救世主を名乗る男
人だかりの中心では、一人の青年が椅子の背もたれに両肘をかけていた。今彼らには、男の背中が見えている。蒼真の後ろで桃華はぼそっと呟いた。
「私、ああいう人、苦手なんですよね」
「……こっちも得意ではない」
そう言い置いてから、蒼真は少しずつ人だかりとの距離を詰めていく。
「オレはぁ、いずれこの世界を救う男だぞぉ。もっと酒持ってこーい」
男は、ふらふらとグラスを掲げながら言う。
「オレはぁ、鬼塚家の当主様に認められてぇ、鬼塚性を名乗ることを許されたんだ! どうだ、すごいだろっ」
「もう、その話は何度聞いたことか……」
周りの野次馬たちが呆れた声を出す。しかし男はそんなことを一切気にしない。そして、野次馬を気にしていない男がもう一人いた。
「すごいです! 素晴らしいです! 鬼塚家に認められるなんて、誰にでも、できることじゃ、ありません」
男の傍らで膝をつき、男を褒めている別の男がいた。その男は、猫のように丸めた背を精いっぱい伸ばして、男のグラスに酒を注いでいる。
蒼真はそっと男の正面に回り、彼の顔を見た。そしてすぐに戻ってきて言った。
「……こちらが近づくのは、得策ではないと見た」
「え? それはいったい、どういう……」
桃華が不思議そうに尋ねる。蒼真は、顔をしかめて言った。
「……正直に言おう。相手とこちらは、向こうの世界で面識がある。いきなりの接触は避けたい。少し様子が見たから、単独で接触してくれないか」
桃華は、一瞬きょとんとした顔をしたがすぐに笑って言う。
「なるほど、そういうことなら、任せてください」
「……詳しく聞かないのか」
蒼真が拍子抜けしたような顔をする。桃華は、寂しげに微笑む。
「誰にだって聞かれたくないことってあると思うんですよね。天鬼さんが話してもいいと思うくらい、私を信頼してくれてからでいいです」
そう言うと、早速男たちの方へと近づく。蒼真は、その小さな背中を複雑な表情で見つめたあと、周りとは少し距離を取る。せっかく桃華に単独で乗り込んでもらったのに、向こうに顔がばれてしまったら困ると考えたのだ。
しかし、彼女に何かあった時にすぐ対応できるよう周りに視線を走らせる。桃華は着実に男の方へと近づきながらその様子を視界の端で確認していた。安心して、男のテーブルに進み出る。
男は、蒼真と同じくらいの年ごろか、少し年上に見えた。ダークブラウンの髪に、スーツ姿の男は、サラリーマンなのだろう。彼は、桃華を見ると顔をしかめた。
「なんだ、救世主のオレに何か用か?」
「ええ、あなたも桃から生まれた人間だとお聞きしまして」
「その言い方だと、お前も、桃から生まれたってことか」
そう言うと、男は桃華を上から下まで眺める。そして、一言言う。
「仲間になりたいって話ならお断りだぞ。お前、弱そうで何もできなさそうだからな。足手まといになるだけだ」
男が鼻で笑って言う。桃華は、すぐに即答する。
「そう言うと思いました」
その言葉に、男は怪訝そうに桃華を見た。桃華はふっと笑って言う。
「知り合いに、あなたとよく似た人がいるんですよ」
それは、桃華の直属の上司にあたる人物だった。彼女が一番苦手とする相手。彼女を何もできない人間と蔑んだ人間だった。しかし、その人とこの男は別人だ。桃華は現代の日本でのこの人を知らないし、相手も桃華のことを知らない。だからこそ、人間関係に恐怖する必要もない。あくまで、この世界だけの関係なのだから。
そう自分に言い聞かせて、桃華はきっと男を見た。その表情には、迷いがない。
「桃から生まれた救世主ということですが、既に鬼退治は済まされたのですか、救世主殿」
相手が言葉を返すより先に、桃華はねっとりとした笑いを浮かべる。
「そりゃあ、そうですよねえ。こんなところで油を売って、自分は救世主だとのたまってらっしゃるのですから。人助けの一つや二つ、朝飯前ですよねぇ。だから、人様からお礼としてごちそうになっていらっしゃるのですね。いやあ、すばらしい。こちらも見習わねば」
そう皮肉に皮肉を重ねて言葉をかける桃華。それを聞いて、酒を注いでやっていた男以外の周りの人間も桃華の意図を察したようだった。口々に男をほめたたえ始める。
「お前、すごいんだな。あの鬼を退治できたのか、倒し方教えてくれよ」
「仲間を必要としない孤高の救世主様か、そりゃあ頼もしいや」
男の額に汗がにじみ始める。それを見て、桃華は畳みかけるように言葉を重ねる。
「おや、血がたぎってきましたか救世主様。それではどうぞ、街をおびやかす魔物を倒してきてくださいませ」
「おうよ、魔物を倒してきてくれたら、いくらでもごちそうしてやるぜ、なぁみんな」
周りの声に耐え切れなくなったのか、男は椅子を蹴って立ち上がった。そして、一言宣言する。
「こんな街、誰が救ってやるかよ!」
彼はそれだけ言うと足音荒く、酒場を後にした。酒を注いでいた男も慌てて出て行った男を追おうとしていたが、酒場の亭主に会計を迫られて、足止めを食らう。扉がばたんと閉まった瞬間、酒場には歓声がこだました。
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