第10話 お社と主天使
日にちは十二月十四日。
(切り替えよう。これ以上誰かが悲しまないためにも神島さんの鍛錬場で剱術の習得を教わろう)
零は、自身に抱えた悲しみを完全に置き去るために自宅から鍛錬場まで走り続けた。自宅からはかなりの距離がある。吐く息が白い。喉に自然の冷気が入り込んでくる。肺が凍っていく感じがいつもは苦しいはずなのに何だか心地よい。
――――――
鍛錬場に到着したのは数十分後であった。
「……」
神島は一週間ぶりの訪問に驚く。
「おはようございますっ」
「おはよう。その様子だと体調の方は大丈夫そうね。けれどそんなに急いでどうしたの?」
「剱術を教わりたくて、ぜえ、ぜえ、ぜえ」
「……そう、その前に呼吸を整えましょうか。ここまで走ってくるのはいい心構えであるけど、少し体を休めてからにしましょう」
居間で座っていると神島さんは温かい緑茶を差し出してくれた。
「いただきます」
温かい緑茶が喉に凍てついた空気をかき消していく。
「ごちそうさまです。温まりました」
「そう、それはよかったわ」
自分のことを心配しているのか、神島さんはどことなく普段より優しい感じがした。すると突然、顔を近寄せて頭を撫でてきた。
「え、どうしたんですか? 神島さん」
「いえ、大丈夫そうね」
神島は立ち上がるとテーブルの向こう側に正座し話をする。
「剱術を教える前に、天使について教えておくことがあるわ。とりあえず私は、他の天使から大天使と呼ばれている。この町を守る要となる天使だわ。そんな私も産みの親である主天使様によって作られたわ。私たちの存在理由は、元々人間たちに直接介入することではなく見守るだけだった。けれど堕人の発生に伴い、人間界に限界せざるを得なくなったわ。そこで主天使様は、亡くなった人間の魂、これを『人魂の宝珠』と言い、天使の心臓に埋め込むことで、私たちは人間界に限界できるようなった。貴方の心臓にもきっとあるわ」
それを聞いた零は、心臓に手を当て、あの時、埋め込まれた宝石のようなものが何であったのか、初めて理解できた。冷めた表情で引き続き神島の説明は続く。
「そして、私の他に大天使は六人にいて人間界の各主要都市を守っている。七つの主要都市を知っているかしら。ええ、『風吹町』に『華園町』、『田雷町』に『陽光町』、『
「その主天使様って人は、何処にいるんですか?」
「天界殿よ。主天使様は人間界には居られない。だから神聖な天界殿でしか姿を現すことはできないし、天界殿も普段は姿を現さない。当然、神聖なものは人間には見えないわ」
天使の成り立ちのようなものは大体、理解できた。なら次は敵の詳細について知りたい。
「あの、堕人が発生することにおいて、それを招くものであるお社とは一体どんな者なんですか?」
「そうね。改めて言うと、お社は、私たち天使が倒さなくてはならない最大の敵、堕人を生み出す全ての元凶であるわ。お社は、悪感情で苦しむ人間の願いを叶える引き換えに、人間を殺し、喰う堕人とさせる。だから、お社を倒せれば、堕人はこの世から消えるわ。けれど、これと言って有力な情報が掴めていない。何故、堕人を生み出し、善人を殺すように命じるのか、真の目的もましてや姿さえも誰も見たことがない。これまで堕人から聞き出した話によれば、その姿は性別も歳も異なっていて、姿が特定できないようにしているみたい。結論を言うと、堕人が発生して五千年近くが経つけれど、何も掴めていないことが事実だわ」
「五千年近く経っているのに何一つ掴めていないなんて」
「失望したかしら?」
「いえ、そんなことないです。天使のおかげで、これまで自分たちが平和に生活できていたのに、そんなこと言う資格なんて、できません」
「そう。それともう一つ言っておくことがあったわ。人間が天使として認められたのは貴方が初めてだということ。そして、貴方は天使であるけれど人間寄りな部分が強いということ。これから堕人と戦うにあたって、十分気を付けなくてはならないこと。つらいことがたくさんあると思うわ。戦いにおいてそれは避けられない。心に刻んでおいて欲しいわ」
親友の死。この先、これ以上つらいことがあるのかと考えると鳥肌がたった。心が不安と感じる前に身体が不安を示している。それでも屈しない。あの時、朱雀と誓った零は、守られる側ではなく守る側にならないといけないからだ。
「分かりました」
「では、剱術習得にあたって戦いの基本を教えるわ。まず天使は潜在能力を複数、持ち合わせている。その中で誰もが持ち合わせている潜在能力は、三つ。具現化と自然治癒力とテレパシー。その中で何より大切なのは剱の具現化で、具現化させた
次に、戦いにおいて体力即ち魔力は、重要な要になる。だから、攻撃も回復も体力に左右されるわ。天使はある程度の損傷であればすぐに傷は癒えるけれど、人間と同じで命に近い場所、頭部や心臓に致命傷をくらえば命を落とすこともある。特に、心臓部分の攻撃は何が何でも避けなくてはならない。人魂の宝珠が破壊される、もしくは心臓から離れることがあれば、限界出来なくなり消滅してしまうからね。事前の説明はこれくらいにして身体を動かしましょうか」
居間から道場部屋に移る。案内された道場は、平屋であり、今まで使っていた畳部屋の道場ではなく杉床であった。道場の内部は、間口、十五メートル、奥行き、二十メートルほどある。これ程広いと掃除するのが大変だなと思いながら、これから指示されることを待つ。神島さんはというと何故か指先を床に付けていた。離した人差し指には埃がついていて、フーっと息を吹いていた。
(うん。この部屋が使われていないことが分かったぞ)
なんだか嫌な予感がした。案の定、零が想像していたことを彼女は口にした。
「まず剱術の軸となる体力と反射神経を鍛える。そのために体力づくりの一環としてこの床を雑巾がけしてもらうわ。ひたすらに」
不敵な笑みを浮かべた神島さんは、いたずらを企んでいる子どものようだった。
「さあ、始めるわよ」
「……はいっ」
神島の指示の下、何度も繰り返し雑巾がけをする。
「これ、いつまで、続くんですか?」
「あと二時間」
開始からすでに一時間も同じことをしている零にとってその返答は、身体の負担を一段と倍増させる呪いの言葉と化した。腕と腰と太腿が悲鳴を上げている。先ほど緑茶をくれた優しい彼女はどこにいったのか。
「そうね。私も一緒にやろうかしら」
「え、やるんですか」
「体力づくりは重要と言ったでしょう。それに二時間も貴方一人だけっていうのは心細いし辛いでしょう? 知っておくことね。辛いことは二人でやれば半分に減るのよ」
途中から参加した神島さんは、長い髪を後ろで結ぶと綺麗な脚運びと乱れない息遣いで淡々と床を拭いていく。
(は、はやい)
零も負けじと神島の後を追った。
結局、三時間もの間、雑巾がけという体力づくりをさせられた。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ」
疲れからくるだるさと身体を支えていたことによる筋肉の悲鳴で、零は大の字になったまま起き上がることができない。一方、神島さんは、汗をタオルで拭きつつも平然としていた。
「体が重たいです」
「これを毎回やることで体力は愚か、筋肉や足腰の活性化に繋がる。精神面でも忍耐力と集中力が鍛えられる。地味なことだけど積めば積むほど地盤は安定するわ」
この女性は、さらりと凄いことを言う。これを毎日やらせようというのだ。体力が大切なことは十分わかったが、過酷過ぎないかと疑いたくなる。まあ、剱術を教わりたいと言ったのは自分で、言った本人が音を上げるなんてできないし、反論するつもりもない。指導者、神島は、三時間の雑巾がけ掃除など、どうってことない顔で、次の鍛錬内容について話す。
「少し休憩を挟んだら、次は前後左右の足さばきと剱の振るい方を磨いていくわよ」
「は、い」
数分の休息を取った後、ピカピカになった道場で剱を具現化させ、鍛錬を再開する。前後左右の足さばきを意識しながらの素振り。たった十分で汗だくになり、剱の重みで腕はパンパンになっていた。魔力と密接な関係にあるという体力も消耗し、剱は消えかけている。その様子を見ていた神島は、助言を呈す。
「腕力だけで剱を振るうから無駄な体力を使うのよ。足腰で床を踏ん張って、剱を振るう瞬間に力を加える。余計な力みはいらないし、過度な力も必要ない。余分な力は、大事な時に取っておくべきよ」
それから一時間近く剱を振るった。人から教わったことが身体に馴染むまでには、頭で理解したことを身体で実践することで初めて身に着く。慣れには少しばかりの時間が必要だ。剱は完全に消え、再び具現化できるほどの体力は残っていなかった。
「今日はここまでね。よく頑張ったわ。これからこれを繰り返しやっていけば、次第に己の剱術は身についてくる。大事なのは気合いと根性。頑張りなさい。そして、零は今日から私の弟子よ」
「はいっ!」
(神島さんに零って呼ばれた! 嬉しい)」
零は、認められた気がして、頬が緩んだ。
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