女が続き、直光と対角線上の位置に離れて立った。


 エレベーターが上昇を始める。

 沈黙が二人を呑み込む。

 だがそれもつかのま、狭い箱の中の二人は宙空に静止する。

 扉が開く。直光は〈開〉ボタンを押さえて待った。少女は奥から動かない。外廊下の床に濃い陰が落ちている。明暗の異なる領域が面を成す。光と闇、自分にふさわしいのはどっちだろう。

 考えるまでもないことだった。

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