9 何故我々は「怪談」を求めるのか、の自己流ラカン的解釈

さて、都市伝説も洒落怖などもひっくるめて「怪談」は、まあ恐怖を剰余快楽として持つ対象aを中心に据えた話である、と言えるわけなのである。

対象aである以上、人が求める、としても愛好家のみならず大衆に流行るには時流というものも味方せねば流行るはずもない。

じゃあ、我々はのか。


実はこれに関しての手がかりで一番手っ取り早いのは、東雅夫氏の『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』という本を読むことだとは思う(残念ながら未読。読みたい)


しかし、東氏が編集長を務めるメディアファクトリーから発行されている怪談文芸専門誌『幽』のウェブ版に載っていたかつて発売当時のインタビュー(現在は少なくともリンク切れ)では「1804年が文化元年、1904年が小泉八雲の『怪談』、そして2004年には怪談専門誌である『幽』創刊と、怪談文芸のピークはほぼ100年ごとに訪れています」と語っている。

ここで出る文化元(一八〇四)年は上田秋成の『雨月物語』から、三十年近く経て、曲亭馬琴の『復讐月氷奇縁』が刊行された年であり、その内容は冤罪で殺された女の呪いから始まるという実に「怪談」テイストな読本である。


また、インタビュー内では百年ごとに流行る理由は氏にも正確なところはわからないというが、氏は怪談が流行るための条件として「世情が安定していて、なおかつ現実崩壊への不安がきざしていること」を挙げ、「作家の感覚が鋭敏にそれをキャッチして怪談を生みだすのでしょう」とも語る。

実際、歴史的出来事に沿っていくいくと、先に挙げられた「怪談」の流行ったタイミングは、以下の通り。


一八〇四年→その前年一八〇三年に長崎にアメリカ船が来航し、通商を要求。

一九〇四年→日露戦争の始まった年(後年、この日露戦争で賠償金がとれなかったために、日比谷焼打事件が起きることとなる)


こうしてみると、丁度とりあえずの平穏に一石投じられたタイミングにも思える。

どちらも、皆この後世間はどうなるのか、という崩壊すらも含む不安があり得て当然の事態だ。


とはいえ、じゃあなんでそのタイミングで、意識的でも無意識的でも、「怪談」という恐怖を覚える話を読みたいと思った者、怖いもの見たさを持った者が相当数いたのか。

そう、いくら人気作家が刊行したところでよっぽど作家売れする人じゃなきゃ、需要がなければ流行らない。そういう意味では世間はいつだって厳しい。かなしい。


ではここで原点に立ち返る。

「怪談」とはどんな話だろう。

「恐怖を剰余快楽として持つ対象aを中心に据えた話」というのは自己流ラカン的観点からなので、もっと普遍的に身も蓋もなく言えば、「怪異が先述の条件をもって読者に恐怖を与える物語である」。

そして、そもそも物語である時点で、我々はその物語を受容する時、その内容を象徴界=言語的営みの中でする。

「怪談」の追体験において、「怪談」の条件上、あっても対症療法しかない以上、人はただ怪異に蹂躙され、時として怪異の側に飲み込まれて=死んで終わる。

死の欲動にそそのかされきってしまうか、未遂に終わるか、という恐怖の追体験なのである。


前提1で記した通り、生の欲動も死の欲動も、我々自身が常に自己をそれにさらし続ける無意識の内にある衝動的欲望である。フロイト的に言うならイドまたはエスの内……よね?

あくまでこの観点からなら、生きていることも死ぬことも、どちらの欲動に従ったかの結果である、とドライに考えられるわけである。

そして、破壊的行為、破滅的行為はラカンの精神分析上、死の欲動を満たすための代替行為としての側面を持っているとされる。


つまるところ、「怪談」を摂取することによる追体験の恐怖は、死の欲動を満たす代替行為の中でも、限りなく平和に近いところにあるものであると考えられる。

破壊的・破滅的行為なんてするもんじゃないし、破壊的行為を現実に移すより遥かに安全で迷惑を伴うこともないのだから。

言い換えれば、「怪談」を読みたいと思うことは、自他の破壊を実行に移さないための疑似的な破壊行為でもある。


「怪談」を求めることの意義の自己流ラカン的解釈をした上で、問題は、何故そうした人が「世情が安定していて、なおかつ現実崩壊への不安がきざしている」時代に多く現れるのか。


そもそも「世情が安定していて、なおかつ現実崩壊への不安がきざしている」という状況というのは、水面下の現実崩壊がと感じ取れる状況、ということである。

そして、水面下であるが故にまだそれがどんな表象となるかわからない……早い話、この漠然とした不安感というものは、想像界にない=認識されないために、未だ象徴界=言語的営みに落とし込まれぬ時点の対象a的立ち位置なのである。

早い話が名付けられる前の妖怪の中でも、気のせいで片付けられる奴らと同じなのだ。


認識されないために言語的営みに落とし込みようもなく、それでもつきまとう漠然とした不安感。

それにどう対処するか、なんて、しかないのである。

「怪談」が「怪談」として恐怖を生む条件は、


①根絶が完了していると我々が認識できない≒対症療法しか存在しない=この怪異という根本的問題が明確に排除された・こちらの制御下であるかがわからない

②条件がない(通り魔的)、またはごく一般的であり、我々自身が対象にならないと明確に断言できない条件である

③話自体が現実との時間の非連続性を帯びている(現実の現在との接続性が曖昧である)


の三つである、とした時、漠然とした現前しない不安感というのはこの条件と近似である。

まず、「根本的問題が明確に排除されていない、あるいは制御下にないか」という点については、そもそも対象が不明で不安感という感覚しかない時点で、制御下にあるはずもなく「YES」である。つまり①を満たす。

「ごく一般的である、すなわち我々自身が対象にはならないと断言できない」、これについても同様に「YES」、②も満たす。


そして③。「現実の時間と非連続性を帯びているか」。

この漠然とした不安感の前提は、水面下にきざす抽象的な現実崩壊、つまり今現時点からすれば可能性、未来方向の「もしも」の話であり、現実と地続きではなく、宙に浮いている。つまり「YES」。③も満たすのだ。


いまだその漠然とした不安感の正体である現実崩壊というもの自体が存在しないのだから、そんな風に根幹で似通っているのであれば、擬似的に発散するために

つまり、そういうこと。

行き場のない不安感を発散させるために、あえて「怪談」を摂取することで、それで得られた恐怖に対して、一時的に不安感を押し付けてしまえばいいのだ。


というわけで、そもそも「怪談」を求めるということは、ラカン的にはヴァーチャル死の欲動体験を欲するみたいなもので、同時に、いまだ見えぬ脅威への不安を安全に放出するための装置を求めていると考えられる。


リライトして思ったけど、これをもっと怪文書で一万二千字近い文量のレポートとして書いてたわ……そうよ、原文はもっと怪文書よ……先生、ごめんね……

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