2 来訪者の報恩・報仇

さて、一旦話を変えて、後程触れると言った「報恩/報仇パターン」について。


やってきた旅人に親切にしたことで、その旅人からなんらかの祝福ともいえる報恩を受ける。

やってきた旅人を無碍に扱ったことで、その旅人からなんらかの呪いといえる報仇を受ける。

これらの片方でも、両方でも満たす話はワールドワイドに見ても存在する。

文化人類学とかで言われる交換の原則にでも従ったかのような話である。


日本においては、先に上げた空海の伝承以外で言えば、全国のいたるところに存在し、鎌倉中期の『釈日本記』にて引用された『備後国風土記』の「蘇民将来そみんしょうらい」の話がそれである。


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ある時、武塔神むとうしん(≒スサノオ、牛頭天王ごずてんのう)が南の海の神の娘の元に向かう途中、日が暮れてしまった。

その地には二人の蘇民将来そみんしょうらいがおり、兄の方は貧しく、弟の方は裕福だった。

武塔神むとうしんが弟の方に宿を借りようとしたが、弟はケチってこれを断った。

兄の方に宿を借りようとすると、兄の蘇民将来そみんしょうらいは栗までも用いて、武塔神むとうしんをもてなした。

さて、武塔神むとうしんが帰りがけにそこを再度通った際に、兄の蘇民将来そみんしょうらいの元に立ち寄ると、その子供や妻にの輪を腰につけるようにと告げた。

その夜、兄の蘇民将来そみんしょうらいの一家以外をすべて殺してしまった。

武塔神むとうしん

「私は速須佐男神はやすさのおのかみである。

 後世、疫病が流行った際に、蘇民将来の子孫であると言って、の輪を腰に付けた者はこの疫病を免れよう」

と告げた。


※裕福な方を巨旦将来こたんしょうらい、貧しい方を蘇民将来そみんしょうらいとする伝承もある。

 また、兄弟は逆転している場合もある。

 (今回は『備後国風土記逸文』に基づく)

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その信仰は平安時代までさかのぼるというが、祇園祭の厄除粽やくよけちまき他、岩手県の蘇民祭そみんさいなど、全国各地に「蘇民将来子孫也そみんしょうらいしそんなり」、「蘇民将来子孫之門そみんしょうらいしそんのもん」などと書かれた護符として現在も伝わっている。

ちなみに、この間職場近くのお店の戸口に飾ってあったのを見つけてテンション上がった。


……なんか目印で家を避けて殺しにかかるって旧約聖書でもあるよね、たしか過ぎ越しの祭の起源。

そっちは本題ではないので置いといて、ワールドワイドで見た時の似たような話が『グリム童話』 KHM87の「貧乏人と金持ち」である。


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『グリム童話』

 KHM87 貧乏人と金持ち

 Der Arme und der Reiche


昔、神様がこっそりと地上を旅していた頃のお話。

ある時、神様は一晩の宿を借りようとして、金持ちの家を訪ねた。

ところが、金持ちは粗末な旅人のなりの神様を見て断った。

そこで神様は仕方なく、向かいの貧乏人の家を訪ねた。

すると、貧乏人は夫婦揃って快く神様を迎え入れ、自分たちのベッドを神様に譲り、自分たちは床に敷いた藁の上で寝るほどにもてなした。

翌朝早く、朝食を終え、旅立つ準備も終えた神様は貧乏人に、礼として願いを三つ叶える事を申し出た。

すると貧乏人は、一つ目に一生幸せでいられること、二つ目に夫婦揃って毎日健康にパンを食べられることを願い、三つ目の願いは見つからないと答えた。

神様はそれなら新しい家はどうかと提案し、貧乏人もそれを了承した。

そうして神様は貧乏人を祝福すると、貧乏人の家をあとにした。

一方、金持ちが日も上がった頃に起きて外を見ると、みすぼらしい小屋が建っていたはずの場所に、見知らぬ新しい家が見えるではないか。

金持ちがおかみさんを呼んで、貧乏人の家に何があったのか聞かせに行くと、貧乏人は事の次第をすべて話した。

おかみさんからそれを聞いた金持ちは、それが自分が断った旅人と気付いて悔しがったが、おかみさんが今なら間に合うとたきつけ、馬に乗って神様を追った。

神様に追いついた金持ちは昨日断ったことを言い訳して、帰りに同じ道を通るなら自分の家に泊まるよう、代わりに貧乏人同様三つの願いを叶えるよう言った。

神様が

「泊まるのはいいが、お前の願いを叶えるとろくなことにはならない」

と言ったので、金持ちがそんなことはないと反論すると、神様は

「これからお前の願いを三つ叶えられるようにした。馬に乗って戻りなさい」

と言った。

金持ちは喜んで道を引き返したが、何を願おうか考えているその内に手綱を放してしまい、乗っている馬が言うことをきかなくなった。

どんなになだめても馬が言うことをきかなかったので、金持ちは

「この馬の首が折れてしまえばいいのに」

と願ったしまった。

すると、馬は死んでしまった。

けれどもこの金持ちはケチだったので、どうにか鞍は持って帰ろうと、鞍を背負って歩き出した。

当然鞍は重いし、日も照ってきたので金持ちはイライラして、家で待ってるおかみさんを思い出し、

「家で待って楽してるあいつが、この鞍に乗って降りられなくなればいい」

と願ってしまった。

すると、鞍は消え、二つ目の願いは叶えられた。

金持ちが家に着くと、鞍の上に乗ったおかみさんが泣いていたので

「これから最後の願いで、より一層金持ちにするから泣くな」

と言ったが、おかみさんは

「こんなとこから降りられないなら金持ちになったってなんの意味もない」

と金持ちを責め立てたので、金持ちは最後の願いでおかみさんを降ろしてやった。

そうして金持ちは三つの願いを無駄にした。


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どこだかの類話では神様ではなく、聖ペテロだったりもしたはずだが、どこだったかは失念。スラヴ系だったかな。

また、神様ではない存在による報仇の話が、グリム兄弟とも並び称される民話収集家、ルートヴィヒ・ベヒシュタインの『ドイツ伝説集』にも見て取れる。


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『ドイツ伝説集』

 マッターホルンに現れた永遠のユダヤ人(まとめ)


マッターホルンには昔、とても栄えた町があった。

そこへさまよえるユダヤ人(永遠のユダヤ人)がやってきた。

町の人々はそれがさまよえるユダヤ人と知りながらも、誰一人として彼を招き入れようとはしなかった。

するとさまよえるユダヤ人はそれを嘆いて去り際にこう言った。

「今ここには町があるが、再び私がここを訪れた時には、全ての建物が消え失せ、ただ牧草と木々と大きな岩が転がっているだろう。

 三度私が訪れた時には草木も岩もなく、ただ雪と氷のみが広がり、私がさまよう間はずっとそのままとなろう」

そしてさまよえるユダヤ人の言ったことは本当になった。


またヴァイスホルンにはテーシュという村がある。

そのテーシュから少し上の日当たりの良い牧草地の近辺に、同じくテーシュという名前の村があった。

ある時、この村の裕福な農婦が上等のバターを作ろうと鍋でクリームを煮詰めていると、一人の貧しい老人がやって来て

「ひもじくて仕方がないので、そのクリームを少し食べさせてほしい」

と言った。

ところが、この農婦は貧しい老人をののしり、

「お前にやるものなどない」

と言った。

すると老人は

「お前さんが何かを恵んでくれるなら、この鍋が決して空にならないように祝福しようと思っていたのに。そう言うならば、村ごと呪われるがいい」

と言った。

たちまち、マッターホルンの辺りから山が崩れ落ちて、この村はその崩れた山に覆われてしまった。


※ここでいうさまよえるユダヤ人について、文中に記載があり、「ゴルゴダの丘へ向かっていたイエスが己の家の前で休息することを許さなかった」罪により、「永遠にさまよいながら、年を取り、百歳になると罪を犯したその年に戻る」という罰を受けている。


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後半のじいちゃん、ちょっと報仇の程度からして、神よりか妖精の類の気がする(気がするだけ)という所感。


とまれ、確実に「徒人ただびとにあらざる見知らぬ客人まれびと」への対応如何いかんで報恩ないし報仇を受ける事になるというのは、ワールドワイドな普遍的考えであり、空海の伝承の多くはその普遍的な物語の系譜に属するのである。


……と言いつつも、これは「客人まれびと」に限定して適用されるわけではないし、どちらかというと「客人まれびと」でないパターンの方が一般的なのだけれど、大枠で見た時の構図はさほど変わらない。

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