6 境と塞の神

前ページの通り、各地の西行伝承の代表格「西行戻り〇〇」に出現する西行を「してやられた」と思わせる存在は、常に神であったとしても物語上問題がないとした。

そこで、このページのタイトルに刻んだ「塞の神」と絡めて、世界観を広げてみようと思う。


そもそもさいの神とは、才の神、幸の神とも書かれ、道祖神とも同一視される神であり、明確な名を持つこともなく境に祀られる神である。の神やの神と呼ばれることもある。たぶん転訛の影響だろう。

このさいの神の信仰は全国に存在している。

時に、小正月に正月飾りや書初めなどを燃やす、「どんど焼き」だとか「左義長さぎちょう」と呼ばれる行事をご存じだろうか。

それこそこのさいの神の信仰と紐づいていることが多い。

その呼び名が左義長とされない場合もあるが、神奈川県大磯町や富山県下入善町など各地に多く存在する。

このさいの神は境を守る神であり、村や町に邪悪なものが入らないように守る神とされと同時に、道祖神として一対の男女が彫られた像や、それこそ修正入れないと描けない代物を象ったものも存在するためか、縁結びよご利益を持つとされる場合もある。

疫病神を追い出す祭りや、稲に害を与える虫を追い出す祭りである虫送りでは、大概追っていく先は境までであるため、さいの神という存在は境の守護については非常に信頼を得ていたと思われる。


さて、西行とサイギョウの話で触れた通り、西行はその地区にとって幸を運ぶも不幸を運ぶもわからぬよそ者、客人である。

そして、その西行を境で追い返す神は何かと考えると、その地区を守ろうとしたさいの神が子供や娘の姿を取って現れたと考えられる。

しかし、だからと言って、安易に神道と仏教の二項対立としてはならない。

そもそも、神道と仏教は明治の神仏分離令で分離しただけであり、それまでは神仏習合、せいぜい本地垂迹ほんじすいじゃく反本地垂迹はんほんじすいじゃくか――つまりは神と仏、どちらを仮の姿でどちらを本当の姿とするか――の違いでしかなかったのだから。


とまれ、西行戻しの伝承における西行は、時として神に追い返されるただの人間であると見ることができ、説話の中の西行もまた、超人に一歩至らずを描かれることの多い、限りなく人として優秀なだけの人間として描かれており、それ故に人の親近感を誘うと言える。

――――――――――――――――――――――――――――

参考資料:

 『呪歌と説話』 花部英雄

 『西行はどのように作られたのか: 伝承から探る大衆文化』 花部英雄

 『あやかし考―不思議の中世へ』 田中貴子

 「菅江真澄の採集した西行伝承 -付載 鎌田正苗『秋田郡寺内村古跡記』」 星野 岳義

http://hdl.handle.net/2065/45145

 『祭祀習俗事典』 柳田国男

 『社をもたない神々』 神崎宣武

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る