EX1-3 「物語」の効能とそこから見る世相(推測)

と、ここまで散々物語上における暴力性の役割と、現代において単純な暴力性が描かれにくい理由を、暴力性それそのものに付随する是非辺りから見てきたわけなんだけど……なんて切り出すからには、端的に言えば、別視点でも考えてみたいよねってことである。


そこでもうちょい掘り下げ。

さて、昨今の「ざまあ」は大別して、以下の二種に集約すると思う。


① 婚約破棄タイプ

② 追放タイプ


……いわゆるネトラレからの「ざまあ」は性別・世界観関係なく①に集約されると見ている……いっそネトラレタイプにしても良いかなあとは思ったけど、とりあえずこのまま。

で、「ざまあ」に向けてのターニングポイント、物語の視点において主人公に何が起きるか、というと「敵役かたきやくからの裏切り」、特に「信用の裏切り」だと思う。

追放タイプはそのコミュニティに対して主人公が抱いていた「自身がそこに属していてよい」という信用を裏切るわけだし、婚約破棄タイプは恋愛感情があればその部分を、ないならないで婚約という約束の信用が裏切られたことになる。

なので、さらにつきつめると


①人間関係の裏切り

 ├一対一

 └一対多(グループ、チーム等のコミュニティ)

②契約上の裏切り


という感じ。

同時にこの裏切りに感づいていた場合と、感づいていなかった場合とがある。

ただまあ、裏切られたその時点(=物語スタート地点)が谷底。大凶引いたら後は運勢上がるしかないというのと同じで、捨てる神あれば拾う神ありで谷底からはい上がったり、救助者によって引き上げられたりというのがその後の展開である……その速さによっては救助者、ジェットパックでも背負ってる気がする場合あるよね。物語のアップダウンによってはそのままバンジーしたりするけど。


という共通認識をした上で、だ。

物語の効能を中心として捉えてみたい。


では、物語の効能とはなんだろう。


物語を受容することで、受け手は物語上の何かに自己を投影し、物語の中から意義を見出したり、見出さなかったりする。

「物語を求める」とは、自己ではない誰かを自己とし、ここではないどこかを居場所とし、自にはありえざる他を自に求め、時に反発する行為であり、自己の内の客観性の芽と言える。

「敵を知りおのれを知れば百戦あやうからず」と言うように、自身は実際に物語上で発生した物事を行うことがなくとも、たらればで自身の言動の傾向を知識として得ることは一つの武器となる。知識は結局何かを成す・得るための道具であるのだから。

また、そうした経験は自他を分析する際の有用なメスとなり得る。


つまるところ、物語は追体験、あるいはある種の思考実験であり、同時にその訓練である。

だからこそ、先立って話した通り、物語上の暴力が現実の抑圧発散の代替手段足りうるのであるし。


というところで、「追体験」というのが大きなキーワード。

Mutato名を nomine de te変えれば fabula narratur物語はお前を語る.」とはローマがホラティウスの『風刺詩』でタンタロス(かゆいところに手が届かないの酷い版を永遠に味わう人)の話を挙げた後に書かれてる言葉だけども、端的に言えばそういうこと。んな、夢小説じゃあるまいしと思われても、名前に自己を当てはめるのか、自己を当てはめるのに名前を変えるかの差である。つまり、果たして名前だけがアイデンティティであるわけではない、という問題があるので、自己を物語の主人公に仮託するという点では大して変わらんと思うのですよ。

というか、この文章読んでる時点で、貴方は私がなんとか言葉に落とした私の思考回路を辿たどっているのである。

……ちなみに私は本来自分の思考回路や感情の言語化というか、日常においては基本的に説明が下手です(本人は説明してるつもりなのにポロポロ抜けがあるという最悪パターン)

まあこれ書いてる時に盛り込みたいけど諦めた部分もあるし、そういう意味では、こればっかりはマジでゴメンねという案件。


と、盛大にれた話をハンドルを大きく切って元に戻して。

こうして同じタイプの物語が商業として量産される場合、その話は一定以上の需要があるということ。

前段で話した「暴力」の効能を求めてであるとしても、同時にそのタイプの話におけるということになる。

確かにこのタイプの物語で求められる追体験の大部分としては、確かに逆転によるカタルシスなのである。ただし、その手前で

…………いや、完全に順番をしくじったなあと思っているのだけれど、大学時代のラカンの精神分析かじりながら文学をすするみたいな講義のレポート(好きな精神分析の論理に則して好きなものを論じよ)を怪談で書いたんだけど、結論がそっちとちょいかぶるぅ……先に見出し立てて書いとけばよかったなあ……とりあえずこれは今度書くので、さて、軌道修正。

先の時間の流れのところで、「ざまあ」系の物語がいきなり復讐のターニングポイント、谷底に突き落とされる瞬間から始まる件については、「受け手のストレスを緩和するテクニック」だったり「直截的に暴力や差別的描写を避けるテクニック」の可能性を上げたわけだけど、それはあくまで書き手側の技巧としての話。

」ことを読み手が望んでいるのであれば、それは別の話であり、同時にその物語を求める層における無意識の現れ、世相の話となるわけである。何故望んで受け入れるのか、受容における背景、受容史の一端ってとこよね。


まあ、本来的にこれは同時代において行えることではない。本来、その時代の前後、状況、詳細、歴史上での意味合い全てを加味して、俯瞰ふかんしないとはっきり像を結ばないからね。

なので、これはあくまで同時代の人間が可能な限り俯瞰ふかんで見てみた推測で、時が流れれば「全然違ったわ、ガッハッハ」になりかねねえのである。というかここの大見出し、昨今の範囲は最初から最後まで某チョコ入りプレッツェル菓子並みに全部そうだよ。その点たっぷりでどうすんだよって話ではあるけど。


で、追体験であり、かつ流行ってるのは望まれているところだから、ということは「裏切られて転落してからの正当なのしあがり」が望まれているということになる。「元が最下層からののしあがり」でもなく、「裏切られて転落するだけ」でもなく、起点と終点が明確に指定されたものが望まれている。

どうしてそうなるのか、というところで、先述の怪談の時にはラカンの言う死の欲動(しかも先生にかみ砕いてもらったとはいえ自己解釈)で語ったんだけどねえ……それなしでいけるかな、いけそうだな、ということで、これについてはいつの日か、日の目も見ようで抽斗ひきだしにしまう。


さて、昨今、何かと不安は付きまといがちな世の中である。

あくまで日本においては表面上は平和であって、かつそれを頼るかどうかが個人に委ねられているだけで、一定水準の生活を大多数がおくれるだけのシステムがある状態ではある。が、特に不景気、つまり経済の不安は常にある。リストラとか倒産とか、本人にはどうしようもないというものも含まれる。人間関係なら浮気とかよな。

そんな一定の平穏がありながらも、根底にサスペンス(原義として吊るされたもの。転じて不安定なものを見た時のはらはらする感情。語源的にはサスペンダーとかと同じ)をはらんだ状況。


先立って書いた通り、昨今の「ざまあ」の開始地点は「敵役かたきやくが主人公を人間関係的ないし契約関係的に裏切る」ところから始まる。

つまり、表面上問題ないあるいは問題が無いように取りつくろっていたところに降ってく裏切り、なんとかってた足場の薄氷を踏み割られる裏切り。

で、これを現代の世相の「平穏がありながらも、根底にサスペンスをはらんだ状況」に反映すると、「ざまあ」における裏切りは、先の例の急なリストラや倒産などという現代の根底にはらんだサスペンスな事象=懸念要素の現出と類似する。


ここまでを踏まえて、「ざまあ」の本質的要素を「裏切られて転落してからの正当なのしあがり」とするならば、「ざまあ」を望む層は「裏切りによる転落」=「時代の根底にある不安感の現出」と「正当なのしあがり」=「そこからの現代における理想的再起」の両方を望んでいるということになる。


なんでそんなものを望むのか、という点は物語の効能を「追体験、あるいはある種の思考実験である」とすれば、、さらにそこでと解釈できる。


前半は「確定してないんなら仮でも確定して宙づり感を消してやればいいんだよ!」……つまり「バンジーとかびびってたことを思い切ってやってみたら、やる前の方が怖かった」みたいな形に一旦持ってくということである。力技くさいのは認める。


後半について、前半が昨今の世でいつ噴出するとも知れぬ懸念要素(リストラ、倒産、浮気等)の表出の仮託であると同時に、その懸念要素は往々にして本人に責があるとは限らず、さらに物語において、大半のジャンルで「主人公こそ正当である(べき)」なのであれば、そこにはストレスの発散を促すを繰り広げる余地がある。

しかも、裏切り自体は一瞬で終わって、転落してハッピーなわけはないので、前半だけなら下手すると胸糞エンド掌編になりかねない。バッドエンド好きもいるとはいえ、さすがに短すぎるし、かなりニッチでは?

それなら風呂敷広げて繰り広げちゃった方が読み手は適度な発散ができる。


……うん、島崎藤村の『破戒』を読んだ時の、あの感覚は不完全燃焼だったんだなあ、と今なら思うな。近代文学に持ち込むべき感性でないと言われれば、多分現時点の一般感覚的にはそうな気がするけど……(完全に個人の感想)


というわけで、長々と書いたけど、まとめといこう。


①「ざまあ」は物語の系譜としては、貴種流離譚きしゅりゅうりたん継子ままこいじめ、末子成功譚まっしせいこうたんと同じ要素、もっと言えばこれらの枠組み外のより多くの話に共通する「権力の反転」という要素を持っている。これは主人公こそ弱者であり正当として扱われればこそ、読み手にカタルシスを与える物語上の機構であり、いろいろな応用を加えられながら今日こんにちに至るまで残って来た。


②「ざまあ」は①の機構を踏まえた上で、現在までの物語における技巧の進化と現代社会の要素を物語中に取り込んで成立したタイプの物語である。


③この「ざまあ」と呼ばれるタイプの物語の始点における共通点として「突然の足場を崩す人間関係ないし契約関係の裏切りから始まる」という点がある。

これについては本来的に今すべてを分析できるわけではないという前提がある=抜けとか穴はあるとした上で、「現代における一見平穏な水面下にある不確定性が大きいと同時に足場を崩すに足る懸念の不安の種のプレッシャーを一時的に軽減する」という可能性がある。


とまあ、こんな感じである。

まあ、テンプレートというのはうまく使ってなんぼではあるので、この辺りを頭の片隅に置いておいてもらうと、うまく活用できたりできなかったりするかもしれない(保障は0)

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