5 その後の話

ここまで述べてきた通り、崇徳院は確かに周囲との確執を持っている境遇ではあったが、すぐに怨霊として捉えられたわけではなかった。

崇徳院の死後、時代の転換期であるが故の不安定な情勢や相次ぐ不幸によって、はじめて怨霊としての崇徳院が認識された。

そして、その崇徳院の怨霊のほとぼりも冷めた頃、後鳥羽院の怨霊が認識され、怨霊の直近前例として再び崇徳院の怨霊は注目された。


一つ、ここで重要だと思われることは、崇徳院の怨霊の直近前例となるだろう菅原道真の生きた時代と比べ、そう言った話題が広く人口に膾炙かいしゃするようになったことである。

『平家物語』や『保元物語』は琵琶法師たちが語り歩いたもの、つまりは口承伝承によるものであるが故に、文字を読めない非知識層にも、貴重品である紙を持てぬ非富裕層にも大いに広まったのである。

……同時に、あらゆる話が尾ひれも背びれも胸びれも生やされたわけだが。


そうして人々に語られた崇徳院の怨霊は、謡曲『松山天狗』で白峰に住む相模坊という天狗を始めとした多くの天狗を従えることとなり、上田秋成の『雨月物語』「白峰」においても自身は六道の外、天狗道に堕ちたものと語り、天狗を表す柿色の衣を纏って西行の前に姿を現した。

そうして今なお、日本三大怨霊の一人として根付いているのである。


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参考資料:

 『崇徳院怨霊の研究』 山田雄司

 『呪いと日本人』 小松和彦

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