4 時系列順で見てみる
西行の崇徳院の墓参り説話について、『古事談』が最も古く、そして『古事談』成立時には「崇徳院が無念/恨みを遺している」という認識は人口に膾炙はしていなかったと最初に提示した。
ここで『古事談』と先に挙げた中でも特に知名度の高い、半井本『保元物語』、延慶本『平家物語』、『沙石集』、『撰集抄』それぞれの成立年代を考えてみよう。
『古事談』は最初に詳細を記した通り、1212~1215年である。なお、この成立年は後白河院没の20年あまり後となる。
『平家物語』は1220年代~1243年に成立したとされ、『保元物語』も1220年代~1297年頃に成立したのではないかとされる。また、『平家物語』も『保元物語』も諸本と言われる各種バージョンが存在するが、今回の話を引いた延慶本『平家物語』、半井本『保元物語』は、どちらもそれぞれの諸本の中で最も古態が残っている物とされる。
とは言え、琵琶法師による語りがメインの口承伝承であった以上、後世に継ぎ足されたエピソードである可能性もある。
そして、明確に崇徳院の返歌を記した陽明文庫本『保元物語』は半井本以降に成立したバージョンだ。
残る『沙石集』は1279~1283年、『撰集抄』は1264~1288年頃成立とされている。
ここでは成立年代をあげなかった『源平盛衰記』と『西行物語』については、『源平盛衰記』はそもそも『平家物語』を下敷きとしており、『平家物語』諸本として扱っても問題がない以上、『平家物語』成立以降の成立と断言できる。
また、『西行物語』については鎌倉中期成立とされ、詳しい年代は不明だが、中期というと大体の頃は1200年代半ば頃~1300年と考えられよう。
また、「崇徳院が無念/恨みを遺している」根拠となりうる崇徳院の退位の次第を記した『今鏡』、『愚管抄』については、『今鏡』が1170年、『愚管抄』は1221年。
ここに、そもそもの後白河院と崇徳院の確執となったであろう皇位継承をめぐった保元の乱、および前ページで触れた崇徳院怨霊が意識されたタイミングやいわゆる時代の転換点である源平の合戦である治承・寿永の乱を考慮した上で、ざっくり年表を作ると以下の通りになる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
1156年 保元の乱
1164年 崇徳院没
1170年 『今鏡』成立
■皇太弟の話初出
1177年 安元の大火
〇崇徳院怨霊の噂
1180年↑
治承・寿永の乱
1185年↓
1192年 後白河院没
1212~1215年 『古事談』成立
■西行の墓参りの話初出
1219~1243年 『平家物語』成立
1221年 『愚管抄』成立
1221年 承久の乱
〇後鳥羽院生霊の噂
1239年 後鳥羽院没
〇後鳥羽院怨霊の噂並びに崇徳院怨霊再び
1264~1288年 『撰集抄』成立
1279~1283年 『沙石集』成立
1223?~1297年 『保元物語』成立
1200年代半ば頃~1300年 『西行物語』成立?
―――――――――――――――――――――――――――――――
「崇徳院が無念/恨みを遺している」意識を持った上で、このエピソードを描いた文明本『西行物語』、半井本『保元物語』、陽明文庫本『保元物語』、『沙石集』は後鳥羽院没後に成立、或いは成立した可能性が高い。
……いや『保元物語』と『西行物語』の幅が広すぎはするけど(頭を抱えるしかない)
また、後鳥羽院没後に成立した中で「崇徳院が無念/恨みを遺している」ような記載のない、『撰集抄』では、西行は「よしや君~」の歌を詠んだだけにとどまり、「松山の浪に流れて~」は詠んでいないことになっている。
それを考えると、『撰集抄』成立時点で崇徳院の返歌として扱われずとも、「松山の浪に流れて~」の歌が、必ずしも作者として西行を紐づけることがなくなっていたと考えられる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます