6 空海である理由

さて、外の権威という物語上の重要なファクターを理解いただいた上で、空海の話に戻ろう。


伝承における空海さんは

 ・宗教的な俗(内)⇔()

 ・日本(内)⇔()

 ・身分的な俗・ひな(内)⇔()

というように外側に寄ったステータスを有しており、それにより超越的存在=神とも紐付いている。

そして、それだけ外に寄ってるからこそ、違和感をもたせることなく様々な「旅の僧侶が実は……」なパターンに


重要なのは「適用」であって、「適用ではない」点である。

だからこそ、空海ではなく、同じように有名であり徳の高い円仁や最澄のパターンが存在するのである。


にも関わらず、空海の伝承が沢山あるのは何故か。


まず、円仁・最澄と比較して、空海は仏教のみならず、書や教育、漢文の分野でも活躍した多才な人である。

内外でいけば、「凡才・非才(内)⇔天才(外)」なので、空海さんの外ポイントが加算される=空海さんの方がより外=超越的存在に近いと考えられる。

また、真言宗開祖として、仏教信仰上の仏から伸びた権威のタコ足配線上にいる空海は、空海自身が信仰対象に足る権威を持っている。

それだけのネームバリューを持った空海を使えば、その地は「空海ゆかりの地」となる。

権威の継承性がここで生きるわけだ。

身も蓋もなく言うなら「空海にあやかることで、うちの土地の人気上げちゃおう☆」なのである。

いや、最初からその気のあるなしは別としても、実質的にはそうなのである。

……まあ、説話での権威の動き考えると、「空海にあやからせることで、ここの土地うちの派閥にいれちゃおう☆」な可能性もあるんだけどね。


二つ目に、高野聖こうやひじりの広まりがある。

高野聖こうやひじりは元来は高野山で修行を行う僧を指したが、後に遊行ゆぎょう僧、つまり旅の僧全般を指す言葉となった。

ここで高野聖こうやひじりという言葉によって、連想において「旅の僧」という概念が「空海」に行き着く最短距離の橋渡しをするわけだ。

つまりこう。


「旅の僧→→高野山金剛峯寺→空海」


そして高野聖こうやひじりという言葉と概念が一般化すればするほど、を置いてけぼりにして「高野山の僧は旅をする」というイメージだけが強くなる。

今や、イメージが違うのであれば、それが間違っていることを大々的に広めることが割と簡単にできるが、それは情報化社会の恩恵である、マジで。

そして、高野山の僧全体に対してそういうイメージが構築されてしまえば、当然開祖も、となり、先述の「より超越的存在に近い権威」として、実際はただの旅の僧である高野聖こうやひじりだったとしても、イメージ補正によって空海での書き換えが発生する。

……気づいた方はいるかもしれないけど、そう、サイギョウの話と、この空海と高野聖こうやひじりの話は似た話である。前者は人名が一般名詞化してるけど。


というわけで、全国各地に空海の伝承が沢山あるのは、「その説話や才能・行為を根拠とした超越的力を行使する妥当性、高野聖こうやひじりという言葉の一人歩きの結果付与された放浪の妥当性、その両方を有しているから」と言えよう。


―――――――――

参考文献

 『呪歌と説話』花部英雄

 『世界神話事典 創世神話と英雄伝説』 大林太良・伊藤清司・吉田敦彦・松村一男

 『異界と日本人』 小松和彦

 『境界の発生』 赤坂憲雄





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