2 未知としての予知か既知としての予知か

次は俗に逆行転生と呼ばれるもの(個人的にはタイムリープだと思う)と、既に何が起きるか把握しているゲーム・小説の世界に転生etcするパターンと、予言譚を比較したい。


予言譚について。

まず、物語における多くの予言はである。

特に神話・伝説では顕著で、有名なのは盲目の予言者テイレシアスのオイディプースに関する予言とか、トロイア戦争でのカッサンドラーとか。北欧神話の『巫女の予言』もラグナロクへ予言として言及している。

アレクサンドロス大王やアーサー王は「〜した者が王になる」という予言を成就した者だし、アケメネス朝ペルシャの初代王キュロス二世はオイディプースの予言に近い。


さて、これが民話までいくと、以下のように、予知の形は少し変わる。


①忠告型

 その時点ではよくわからない忠告だが、その後その忠告にピッタリの場面が生じるという、よくよく考えれば予言という型。

 スペイン

  「3つの教え(Los tres consejos)」

  「父親の教え(Los consejos de un padre)」

 イタリア

  「ソロモンの忠告(I consigli di Salomone)」

 ロシア

  「よい言葉(Доброе слово)」

 ウェールズ

  「出稼ぎアイヴァン」

 『捜神記』

  巻三の十七「三つの予言」など。


②予言-回避型

 明確な予言に対し、人ならざるものの報恩や寵愛によって回避する。少数派。

 スペイン

  「黒い狼(La loba negra)」

  「司祭の亡霊(El alma del cura)」など。

 『捜神記』巻三の六「北斗星と南斗星」や巻四の十七「火事の予告」もこの枠と言えそうかな。


③予言-成就型

 明確な予言であり、その後なんらかの妨害を受けたとしても成就する。いわば従来型。予知夢もここ。

 『イソップ寓話集』

  「少年と烏」

  「子供と絵のライオン」

 イギリス

  「スワファムの行商人(The Pedlar of Swaffham)」

  「魚と指輪(The Fish and the Ring)」

 スペイン

  「ロザリオのマリア(Maria del Rosario)」

 グリム童話

  KHM29「三本の金の髪の悪魔(Der Teufel mit den drei goldenen Haaren)」

  KHM115「明るい太陽が明るみに出す(Die klare Sonne bringt's an den Tag)」

 ロシア

  「金持ちマルコと不幸者ワシーリイ(Марко Богатый и Василий Бессчастный)」

 イタリア

  「太陽の娘ファヴエッタ(Favetta)」

 日本

  「運定めの話」

  「天福地福」

 『今昔物語集』

  巻三十一の三「湛慶阿闍梨還俗為高向公輔語湛慶阿闍梨、還俗して高向公輔となりしこと

 『捜神記』

  巻六の六十七「娘の予言」など。

 この内、「魚と指輪(The Fish and the Ring)」、KHM29「三本の金の髪の悪魔(Der Teufel mit den drei goldenen Haaren)」、「金持ちマルコと不幸者ワシーリイМарко Богатый и Василий Бессчастный)」は「高貴な家の者と結婚する」と予言された子を、その高貴な家の主人があれこれ邪魔するが、運や本人の素直な気質で最終的に主人の子との結婚を勝ち取るというタイプ……アールネAトンプソンTウターU分類で言うと930、「貧しい少年と高貴な少女の結婚の予言」となるので、類話が多いタイプの話である。


さて、③は従来型と言う通り、何をしても成就する神話・伝説の予言譚の系譜である。

一方、①と②は災難の回避である。

①は忠告という姿を取るため、災難の回避のための予言であるが、②は災難の予言そのものをなんらかのからの助力で回避する。ただし、②は極端に少ない。

というわけで、基本形は「成就する予言の物語」であって、逆転させれば「何をしても成就する予言」というのが、こうした物語の根底に存在する、意識である。


では、物語の根底意識を確認したところで、今回昨今の異世界モノで比較するパターンは、以下の2パターンである。


(1) 悲劇に見舞われた主人公が死んだ直後に悲劇の将来を解消できそうな頃に戻っている(逆行転生とか呼ばれるけど、でもやっぱり個人的にはタイムリープと言いはりたい)


(2) 転生先の世界が前世での小説やゲームの世界であり、どこかのタイミングで前世の記憶と共にその内容を思い出す


(1)のパターンについては、戻ったタイミングの時点で、「このままでいけば将来行き着いてしまう未来を知っている」状態である。

これだけなら、単に「予知」と同じで、これを言葉にすると「予言」になる。


しかし、予知や予言と違うのは、ことである。

のである。

百聞ひゃくぶん一見いっけんかず、百見ひゃっけん一考いっこうかず、百考ひゃっこう一行いっこうに如かず、百行ひゃっこう一果いっかに如かず。聞くより見る、見るより考える、考えるより実践、実践より結果。


予言は成就されるのが基本で、回避しうる予言であってもあなどれば成就する。

が、このパターンで知っている未来は既に経験済みなので、特定の行動を取ることを繰り返せば確実に辿り着く「未来」なのであって、正確にはあらかじめ言われた事ではない。

一度実現した以上、

むしろ、悲劇の関係者が実体験したことによって、より「何をしてでも悲劇を避けること」に説得力が生まれるし、ので、物語のお決まりとしては回避は可能。


(2)の場合、(1)と同じく、芽が詰める段階で気付けば、当の悲劇は実体験したことではないが、ゲームにしろ、小説にしろ、なわけであると考えれば基本(1)と同じ。なんなら周回してて、発生事象の因果関係が手に取るようにわかったりする。

その上、最早そういう状況でないはずなのに、強引に元の展開になりつつあっても元のシナリオによる強制(ゲームというプログラムを前提とした再現性)ってできるし、ゲームならフローチャート明確だから崩しやすいし……。

悲劇事後に気付いたら、それはそれで予言の外の話。作中ゲーム/小説のシナリオによる予定調和が成ってからのリカバリーのお話になるのである。ある種黄表紙でもあるような「桃太郎のその後」的な二次創作風味なので、このパターンは残念ながら予言にはかすらない。ので、漬物石でも乗せて封印しておく。


さて、未来のことは得てして未知である。「いまだ来ず」だから「いまだ知らず」なのである。

予報は「あらかじめ(辞書的定義では予測を)らせる」でしかないし、予測は「あらかじはかる」である。

予知は「発生事象に完全な既知を感じない限り=成就しない限り予知にはならない」であって、現状、一定分野においては、あらゆる観測データを元に予知にも近いような予測をすることは可能とは言え、結局それは

現代の科学という世界観テンプレートにおいて予知に近しいのは、それまでのデータを元にした論理的な予測か、実証を前提とした仮説であって、どちらも

詰まるところ、予知は科学という世界観テンプレートにはなので、その世界観を規範として持つ者からすれば、妥当性に欠けるということになる。


まとめると、


① 現代の科学という世界観テンプレートはデータを元にした予測までしか許容しないため、予言という100%の成就を前提としたものは許容されにくい。


② ①に対して「既に実体験済み・成就した既知の未来」を予言の代替としてえることで、予言以上の説得力を持たせる効果が期待される。


③ ②により、物語類型上、成就することが基本前提とする予言とは意味合いが異なることとになる=ため、その内容の回避の容易性に説得力が生まれる。


ということで、悲劇の未来を確実に作り変えるというこの形は、世界観テンプレートに合わせた結果できた、物語類型上としては、今までになかった一つの抜け道として固まったパターンではないかと思う。


……本当はこれぐらいライトに書きたいんだけどなあ。

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