第4話 見知らぬ隣人
……はぁ。すっごく疲れたな。
玄関口で踵の磨り減ったスニーカーに足を入れたまま、
シャワーで汗と汚れを洗い落とし、歯磨きで口の中に残る苦い味をすすいだが、未だ奥に熱を帯びた鉛の芯が残っているみたいに、ひどく体がだるかった。いっそもう一度ベッドに引き返して眠ってしまいたいぐらいだ。
今日はヒロが部屋に来た。
室内に上がり込むやいなやヒロは無言のまま麻巳子を抱きすくめ、抗う間もなくベッドに押し倒された麻巳子はスカートをまくられ下着を奪われ荒々しくまさぐられた。
乱暴にされるのは慣れていない。
危なそうな人物は最初から
麻巳子はたやすく動揺した。肩書きではなく会った時の印象から、不器用でも優しくしてくれるだろうと想像していた。
だがヒロは確かに強引で性急だったが、同時に繊細で巧妙だった。麻巳子が苦痛を覚えた次の瞬間には引いていて、ほっと体を緩めるとすかさず奥まで突き入れられた。
いつしか麻巳子は切ない声を上げていた。
そしてどこか頭の隅の方で、そんな自分のことを他人みたいに眺めていた。
貴世に誘われるままこのことを始めてから、痛くこそあれ気持ちいいことなどなかった。皆がなぜこんなことをしたがるのか不思議だった。
それとも好きな人が相手ならば違うのか。
だが今麻巳子の深い場所を抉って蕩けさせているのは、好きな相手でもなんでない。他の男の人達と同じ。ただの客だ。
自分はこうすることでお金をもらう。
じゃあお金を払ってあたしを抱くことで、この人は何を得るんだろう。
そんなどうでもいいことを考えているうちに、体中に電気が走り。
終わっていた。
全然力が入らなかった。口の中が不快に粘ついているが、すぐには立ち上がれそうもない。
いちはやく服を着たヒロは、まだベッドの上で荒い息をつく麻巳子を見下ろし、口の中で何かを呟くと、逃げるようにして出ていった。ごめん、と聞こえたような気もするが、定かではない。
喉が痛い。途中からは喘ぎ声どころかほとんど叫び声になっていた気がする。まるで盛りのついたケダモノだ。かっこ悪い。
息を整えてドアを開ける。驚いた。
隣の部屋のドアに鍵を差し込んだまま、呆然と突っ立つ男がいた。
麻巳子よりは年上だが、ヒロよりは年下だろう。
伸ばしているのではなく切りそこねているだけといったぼさぼさの前髪の下で、充血した目がせわしなく瞬きを繰り返している。こけた頬が青白く、いかにも不健康な印象だが、髭だけは綺麗に剃られている。
初めて見る相手だった。少なくとも麻巳子に覚えはない。しかし普通に考えて隣に住んでいるのだろう。つまりは他人だ。
「あ、いや、俺、そ、そんなつもりじゃ、なくて」
普通に目を逸らそうとした麻巳子に、男はなぜか話しかけてきた。
「盗み聞きしようとか思ったわけじゃなくて、だけどここ壁薄いから自然にっていうか、今だってただ外に出ようとしてただけで、だから偶然で、顔を見ようとかそんなつもりは全然っ」
男は唐突に黙ってうつむいた。額をドアに押しつけ、世の全てを締め出そうとするみたいに固く目を瞑り、握った拳を小刻みに打ち付けている。意図が全く分らない。
だがヒロとの行為の声が、この人には丸聞こえだったことは確かだ。
耳たぶが熱くなる。
麻巳子は努めて平静に廊下へ出ると、部屋の鍵を掛けた。
そそくさと隣人の脇を通り過ぎてエレベーターへと向かう。いったいどう思っただろう。セーラー服姿だし、顔も体つきも特に大人びてはいない。通報されたとしてもおかしくはない。
エレベーターが来るのを待ちながら、横目で様子を窺うと、男は頭を抱えて廊下にへたり込んでいた。まるで苦悩のどん底に沈んでいるといった風情だ。やっぱり意味が分らない。
でもきっと何か辛いことがあるのだろう。そんなの誰にだってある。いちいち相手にしてはいられない。
#
本当にそんなつもりではなかった。外に出ようとした直前に鍵を忘れたことに気付いて引き返した。鍵を取るより先に、視界に入ったベッドに落ちるようにして寝転んだ。それでもう面倒臭くなった。
だから盗み聞きをするつもりなどはなかった。
普段あの部屋に気配があることは少なく、たまに人がいる時には決まってそのあと別の誰かが訪れて、そのうちベッドが軋む音がし始める。だからそういう目的のために借りられているのだろう。だがそんなこと自分には関係ない。他人のすることに興味はないし、自分のすることに意味はない。
だが今回は何かが違った。遠く儚い夢の中の呼びかけに誘われるようにして、
少女の声が伝わる。心臓を直に掴まれたみたいに、直光は震えた。
初めは微かに洩れ聞こえるだけだったものが、どんどん高まり大きくなっていく。
ひときわ激しくなった時には直光も同時に声を上げ、押し殺した苦鳴が聞こえれば奥歯を噛みしめてこらえた。薄い壁を隔てて顔も知らぬ少女と交わりながら、同時に少女と自分を重ねながら直光は。
一人だった。
気付けば誰も訪れず誰をも閉め出す暗い部屋にいた。湿った布団の敷かれたベッドの上で、壁に身を張りつけた格好で途方に暮れる。
体が破裂しそうだった。鍵だけを引っ掴んで部屋を出た。
そして。
通路の壁に手を付き、直光はよろめきながら立ち上がった。床が泥と化したみたいに足元が頼りない。ともすればずぶずぶと沈み込んでいきそうだ。
既に少女はいなくなっていた。だが隣室のドアが開いて直光を見た時の表情が、頭の中でいつまでも繰り返し映し出され続けている。
もう逃げられないと思った。直光が何をしていても何をしていなくても、少女の面影は亡霊のごとくつきまとう。偽りの交わりを犯した罪を責め立てる。死そのもののように直光の存在を脅かす。
唐突に理解した。つまりあの少女は死神なのだ。生きる価値もない人生にしがみつく自分を終わらせるために現れた。ならば抗おうとするのは無駄だ。この身を運命に委ねるべきだ。宗教的な啓示にも等しい絶対的な確信。
だが直光は気付かなかった。
初めて会った相手のことが心から離れない。
それは世間の常識では一目惚れと呼ばれている。
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