4 説話の空海と伝承の空海の比較

説話の空海と伝承の空海、その差は何かと考えてみよう。


説話における空海は修円(または守敏)とのライバル関係や、仏や神による導きを受けている。

雨乞いをしたり、まじない合戦をしたりしているので、「超人的でない」とは言えないが、説話における空海は自身の意思を持ち、時として他者と対立したり、聖者らしく仏や神にその高みにたどり着くための導きを受けている。

端的に言えば、物語の主人公である人間、或いは聖人である人間として描かれた空海と考えられる。


伝承については、先述の通り、その立ち位置が空海である必然性はあまりない。

独鈷水とっこすいには空海以外にも、円仁や最澄のパターンが存在し、杖が木になるパターンは西行も同様の伝承を持っている。

また、報恩/報仇パターンについては後程触れるが、ワールドワイドに見て似た型の話が存在する。


あくまで、そういった奇跡を起こす存在としての説得力を持つと同時に、ネームバリュー的にも使い勝手がいいが故の装置的な空海さんという感じがする(詳細後述)


そのせいもあってか、空海の伝承において、西行とは逆の事象が発生しているように見える。

訪問者と地の者の転換が起きてはいるが、空海は西行戻り伝承系で言う、童や娘の立ち位置と同じ、つまりは方が納得がいく存在として描かれている。

特に、西行戻りにおける童や娘が登場時点ではその正体が明かされずとも、因果関係を語る種明かしとしてその正体が明かされるのと同様、空海の報恩/報仇伝承は登場時点では、空海は「旅の僧」であることが分かっていればよいのである。

あくまで、超自然的な恩/仇をもたらす存在に説得力を求めた結果が、空海という高僧に行きついただけである。

加えて、もし、「人には親切にすべきである」という教訓としても語るのであれば、空海であるという種明かしを最後に持ってくる方が、「ただの人と思っても以外な人物であることもある(ため、親切にすべきである)」という点に着地できる。ちなみに、今昔物語の呪詛合戦の話で修円が「未然に悪行を防ぐための菩薩の思し召し」であるのも、明確に書いてないからどうにか読み解くと、たぶんこの論理が下地。


と、長々と書いたがもっとコンパクトにまとめるのであれば、西行が特に伝承において、時として愚かしい人(特に俗人)としての面を強調して描かれているのに対し、空海は伝承において主人公ではなく、いわば「笠地蔵」の地蔵の如き超常存在の立ち位置で描かれている、ということである。

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