「怪談」の怖さの源泉とそれを求める理由の考察

前提1 精神分析学(ラカン)について

つまるところ、「精神分析学(ラカン)」なんて書いたということはラカンの精神分析学なんですよ。


フロイトの心理学から派生して、生粋きっすいのフランス人がフランス語で書いてるのにその論理が難解すぎて「フランス語でぉk」なんて言われたとか聞いたことのあるラカンさんの精神分析学なんですよ。


難解すぎるが故、いまだ、その内容が人によって解釈がブレブレという、ある意味致命的欠点を負ったラカンさんの精神分析学なんですよ。


わかるか、つまり、くっそ難しいってことだよ!(ここ集中線)


そんな難解の塊の端っこを先生から聞きかじった程度なので、わかる人からはツッコミ受けそうなのだけれど、もとにするレポートがそれ踏まえてるんだから仕方ないのである。少なくとも私の理解を元にするとオカルト(異界関係)と非常に相性がよくなるんだよなあ、何故かなあ……。


というわけで、ざっくり私の理解の範疇で語句の定義をしておきます。それ前提で書かれたレポート元にしてるし。

あくまで私の理解の範疇かつこれを読むに困らない程度。単純化しすぎの傾向は認める。

……投げるのは石ではなく、オナモミにして頂きたい。



・生の欲動

 フロイトのエロス。

 ラカンは生を「精神的には主観で完璧に至るために発せられる言語的営みによる無意識の欲望の連鎖状態」と定義し、この生の欲動を「欲望の連鎖を続けるための無意識による欲動」と定義した。


・死の欲動

 フロイトのタナトス、デストルドー。

 生を「精神的には主観で完璧に至るために発せられる言語的営みによる無意識の欲望の連鎖状態」と定義したラカンは、死の欲動を「欲望の連鎖を断ち切りたい=死という無意識による欲動」と定義した。

 言語的営みによって構造化された生の外に常にある死神の手招き、彼岸からの呼び声。生ける自己という内に対する外への衝動。

 あらゆる破壊的行為は、対象に自己を投影し、この欲動を擬似的に解消させるためのものとも。


・対象a

 「精神的には主観で完璧に至るために発せられる無意識の欲望の連鎖状態」において、欲望が投影される自身以外の何か。同時に空虚。

 というのも、そもあくまで主観において完璧になるためであり、その欠如は本来的にないものとされ、それを掴んだと同時に常に空虚に変わるため、別のところに対象aが現れる(=欲望の連鎖=生)。

 構造化され、秩序立てられたシステムの外側、秩序にないと考えられる混沌の一片。全能性を満たす未定義のひとかけ。惹きつけると同時に嫌われ、恐れられる死に近しいと思われる存在。追いかけることで剰余快楽を生むもの。

 ……欲望の連鎖に関してだけざっくりたとえれば、砂漠の逃げ水的なもの。


・剰余快楽

 対象aを求めることで生まれる、刹那的であり、暴力性すらはらむ快楽のこと。人が対象aに溺れる原因。

 暴力性すらはらむのは、根底に死の欲動があるから。


シニフィアンsignifiantシニフィエsignifie

 よくどっちがどっちかわかんなくなる(私事)

 シニフィアンが「音・記号」であり、シニフィエがその「意味」。言葉に寄り添う内容なので意味が物的に存在する場合もあれば、概念でしかない場合もあるが、物的に現実界(後述)に存在するものを指すかどうかというところが大事な場合もある。

 プログラム的に例えるなら、シニフィアンが「任意の変数」で、シニフィエがその「中身」である。

 あとはルビを駆使して、「シニフィアンシニフィエ」といった感じ。


・現実界、想像界、象徴界

 象徴界は言語・図像・記号、それらと紐づく概念で構成される。いわば我々人間の思考回路など。

 想像界は人間が感覚器で受容=観測して脳内で再構築した世界、つまりいま視界に映るのも、触った感触も匂いも全部想像界。

 現実界は観測に縛られないありのままの世界であり、人間は感覚器で受容=観測するしかない以上、この現実界には触れない。

 ここまでくるとクオリアにも近いわな。貴方の赤と私の赤が同じか、そしてそもそも世界にただある赤とその観測結果としての赤は別物である。第四色覚とか。

 また、本来人間は現実界を表現するのに言葉=象徴界としてしか語れず、しかして言葉=象徴界では現実界をそれそのものとして語れない(言葉の虚構性)。にもかかわらず、象徴界と現実界が完全なイコールとなる状況は、ラカンの精神分析上では基本的に「狂っている」ことになる。


・4つの言説

 「言説」と言われる主体と客体とその裏に発生する反作用的なものの流動的な関係性。流動的なので、個人に固定されるわけではなく、時と場と個人によって異なる。

 ラカンの精神分析学上の難関の一つと言えるほど難解。今私はこれを書くにあたって渋い顔をしている。

 主人の言説、ヒステリーの言説、大学の言説、分析家の言説の4つ。

 正直、ざっくりなんとなくしか理解をできていない。

  ・主人の言説

   の定義に基づいてに対して働きかけ、言説。自身という権威による強制とも言い換えられる。

  ・ヒステリーの言説

   に対してを問う言説。主人の言説と違い、自身による存在の定義がない、または揺らいでいるので他者から未定義=対象aが投影されがち。物語におけるファム・ファタールはコレ。

  ・大学の言説

   として対象に働きかける言説。対象をその知識の枠組み上に定義する。主人との違いは主人は主体に権威があり、大学は知識に権威がある。たぶん今の私がこれ。

  ・分析家の言説

   として、対象となるに働きかける言説。対象となる他者にを提示する。対象aであると同時に忖度そんたくなしに真理を提示する言説なので、忌避されるか相手を惹きつけるかの両極端になりがち。

 ……うーん、もやもやするけどざっくり理解でがんばるとこう。


・去勢

 端的に言えば、全能性の否定。

 全能性を「ファルス(=陽物)」として表すが故に、その否定として「去勢」という単語が使われているだけなので他意はない。ばつーん。

 本来なし得ない「象徴界と現実界が完全なイコールとなる状況」は全能性が機能している状態=去勢されていない状況ともなり、反転して言えば去勢とは現実界と象徴界を切り離す、正常なものでもある。


割と全体通して、「構造化・体系化・秩序立った(生の側)」に対して「体系化の外のχαος(死の側)」といった感じである。

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