第2話 ワンルーム

 ヒロと二人だけにしても、特に危ないことはないだろう。貴世たかよは自分よりもずっとしっかりしているし、人を見る目だって確かだ。

 それに、用心深い。信用できる相手だと確信するまでは、絶対に先に進むことはなく、会うのも日中で人目の多い場所に限られる。


 一人で駅へ戻った麻巳子まみこは、ここに来た時とは別の路線の電車に乗った。

 中吊り広告を眺めているうちに眠くなってしまい、はっと気付いた時にはもう降りる駅で、閉まりかけのドアを擦り抜けるようにしてホームへ降りた。途中、コンビニに立ち寄ってジュースとサンドイッチ、それにお菓子を少し買った。


 傾斜の緩い坂をゆっくり登り、たどり着いたのは鉛筆みたいに縦に細長いマンションだ。八階建てだが、陸上選手なら一飛びで端から端まで行けてしまえそうに思えるほど、横幅は狭い。


 オートロックのガラス扉を開けて建物に入る。中はまるで見捨てられた遺跡みたいに静まり返っていた。平日の昼間だから住人はだいたい出掛けているのだろう。麻巳子はエレベーターに乗り込み、七階のボタンを押した。


 目的の階に着く。ひとけのない廊下を進んで、七○三号室に入った。ワンルームの狭い部屋だ。勉強机と本棚とベッドだけでもういっぱいという感じ。

 コンビニの袋を置いて窓を開け、エアコンのスイッチを入れる。机の前の椅子に座り、ジュースを飲みながらサンドイッチを食べる。食べ終えて、ゴミを捨てるついでに窓を閉める。


 約束の時間まではまだ少し間があった。

 勉強でもしようかな。一応受験生だし。

 それに、その方がきっとリアルだ。

 だが結局何も手をつけないまま目を瞑る。

 リアルなんて、知らない。

 暫くして、チャイムが鳴った。目を開けた麻巳子は立ち上がり、壁のインターフォンを取った。


“あ、ええと、韮崎にらさきって者だけど”

「――はい。今開けます」

 解錠のボタンを押して、椅子に戻った麻巳子は、机の上の小さな鏡で自分の顔を映し見た。


 可愛い。可愛くない。どっちだろう。よく分らない。

 数分後、再びチャイムが鳴る。ドアを開けると、外にいたのは中年の男だ。会うのはこれが二度目。


「いらっしゃいませ。どうぞ」

「どうも。お邪魔するよ」

 のそり、という感じで入ってきた韮崎は、じろじろと部屋の中を見回した。


「ここ、君の部屋?」

「だいたいそんな感じです」

「一人で暮らしてるのか」

 麻巳子は答えず、窓のカーテンを閉めた。レモンイエローの明るい色合だが、遮光性は高い。部屋は日が落ちたみたいに暗くなる。


「シャワー、使いますか?」

「タオルなんかはあるのかい」

「用意してあります。ちゃんとクリーニング済みのものが」


「ははっ、まるでラブホテルだな。最近の子は凄いもんだ。俺がガキの頃なんかはさ……いや、そんなことはいいわな。せっかくだから使わせてもらおう。君だってその方がいいだろう? だけどその間に逃げるなんてのは無しにしてくれよ。金はもう払ってあるんだ。その分たっぷりサービスしてもらうよ」


「大丈夫です。ちゃんとしますから」

 麻巳子は答えた。韮崎はなおも念を押した。

「俺にもそれなりに知り合いはいるんだ。もしふざけた真似したら痛い目見るぐらいじゃ済まないからな」


 早口で言い残し、狭いバスルームへと入っていく。

 麻巳子はベッドに腰を下ろした。服はまだ脱がない。着たままとか、自分の手で脱がせるのを喜ぶお客さんも多い。


 生は不可。

 口には可。

 撮影不可。

 一時間二万五千円。

 それが、あたしの値段。


 このあとにするだろうことをざっと思い浮かべて、麻巳子は首を横に振った。

 違うな。そうじゃない。

 胸元のリボンを直し、スカートのほこりを払う。

 あたしじゃなくて、セーラー服を着た中学生の女の子の、値段なんだ。


     #


「おっはよー!」

 貴世はいつものように元気だった。クラスの誰彼となく挨拶を交わしながら、真っ直ぐに麻巳子の前の席まで来て座る。


「おっはよ、麻巳ちゃん。きのうはつき合ってくれてありがとね」

「おはよう、貴世ちゃん」

 普通に挨拶を返してから、麻巳子は周りを気にして声を低めた。


「どんな感じだった? ヒロさんとは仲良くなれた?」

「うーん、まあまあかな。とりあえずまた会う約束はしたよ」

「そうなんだ。だったら」

西桜にしざくら、邪魔だ。俺が座れねえだろ」

 太い声が割り込んで、二人の会話を遮る。体も態度も大きい花島はなじまが、威嚇するみたいにスポーツバッグを振り回した。


「うっわ、なんか汗臭いと思ったらハナジーじゃん。朝錬で疲れたでしょ。もう帰っていいよ、バイバイ」

「ふざけんな」

 スポーツバッグがぼすっと貴世の頭の上に乗せられる。


「ひっどーい、ハナジーがいぢめるー。麻巳ちゃん助けてぇー」

「うるせえよ。いいからどけって」

 花島は貴世の襟首を掴み、ぐいと立たせた。猫の仔を扱っているみたいな絵面に麻巳子は思わず吹き出しそうになり、貴世の恨めしげな視線にぶつかってなんとかこらえようとしたが、かえっておかしみが込み上げる。貴世はぷっくりと唇を尖らせた。


「ぶー、麻巳ちゃんの薄情者ぉー」

「おらおらっ、さっさと自分の席に戻りやがれ」

「あ、分った。さてはハナジーってば麻巳ちゃんのこと好きなんでしょ。だからこの席を独占したいんだ。ねね、どうよ、図星?」


「ば、馬っ鹿じゃねえのか。小学生みたいなこと言ってんじゃねえっての」

 どう頑張ったところで花島に力で勝てるはずもない。貴世はあっさり席を奪い返された。


「ちっきしょー、覚えてろー。今度ハナジーの恥ずかしい写真をクラス中にばらまいてやるんだからっ」

「馬鹿言ってんじゃねえ。なんでお前がそんな写真持ってんだよ」

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