EX1-2 「暴力」の効能

さてさて、ポイントとしては以下の二点である。


①物語上と時間軸の方向性

②暴力性の強さ、あるいは有無


まずは「①物語上と時間軸の方向性」から。

昔話では言うなれば「常に一定方向に流れる時間軸上で、弱者としてあなどられている・かろんじられている前提の説明」から物語は始まる。

わかりやすいところでいくと、グリム童話KHM21「灰かぶり(Aschenputtel)」……は訳してないので、ちょっと長いけどKHM13「森の中の三人の小人(Die drei Männlein im Walde)」の初版出だしを貼ろう。


――――――――――――――――――――――

奥さんを亡くした一人の男と、旦那を亡くした一人の女がいました。男の方には娘が一人、そして女の方にも娘が一人ありました。

娘たちは互いに友達で、一緒に散歩をした後は、女の娘の方の家に行きました。

すると、女は男の娘にこう言いました。

「あたしの言うことをよく聞いて、お父さんに言うんだよ。

 私はあんたのお父さんと結婚したいと思ってるんだ。

 そうなったらあんたは毎朝ミルクで身体を洗っていいし、ワインも飲ませてやろう。

 あたしの娘は水で顔を洗って水を飲ませるけどね」

娘は家に帰ると、父親にそのことを告げました。

父親は言いました。

「どうしたらいいだろう。結婚てもんは嬉しいと同時に苦しいもんだからなあ」

決めかねた父親は、片方のブーツを脱ぐと娘に言いました。

「このブーツはかかとに穴が空いてるから、これを屋根裏に持っていって大きな釘に吊るして水をそそぐんだ。

 もし、水が漏らなかったら、あの女将さんと結婚しよう。水が漏ったらそうしない」

娘は言われたとおりにしました。

すると、水は穴をふさいでしまって、ブーツいっぱいに水が入りました。

娘はこの事を父親に告げました。

父親は自分で上がって行って、それが正しいと確認すると、女を迎えに行って、結婚しました。

翌朝、二人の娘が目覚めると、男の娘の前には身体を洗うためのミルクと飲むためのワインが置いてありましたが、女の娘の前には身体を洗うための水と、飲むための水が置いてありました。

二日目には、男の娘の前には女の娘の前にあるのと同じように、身体を洗うための水と、飲むための水が置いてありました。

そして三日目には、男の娘の前には身体を洗うための水と、飲むための水が置いてあり、女の娘の前には身体を洗うためのミルクと飲むためのワインが置いてあって、それ以降はずっとそのままでした。

女はこの継娘ままむすめが憎くてしょうがなくなり、日増しにひどくいじめようとするのでした。

――――――――――――――――――――――


「男のむすめ」を「男の」って読んじゃった人~……自分で訳しといて私もそう読んじゃった。

なお原文はWikisourceドイツ語版より、である。

ともあれ、こういう風にしっかり前提条件「お父さんだけいる女の子とお母さんだけいる女の子がいて、そのお父さんとお母さんがどうやって結婚したかの流れ」と現在進行形の不当に扱われている状況「約束を守ったのは一日だけで、三日目で実子に劣る扱いをされ出したし、いじめられている」を時間軸に沿って説明しているのである。KHM47「ネズの木の話(Von dem Machandelboom)」も継子ままことなる男の子が生まれる前から始まるしな……(好きな話なので使いたかったがこれより長くて諦めた)


一方、昨今の「ざまあ」のよくある形式としては、婚約破棄ものなら婚約破棄のシーンから始まるし、追放ものも追放を言い渡されるところから、というのが多い。全体の流れからしたら、本来はこっから報復やでというターニングポイントでもある。

その後、物語開始前に何があったのかが回想されたり、その後に別基軸での価値観との比較が出たりで主人公が軽んじられていたことがわかる。

その回想・比較が行われる時間は物語上の現在ではあるけど、実際の出来事や比較対象物事の発生した時系列としては過去となる。図としてはこう。


  ※を物語開始=報復開始のターニングポイントとする

――時間軸―※――→回想時点

  ★←――――――回想ポイント


なので、時間軸的にはことになる。つまりは倒置法的。

時間軸に沿って物語が進む伝承・昔話とは対照的である。

とはいえ、これは物語が文学として発展して、受け手である我々としても読み方の共通認識を持った上で獲得した現代において一般化した物語の技法から生じる複雑性と言える。

同時に、この技法を使い、現在進行形でない過去のこととすることで、主人公に感情移入している受け手の感じるストレスの調整(すでに過去のことなのでひどくなりようがない)をはかっているとも考えられるし、過去のこととして俯瞰ふかんすることで、具体的に詳細にその内容を書くことを避けたり、文章上の報復対象事象と報復のための事象の距離を縮めているとも考えられる。

まあ、この手のお話のパターンでいく弱者というのはえてして差別と紐づく存在なので、創作において「差別の否定を描くのにその差別内容の実態という前提がなければ、その切実は伝わりようがない」のに対し、「差別自体を描くことが現実における差別の助長につながるとする否定的風潮」というジレンマがあるのは事実ではあるので、避けがちにはなる。持っていき方次第ではあるけど、書く/書かないの0/1でいえば、書くになるのでむつかしい。

ああ、場合によっては、一方その頃な敵役かたきやくの現状から主人公の待遇がどうだったか示唆するやつもありますね、あれはうまい。


続いて「②暴力性の強さ、あるいは有無」という点について。

昔話・伝承においての暴力性という点でいくと、それは刑罰だったり物語の世界観として単純ではあるので王族という権力の強さに依拠したりする。

刑罰での報復となるKHM13「森の中の三人の小人(Die drei Männlein im Walde)」、KHM89「がちょう番の女(Die Gänsemagd)」、KHM135「白い花嫁黒い花嫁(Die weiße und die schwarze Braut)」の刑罰は微妙に細部が違うけど、「罪人をたくさんの釘を打った樽に入れて、その樽を転がす」というアイアンメイデンを横倒しにして転がすみたいな、想像するだけで血まみれな罰が用意されている。ちなみにどれも「花嫁の入れ替わり」、「罪人自身による罰の選定を王が承認する」というモチーフが絡んでいるので、お話的には全部同根の可能性が高い。

ぶっちゃけ、KHM21「灰かぶり(Aschenputtel)」は命あっての物種という観点からは連れ子の姉たちは失明(鳩によるものなのでキリスト教的に聖霊によるもの=天罰との解釈可)と足の負傷(単純に欲かいた結果)で済んでるからマシだよね……命あっての物種という観点からは。


私的報復(殺害までいかない)となるKHM116「青いランプ(Das blaue Licht)」、KHM36「テーブルよ、ご飯のしたくと金を生むロバとこん棒(Tischchen deck dich, Goldesel und Knüppel aus dem Sack)」、「ろばとテーブルとこん棒(The Ass, the Table and the Stick)」、「ほいほいろばよ、金貨の糞をしろ!(Ari-ari, ciuco mio, butta danari!)」は、最終的に魔法の道具(決まった文句を言うと滅多打ちしだすこん棒だったり、呼び出された願いを叶える小人だったり)で主人公の敵対者を滅多打ちする。

一方、私的報復(殺害)なKHM47「ネズの木の話(Von dem Machandelboom)」、「ちっちゃな小鳥(The Little Bird)」は死んだ継子ままこが鳥になって、最終的に継母ままははを持ってきた石臼で圧殺して生き返る話。「ネズの木の話(Von dem Machandelboom)」は割と「三人は喜んで手を取って家に入りましたとさ」って感じで淡々として終わるんだけど、「ちっちゃな小鳥(The Little Bird)」の方は生き返った継子ままこが「継母ままははも本当は悪い人じゃなくて、悪魔に魅入られただけ」って言いだすのが正直不気味(個人的感想)。ロシアの「ヤガーばあさん(Баба-яга)」は仕打ちを知った父親による継母ままははの銃殺なので、完全に報復(物理)である。

「葉限」は主人公やその味方が暴力的な報復をするわけではないし、KHM24「ホレおばさん(Frau Holle)」も瀝青れきせいで一生真っ黒にするだけであって、暴力的ではないが外の権威(でも超自然による法外的権力)による強権ではある……この強制性を暴力的と捉えるのは解釈としてちょっと広げ気味な気がしなくはないが、物語上の世界における単純化されたヒエラルキーを考えればある種暴力的と考えられはしないだろうか。


ん? ここまで暴力に触れながら、そのくせ『本当は残酷なグリム童話』に触れねえなって?

だってあれ、どちらかというとグリム兄弟が徹底的に削り落とそうとした性的要素にフォーカスして鮮明かつ現実的な描写にしたタイプの翻案だし……あれで初めて知って唯一残酷と思ったKHM47「ネズの木の話(Von dem Machandelboom)」が大好きなわけなので全く触れなかったわけでも……(中学時代にとりあえず読破済み)


さて、じゃあ「ざまあ」系はというと、「主人公自身が復讐心を根源とした暴力的な行為に手を染めること」は決して主流ではない。

そっち方面に行くと一気にダークに振れる。ノワールと呼ばれる方向性とか和製ピカレスク的方向、つまりは主人公が大手を振って歩ける王道正義側じゃないパターンかしらん。


ここにあるのは完全なる法治国家において、「復讐するは我にあらず、刑罰にある」で、なおかつ「復讐にあたうかの判断は法が行う」という意識ではなかろうか……いや、聖書的に言う「復讐するは我にあり(μη εαυτους εκδικουντες復讐してはならぬ、, αγαπητοι愛する者たちよ。,…中略…εμοι εκδικησις, 私の復讐であり、εγω ανταποδωσω,私が報復する λεγει κυριοςと主は言われた.)」は「天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず」に近くて、要は「何かしたら超自然的強権がむくいるよ(復讐するは~の方はだから人が何かすんじゃねえという文脈)」ということで、ここまで挙げた例で則してるのはKHM21「灰かぶり(Aschenputtel)」とか「葉限」なんだけど、それは重箱のすみにやっといて。


そういう法治の状況下だからこそ、暴力的な報復というのは少なくて、主人公自身の能力の再評価や能力の向上とそれにともなう地位の向上による敵役かたきやく側⇔主人公側での権力反転、あるいは主人公の能力の真価を看破できなかったことへの失望による敵役かたきやく側の転落による相対的な権力反転、またはその両方というのが多いのではないだろうか。

まして法治において、私刑は罪であるとするならば、法に照らした罪として問えない場合も含め、主人公は手を汚すことなく地位を向上させ、敵役かたきやく側は自滅的な道を歩んでいくという、主人公の正当さの強調、それこそさっきの「復讐するは我にあり」の方向性で考えれば、天運に見放された敵役かたきやく⇔天運に愛された主人公、不正・不当な行動で人望を失い転落していく敵役かたきやく⇔順当・正当な道を歩み人望を得る主人公と読み解くことも可能ではある。まあ、これをどこまで受け手に納得させられるように話を持っていけるかというのは個々の技量の話となる。


だけどまあ。

その、この「暴力的な報復」は昨今の「ざまあ」の主流ではなくとも、残っているし、主人公が手を下さないだけで、敵役かたきやくがそれなりに悲惨な目に遭ってるパターンはある。さらには単に暴力的なら、主人公が受けている仕打ちも暴力的だったりするのである。

そして、ここで取り出したいのが前段で一次記憶領域メモリに保存してもらった、このタイプの物語の真価の件である。


現実における不正を糾弾したいという感情に、羨望・嫉妬辺りの抑圧を心理学的に言う置換・転移をさせることで、安全にガス抜きをする。

早い話が、人生に苦楽ありな縮緬問屋ちりめんどんやのご隠居いんきょを名乗る水戸のご老公だったり、暴れん坊な将軍とか、現代物なら「倍返し!」なやつのお話と似たものなのである。


はっきり言えば、現実で発散すると厄介な感情を物語での追体験で発散させるというところである。一語で表せばκαθαρσις 、カタルシス。

もっとざっくばらんに言えば、この辺りの物語は「物語上の抑圧と共に現実上からの抑圧を昇華するカタルシス発生のための機構」である。

そして、主人公の受けた仕打ちがひどければひどいほど、そしてその報復も苛烈であればあるほど、この物語としての効能は増すし、慣れれば人はさらに刺激を求める。


言い切ってるけどそう加速する証拠は? というと、江戸期の特に黄表紙辺りの文学史が物語っていると言えよう。

というわけで、日本における報復物……といっても基本は敵討物かたきうちものになるんだけど、そこんとこの歴史をさらっと。


敵討物かたきうちものの初めというと、南北朝……室町初期辺りにはすでに成立していたと思われる軍記物語『曽我物語』が日本における物語での古い敵討物かたきうちものの代表格(敵討かたきうち自体を主としたもので)ではある。

なんなら、この『曽我物語』をベースに作られた謡曲、人形浄瑠璃、歌舞伎etcをまとめて「曽我物そがもの」と呼んじゃうぐらいには1ジャンルを形成している。あの歌舞伎十八番、お寿司の由来となった助六すけろく、『助六由縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくら』もこの「曽我物そがもの」。他にもあの「拙者せっしゃ、親方と申すは、お立会のうちに〜」から始まる長文セリフが有名な『外郎売ういろううり』も「曽我物そがもの」。

あと江戸で敵討かたきうちといえば、忘れちゃいけない、赤穂あこう事件。すなわち忠臣蔵ちゅうしんぐらである。

浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』で一世を風靡し、歌舞伎にも取り入れられ、そして現在でも知られるこの物語。まあ、同時代性のあるスキャンダルをそれそのまま扱うと、幕府から「風紀乱すから、めっ!」と言われる時代だったので、明治になるまで、忠臣蔵ちゅうしんぐらは室町の応仁の乱の時期の人物に仮託されて演じられて来たんだけどね。


さて、そして江戸時代の出版物でいくと、有名どころは前半に西鶴が『武道伝来記ぶどうでんらいき 諸国敵討しょこくかたきうち』を記し、後半に馬琴が『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』などを記している。いや、八犬伝の方は敵討かたきうちは物語の一部としてのエピソードという側面が強いけども(子供向け版を昔読破済み。今思うと毛野さんが好きなの、ブレなさ過ぎて我ながら怖い)

そして漫画・ラノベの祖の一つ、黄表紙きびょうし合巻ごうかんでも流行った。流行りに流行った。「最近敵討物かたきうちものえらく流行ってるからさ〜、版元が書けって言っててさ〜、この辺り内股膏薬うちまたごうやくのべったべたな関係だからさ〜、戯作者げさくしゃのかなしみ〜、商業つらあ〜」みたいな言い訳を前フリとして書いた本があるぐらいには流行った。この本がなんだったかは失念したけど、式亭三馬辺りだった気がする。

※2022/4/8追記

 式亭しきてい三馬さんばの『親讐胯膏薬おやのかたきうちまたごうやく』の前書きだった。作者覚えてた私エラい。

まあ、一応制度的には、ちゃんと決まりにのっとっとけば敵討かたきうちは合法だった時代でもあった。江戸当時は。


さて、この辺りの面白い点が同時に先の加速する描写についての事例となる。

黄表紙きびょうし敵討物かたきうちものが流行って少しすると、描写がどんどん残虐になっていくのである。敵討かたきうちの根源となる行為が残虐になり、敵役かたきやくは酷薄になり、挿絵は血がぶしゃーの血みどろ〜なのである。いや、カラーの刷りは合巻ごうかんぐらいだけども。

うん、ここがカタルシスを求めて加速した事例なわけですね。


なお、この血みどろ表現の流れは表現が過激化の一途を辿たどったので幕府に「残酷、風紀乱すから、めっ!」されて終わった。その後、御家騒動物おいえそうどうものも流行ったけど、「血みどろがダメなら妖術や妖怪変化にしようゼ」……で、やっぱり過激化の一途を辿たどったので幕府に「怪力乱神、風紀乱すから、めっ!」された。……いや、短期間のサイクル過ぎて、なんかもう、人って求めるものマジ変わんねえな(素)な事例でもある。いやもう戯作者げさくしゃ側的には悲しみの筆禍ひっかなんだけど、歴史は繰り返す(即時)過ぎて笑っちゃう。


というわけで、より強いカタルシスに向けて描写が加速する事例を挙げたわけだが、実はこの辺りの背景の流れ、つまり江戸時代と現代の背景の流れがヒキで見るとよく似ている。

まずは、法治と平和化に伴う現実における暴力の非権力化。これは良い。現実の世の秩序化のための施策とその帰結。まあ同時に密やかに潜在化してるとも言えるのだけど、それはそれ。

その後に発生しているのが、浸透した現実を反映したフィクション上の暴力の非権力化に向けての動きと、それによる残虐描写への是非の発生。

現実に基づいたあるべき論、理想としてのフィクション上のそれへの是非論争と言えるかな。

この流れがまあ似てるよね。フィクションへの反映が、ガチでおかみから注意受けたか、ジャンルという最低限レベルのゾーニングと個人の受容レベルに今のとこ落ち着いてる現代という差はあるけども。


そんな感じで、現代においては、ダークファンタジーとかノワールとかピカレスクの方面は暴力による報復をとするジャンルである一方、昨今の「ざまあ」の文脈はもともとそこまで振り切ったジャンルではない(読んだ感じ)

まあ、ライトノベルって括りはもともとレーベルによるくくりのはずで、その物語自体のジャンルは別途ある……ライトノベルの括りの中に無数のジャンルが混在しているので、報復物が全部「ざまあ」ってくくられちゃうと、そこがごった煮になってしまう危険性がなきにしも……まあここで心配することではないし、是非を考えることでもない。今この時(2022/03/06)の「ざまあ」で表されるタイプの代表的な物語のことだから。

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