第9話 真偽3

 首を絞める力が強まっていく。凪の爪が零の皮を破り肉にのめり込む。両手で腕を剥がそうと必死に抗う。


「放して、凪ぃぃぃ!」


 不穏な笑みで堕人は、わざわざ凪の声で――バイバイ、零――と死という別れの挨拶を言い放ち、首の骨を折りにかかる。ぎしっ、ぎしっと首の骨が軋む。


「うぐ、かはっ。っやめ、ろぉ」

「死ね」


 死が迫る。首から下の感覚がなくなり始めている。もう下半身は死に浸かっている。


 軋む音が不快になるほど大きくなる――痛い。

 視界がぼやけて意識が途切れる――苦しい。

 それ以上に凪が戻ってこないことが――悲しい。


(苛む私を凪、貴方はどう思う? 貴方を置いて私だけ生きていくことをどう思う? 異変に気づけなかった私をどう思う? 許せない? 死んだほうがいいのかな)


「そんなことさせないわ」


 その言葉は、敵の発言に対する完全なる否定だったが、零の思いをすっぱり否定する言葉でもあった。脚を踏み込む音と強気な発言が妙に相まって聞こえた。瞬間、シュパッと堕人の腕が切り落とされる。まるであの時と同じような救われ方だ。


「やっと見つけた。無事?」

「かは、かは。はい」


 咳き込みながら首もとに手をおさえて返事する。


「彼女は?」

「喰われました」

「ちっ、相変わらず醜い生命体が」

「何故怒る。お前ら人間が日々進化するように、この世すべての生命体も同様に進化する。我々堕人もその一種だ。強者が弱者を喰う、当たり前の行為だろ。お前らもやっていることだ」

「何を馬鹿げたことを」

「この世の植物連鎖の頂点は、お前ら人間ではなく我々にある。お前らが家畜を喰うように、我々もお前らを家畜のように喰ってこの世から善良の人間を殲滅するのだ」

「お社か」

「知っていたか。そうだお社様だ。俺にくれた力は、『模倣』だ。まさしく俺にふさわしい。俺が羨む人間を喰うことで何もかも同じようになれる。このように」


 堕人は凪の制服を切り捨て上半身と下半身を露わにし、乳房をまさぐった。抱きかかえられている零は、それを見て憤る。


「や、めろおおおおお」

「ははは、全く同じだ。素晴らしい。男の俺が綺麗な少女の身体にもなれるなんてお社様には感謝しかない」

「貴様、今すぐその下劣な行為をやめろ。とうに人を捨てたお前に生きる意味も価値もない。お前こそお社の操り人形だわ。パチンっ」


 血走った目で神島は、右指を鳴らした。音の合図により空間には鞘に納められた剱が前に一つ。左右に一つずつ。計三本、具現した。その内、鞘から二本の剱を抜き、右手に持った剱を突きつける。


「さあ、討伐の時間だ」


 ――模倣の堕人が二刀、流、と言おうとした時には目の前に剱先があった。ブレのない動きに合わせて二つの剱を巧みに使う風の天使、まさしく、風吹町を守護する大天使だ。


「シュッ、シュッ、スパ」


 堕人は頬を掠めながら躱す。追い込まれつつある状況を何とか打破しようと零に揺さぶりをかける。


「いいのか、俺を殺せばこいつも完全にこの世から消滅するんだぞ」

「こんな奴の話に耳を貸さなくていいわ。このまま親友が人を喰うための存在として扱われるのなら、見過ごしてはいけないわ。それでも殺すことに躊躇いが生まれるのなら天使としての使命感など捨てなさい」


 誘惑の言葉は、神島の言葉で空耳と化す。二刀の剱と多方向に広がる髪、後ろ姿の女性の存在感は強く、その言葉は残酷な事実を吹っ切る勇気に変わる。


「これ以上凪の醜い姿は見させない。たとえ貴方の中で生きているとしても、魂を貴方の中に留めさせるなんて、私が許さない!」

「ちっ。そうかよ、そうかよ。殺してみろや」


 挑発のつもりで投げかけた言葉は、戦闘中の彼女には禁句であった。


「ええ、殺すわ。一刀剱術 風穴っ!」


 剱術を唱えながら右手に持った剱を勢いよく投げ飛ばす。それは左肩に命中する。瞬間、内側から破裂、水風船が割れる衝撃とその衝撃に伴い勢いよく肉片と血が飛び散っていく。


「何だ? これ。貫通したのか」


 堕人の言う通り投擲された剱は、凪の小さな左肩に風穴を開け、寺院の柱に突き刺さっていた。だが肩を大きく損傷した凪の身体は治癒を始める。


「なくなったところで再生されんだよ。馬鹿が」


 しかし、遅い。


(ふっ、大天使である私が治癒する時間を与えるわけ、ないでしょう)

「なんだ、その構えは」


 それは、もう一つの剱を垂直に構え、無音のまま終わる。剱には血がついていて、気づいた時にはもう遅い。堕人は、あらゆる身体の部分から血を吹かしていた。風の大天使は何故か背後にいて術を告げる。


「一刀剱術 凪ばらい」


 ぶしゃあああああ――――――っ。身体中の欠陥箇所は、瞬時に回復不能な状態となる。堕人はその場に倒れこむ。


「まだ、だ。俺は、こんなところで」


 しかし、今の剱術で全身の関節部分を切断された堕人は、動くにも動けなかった。そこに追い打ちをかける見習い天使が剱を具現化させ振り上げる。


「さよなら、凪」

「―――っ」


 躊躇うことなく凪の首を勢いよく斬り落とした。零は、塵となって消えていく凪の姿を悲しげな表情で見つめる。


「悲しいけれど、ああなってしまった以上、仕方のないことよ。人間に害を加えるのなら、私たちはそいつを消さなくてはならない。だってそれが天使に課せられた責務だから」

「はい、でも私は一番近くでずっと凪を見てきたのに、あの子の様子に気づきもしなかった」

「貴方がそこまでその子のことを思っているのなら、その子はもう十分救われているわ。それに、形はどうあれ貴方はその子の行く末を見届けることができた。誰にも見届けられずに消えていくなんてそんな悲しいこと他にはないのだから」

「……はい、そう思いたいです」


 零と神島は守れなかった者たちを埋葬する。


「今日は、もう帰ったほうがいいわ。心と体を休めなさい」

「そうします」


 帰っていく後ろ姿を神島は見届けながら、眉間に皺を寄せる。把握できる範囲では五人の命が救えなかった。うち四人は零のクラスメイト、一人は大人の女性。


「ちっ、野放しにしすぎたせいでこんなにも犠牲者が。できればあの子は、こちら側に招きたくない。きっともっと辛い思いに駆られる。ただ普通に人間の暮らしをしてほしい。けれど、あの子を認めた以上こちらも覚悟を決めなくては。決めるのは、私じゃなくあの子自身なのだから」


 目を閉じて、空気を吸って息を吐く。彼女なりの気持ちの切り替えだ。瞳を開ければ気持ちは次の行動に移る準備が整っていた。


「天界殿にいる主天使様にお伝えします。以前、報告した陽ノ原零のことですが、天の剱を具現化させるほど天使としての素質はあります」

「そうですか」

「しかし、剱を具現化させたのは良いものの魔力の消費が激しいようです」

「それでも天使の証とも呼ばれる天の剱の具現化は成功したのですから、後は鍛錬あるのみです。零を天使として迎え入れましょう。引き続き貴方に任せます」

「はい、これからも責任もって指導に当たります。最後にもう一つ伝えなくてはならないことがあります。今回またしても堕人が現れました」

「被害の状況は?」

「少なくとも五人の命が奪われました」

「そうですか。やはり異能術は厄介ですね。負の感情が善の感情を大きく凌駕すればするほど異能術も強力になる。依然として倒せずにいる者たちも、あの時みたく、天使が喰われることだって不思議ではない。貴方だってそれは例外ではないです。天使は弱き者、肝に銘じて気をつけてください。そして、これからも頼みましたよ。風月」

「……承知いたしました」


 忠告と期待。いつ殺されるか分からない不安は神島への忠告。死のカウントダウンが始まっている神島の前に現れた幸運は、零への期待。そこでテレパシーによる通信は途切れた。


――――――


 翌朝。行方不明事件は事故扱いされ、学校は急遽、例年よりも早く冬休みに突入した。


「零っー。どうしたの? 昨日から部屋に閉じこもって。冬休みだけど早く起きなさい」

「……」


 体の疲れは取れても心の傷は癒えない。


「そう、お母さん。今日も仕事だから、朝ご飯下に置いてあるからね。行ってくるよ」

「バタンっ……」


 ドアが閉まる鈍い音が聞こえた。再び布団に潜りこむ。昨日の出来事は、思い出したくなくてもフラッシュバックされる。親友の姿をした堕人が人を喰べている画。音。匂い。それ以上に考えてしまうことは、凪がいつ堕人に喰われたのか、何も知らずに偽りの親友に疑いもしないで過ごしていた自分に情けなくなる。そんなことを考えていても仕方がないことはわかっている。けれど、悔やむこと、悲しむことは人間だけができることだから。


「……お腹減った」


 心が暗くて辛くてもお腹は空く。下に降りて、冷めた朝ごはんを温めて食べる。


「……おいしいなぁ」


 無性に落ち着くのはいつもの味だからだろうか。涙が止まらなかった。泣いても凪はこの世にはいない。でも、この悲しい気持ちを静めるためには、涙を沢山零すだけだった。

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