3 その怨霊はどこから
崇徳院を怨霊とする場合の根拠となる話、そして崇徳院の怨霊を劇的に示すことが可能な話。
両方を収録しているというのに『古事談』には「崇徳院が無念/恨みを遺している」という認識が欠けている。
一度根付いてしまった認識は、そこに追加要素を付加することはできても、それ自体を損なうのは難しい。ミームって強い。
であれば、当然「崇徳院が無念/恨みを遺している」という認識は『古事談』成立の後に人口に
怨霊とは呪いと同様、その恨みを受けた側が、自身や周囲に起きた不幸の根拠として認識する心当たりとして存在し、なおかつ実際にそう認識して初めて成り立つ存在でもある。
実際、政治的に安定していた時期、具体的に言うと菅原道真から崇徳院までの間に怨霊は現れていない。
これについて、崇徳院怨霊が強く認識された時期は、その死から13年後の安元の大火(1177年)から後白河院が没する(1192年)までと、後鳥羽院没(1239年)後、後鳥羽院の怨霊が認識された際の二回であるという。
実際、崇徳院没直後の1164年には後白河院は特に何もしなかった。
1177年は大火のみならず、延暦寺の強訴や鹿ケ谷の陰謀が発生し、その前年には後白河院周囲の人間が複数人亡くなっている。
その後、しばしの間、後白河院は崇徳院の慰霊にかかわる行事を執り行い、当初「讃岐院」とされていたのを、供養のために「崇徳院」と改めたのである。
そして、後鳥羽院の怨霊が認識された際には、直近の事例として引き合いに出されることとなったのだ。
……とか言いつつ、後白河院関係だと、1180年前後に今様を集めた『梁塵秘抄』が成立していて、その431番にこんなのがある。
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讃岐の松山に 松の一本歪みたる
:讃岐の松山に1本ゆがんだ松がある。
ねじれねじれてねたんでいるのか。
それほどの松を直すこともできやしない
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後白河院にとって讃岐の松山ってそういうことのはずなので……うん……。
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