小料理屋いろりのお味見レシピ ひと匙の恋としみしみ肉豆腐
望月くらげ
第一章 毎日うどんじゃ目が回る
第1話
ガチャッという音を立ててマンションの鍵を開けると、私はよその家の匂いがするその部屋へと入った。玄関にも、それからダイニングキッチンにもまだまだ未開封の段ボールが山積みで、それらをよけながら私はリビング兼寝室へと向かった。
「疲れた……」
大学入学とともに一人暮らしを初めて二ヶ月。地元の大学に進んでほしいという両親の希望に反して、私が望んだのは県外の大学への進学、そして一人暮らしだった。祖父母に両親、それから妹と弟という三世代での暮らしは賑やかで楽しくもあったけれど、プライバシーというものが一切なくて、私は一人に憧れていた。
鞄をベッドの上に放り投げると、私はキッチンへと向かった。1DKと言うらしいこの部屋はダイニングキッチンとして主室とは別に一部屋設けられていた。
住む場所を探すために不動産屋さんを回っていたとき、玄関に小さなキッチンが併設されているようなマンションがたくさんあった。学生向けのマンションはそういうタイプが多いらしい。そんな中で、きちんとしたキッチンがあるこのマンションは私にとって天国のように思えた。……入居するまでは。
コンロに水を入れたお鍋をかけると、冷蔵庫を開ける。中には、近所の激安スーパーで買った一玉十八円のうどんが六つ。それをちょうど沸騰し始めたお鍋に二つほど放り込むと、私はため息をついた。
いくら私がうどん好きだとはいえ、一週間毎日、夜ご飯にうどんというのはそろそろ身体が拒否反応を示し始めている。かといって、出来合いのお惣菜を買うのは味付け的にも金銭的にも避けたいところだ。
「はぁ……」
もう一度深いため息をつく頃には、お鍋の中で真っ白なうどんが食べ頃に茹で上がっていた。
「食べる、か」
茹で上がったうどんを手早くどんぶりに移すと、私は卵の黄身とこれまた特価三十八円で買った大根の緑がかった部分をすりおろした大根おろしをのせて、そこにおばあちゃんからもらったお醤油をかけた、のだけれども。
「美味しく、ない!」
なぜかこれが美味しくないのだ。なんならまずいといってもいいほどだ。醤油うどん、生卵と大根おろし添えなんて誰が作っても失敗しないようなメニューなのにどうしてこうもまずいのか。
「実家で食べていたときは美味しかったのになぁ」
受験勉強の追い込みの時期に夜中まで勉強をしていた私のために、一緒に暮らしていたおばあちゃんが作ってくれた醤油うどんを思い出して、胸の奥がツキンと痛んだ。
「って、ダメダメ!」
私は暗くなりそうな気持ちを必死に追い払うと、どんぶりに残っていたどこか水っぽい醤油うどんをかき込んだ。
どんぶりを流しにつけ、さっと水を流すとポケットに入れていたスマホが鳴った。画面には『お母さん』と表示されている。まるで見透かしたみたいなタイミングに一瞬そのまま放置しそうになるけれど、出なければ出ないであとがうるさいので仕方なく通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あっ、真緒? どう? 変わりはない? ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてる、食べてる。今、ちょうど晩ご飯終わったところだよ」
「料理をしたことがないあなたが一人暮らしなんて、どうせすぐに泣きついてくると思ってたけど、意外と頑張ってるじゃない」
「うるさいなぁ。用がないなら切るよ? 課題もあって忙しいんだから」
「はいはい。三食ちゃんと食べてね。それから寂しくなったらいつでも帰ってきていいんだからね」
お母さんの言葉は私の胸をぎゅっと締め付ける。でも、今戻ったら何のために勉強を頑張って県外に出てきたのかわからない。だから。
「大丈夫だよ。じゃあ、またね」
通話を終えると、私は途中になっていた洗い物を終えてリビング兼寝室へと向かった。
本当はおばあちゃんのご飯が恋しかったし、あんなに憧れていた一人きりの空間は静かすぎてちょっとだけ寂しい。でも、反対を押し切って出てきた以上、そう簡単には帰りたくない。それに家に帰ったとしても、もうおばあちゃんのご飯は食べられないんだから。
私の受験を応援してくれていたおばあちゃんが亡くなったのはつい数ヶ月前、年が明けてすぐのことだった。まるで秋の終わりに亡くなったおじいちゃんのあとを追いかけるように静かに息を引き取った。
おばあちゃんっ子だった私は、それもあってあの家には帰りたくなかった。だって、帰ったら嫌でももうそこにおばあちゃんはいないんだと思い知らされるから。
「っ……」
鼻の奥がツンとなるのを感じる。目の奥が熱くなってきて、今にもこぼれてしまいそうな涙を慌てて手でこすった。
こんなことで立ち止まってちゃ駄目だ。それより、今は。
「バイト先、探さなきゃなあ」
一人暮らしをしたいと両親に言ったときに、最初に言われたのが『そこまでのお金を出してあげられない』ということだった。たしかに、下にはまだ弟と妹がいて、二人とも中学生と高校生ということを考えると、私一人にかけられるお金がそこまでないのはわかっているつもりだ。だけど、どうしても家から出たかった私は、足りない分はバイトをして補うからとなんとか許可をもらったのだ。
両親からの仕送りの額はマンションの家賃・光熱費さらにはスマホ代を含めて月に七万円。ここの家賃が四万円だから残りは三万円。光熱費とスマホ代を支払ってもとやっていけなくはないけれど微妙に足りない。微妙というか、絶妙というか。
きっとこの金額なら諦めると思ったのだろうけれど、そこは私が頑張ればいいだけの話だ。そう、そんな簡単な話のはず、なのだけれど。
「課題多すぎ! これじゃあ、バイトできないよ」
大学生といえば、バイトとサークルと飲み会とたまに授業。正直そんなイメージでいたことを懺悔したい。だって、テレビドラマの中の大学生も漫画や小説に出てくる大学生もみんなそんな感じだったもん。勉強をしてる様子なんてなかったじゃない。
でも、現実はそんな甘くはなくて。私は今毎日出る課題と、それから微妙に駅から離れているから発生する通学時間のせいでバイトをする時間なんて捻出する余裕はなかった。
とはいえ、このままじゃあまず真っ先に食費がなくなってしまう。毎日うどんというのも栄養的にも、それから気分的にもよくない。幸い、実家から持ってきた調味料や買いそろえてもらったお鍋やフライパンはある。なので作ろうと思えばいつだって料理を作る準備はできている。でもできているのは準備だけなのだ。
「料理、かぁ……」
ご飯を食べるのは好きだ。実家ではいつだって共働きの両親の代わりにおばあちゃんがご飯を作ってくれていて、その隣で味見をさせてもらうのが私の仕事だった。
もうちょっとお醤油がほしいかな? なんて言う私に、おばあちゃんは優しい顔をしていつものお醤油を少し足してくれる。そうすると、とびっきり美味しい料理ができあがるのだ。それをおばあちゃんとおじいちゃんと、それから弟や妹と一緒に食べるのが大好きだった。
一人暮らしを始めた当初は、そりゃあ張り切ってご飯を作った。おばあちゃんのあの味を作るんだ、と。でも、ご飯を炊いても何か違う。水の分量も合っているしお米だってしっかりと研いだのに。
おかずもそうだ。スマホでレシピを探して美味しそうだと思って作ったのに、どうしても美味しくない。少し薄くてお醤油を足したら、とかそういう次元じゃなくて、なんていうかこう、まずいのだ。
そんな日々が続き、仕方なくスーパーでお惣菜を買ったり外食をしたりしていたら、気付けば財布の中からはお札が消え、先月は五百六十円しか残らなかった。ううん、残っただけまだましだ。今月は残すところ一週間というところで、すでに五百円を切っている。このままでは確実に足りない。だからこのうどんで乗り切るしかないのだ。
本当はきっとお母さんに頼めば何か送ってもらうことはできると思うし、お金だってこんな状態になっていることを言えば少しぐらいは助けてもらえると思う。でも、大手を振って出てきたのに、二ヶ月目にしてもうお金が足りないので送ってくださいとは言えなかった。
「明日は焼きうどんにでもしてみようかなぁ」
野菜を切ってソースをかけて炒める、それだけならいくらなんでも食べられるものになると思う。たぶん、きっと。
ぐるぐると変な音を立てる胃には気付かないふりをしながら、私はシャワーを浴びると出された課題に手をつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます