第3話 非凡へようこそ3
(……だめだ、やめろ。覚ませ)
動けなくなった身体と葛藤した少女は、覚めると瞬時に剱先を右手で固定し、零に迫りかかろうとしている堕人の頭部に焦点を合わせ、狙いを定める。
「一刀剱術 剱伸突き《けんしんづき》っ!」
剱術の掛け声に反応するように切っ先が瞬時に伸び、ズシュッと頭部を貫く鈍い音がした。堕人はそこで息絶え、塵となって消えていく。消滅するのを確認すると少女は急いで零に駆け寄った。
――――――
(私は穢れた呪いの血。誰かがそんなことを言った。ああ、そうだ。だから私は、こんな目に遭うのかな。まあ、生きてても空っぽで何もない私が、平凡な日常に特別な何かを、求めてしまったのがいけなかったんだ)
「っ、丈夫? ない、なせない。死な、せない」
何か声を掛けられている。夢現な零は、完全に聞き取ることもましてや苦痛で返事どころでもない。しかし、心の中では悶え苦しむ叫びで充満していた。
(熱い、熱い、熱い。熱くて熱くて耐えられない。死にたくない。嫌だぁ)
零は痛みよりもひどい熱さに悶えた。まるで包丁で皮膚を切った突発的な痛みが、熱湯でかき消され続けているように熱さが痛みを包み込む。耐えられない熱さ。自分の体から絶え間なく出てくる熱を持った赤黒い血の感触と匂いは、トマトジュースのドロッとした感触よりも、鉄の錆び着いた匂いよりも、主張が強い。
けれど、その主張を感じられるということは、まだ生きているということだ。零は、目検にしわを寄せ、涙を流しながら現実逃避をする。そう、これはとても悪い夢を見ているのではないかと。それは逃避ではなく死にたくないという懇願だった。この悪夢から早く覚めて欲しい、一刻も早く瞳を開けて、早く普段の日常に戻って。そうしなければ零は、ずっと暗くて覚めることがない何もない寒い場所に引き込まれるような気がした。
(これが死なの?)
意識朦朧としている中、零は霞んだ白髪の少女を認識する。苦しいはずなのに何故か自然と声が出た。
「綺麗な白」
今にも朽ち果てそうな細い声を聞いた少女は、表情を曇らせながら苦悩の思いを口にした。
「私の役目は人間を救うことなのに。堕人を殺したところで、人間を救えなかったら何の意味もないのに。でも幸いまだ息がある。こうなってしまった以上……」
天使が自責の念にかられている最中に、零の意識は薄くなっていく。
「意識が途切れる前に早くしないと。死なせない。必ず私が助けてあげるから」
様態に気づいた天使は、左目に意識を向け、集中力を高める。黒の瞳孔は、色素が薄れ白になる。さらにその白は、宝石のように輝きながら色素を失って透明になっていく。
瞬間、ピシっ、ピシピシピシ。左目に切れ目が何本も入る。同時に現実世界の空間も鏡にひびが入るように崩れていき、そこから新たな空間が生まれてくる。
「こんなモノで救うなんて、屈辱だ、な」
――――――
――目を開けた零は今、モノトーンの空間で横たわっていた。その空間を言葉で表すのならまさしく異世界だ。将又、上空から砂のようなかけらが、とてもゆっくりと降り注ぐ場所は、よくわからない夢の世界にいるようだった。
「どこ? 私は……死んだの?」
「死んでないよ」
そこに見覚えのある腰まで垂れた白髪の少女が、ひょこっと顔を近づけ話しかけてきた。
「目が覚めたね。驚いたでしょ。ここは夢のようで夢じゃない場所。私の瞳が作り出した異空間。私の瞳はね。自分にとって不利なものを覆し、都合のいい理想世界を作り出せるの」
その瞳の名を、少女は『理作の
「此処は、現実世界の時間軸が減速した空間で、現実世界の一秒間が一分間隔の時間軸になっている。だから出血の勢いも止まっているように見えるでしょ。それに、身体の損傷による痛覚が、神経回路から脳に届くまでの時間も遅くなっているから、痛みもほとんど感じないでしょ」
「よくわからないけれど、痛くない」
「それはよかった。ひとまず無事みたいだね」
「あなたは?」
「私は、
「でも今はなんともないし」
「いや、問題あるでしょ。目も腕も、臓器だって。まあ、それでも何とも思わないのは、この空間だからだよ。だけどね、このままの状態を保つことは難しいんだよ。自分の思い通りにさせる異空間を作り出して、それを維持し続けるのは、魔力的にも相当な負荷があるからね。だからもって後数分が限界。その前に、身体を治さないと君は助からない」
「私の怪我を治せるの?」
「方法は一つだけあるよ。でもそれは君にも覚悟が必要になる。これから先、君はその覚悟を背負いながら生きることになる」
「覚悟?」
「そう、私の身体を授かる代わりに、天使の役目を引き継ぐこと。残念だけどそれしか生存は望めない。それでも君は生きたい?」
「……生きたいです。でも、天使の役目を担えるかなんて。その、私が身体を授かったら、あなたは消えてしまうの?」
「当然。私は作り出された存在で、私の役目は、君たち人間を守るためだけに存在している。だから君の身体に私の身体が移植されれば、この世界から消滅する」
「なんでそんな平気でいられるの? こんな何の取柄もない私なんかよりずっと――」
朱雀は、首を振って零の完全なる否定の言葉を否定する。
「そんなことない。君は生きたいんでしょ。ならそんなに自分を否定しないで欲しいな。それに私の命で救われる命があるのならそれが本望だよ。だからさ、私のためにも生きてくれないかな?」
「でも私にあんな化け物を殺す力も勇気もない」
「いいや、大丈夫だよ。私の身体を授かった君ならきっとやり遂げられる。私は君の中でずっと見守っているよ」
そう後押しされると何もない自分が何故だか求められている感じがして、救われた側の零は、自分がこの子を救っているように思えてしまった。
「そろそろ決断の時が近づいている。生か死か、君が選ぶのはどちらの未来?」
彼女を引き継いで彼女のために生きていく。死ぬはずだった自分が生を選ぶならそれぐらいの使命、課せられることは当たり前で、それでも死ぬことだけはやっぱり嫌だった。だから、零は生を選んだ。
「……わかった。あなたの代わりに私が生きる」
「よしっ。いい決断。最後に名前を訊いてもいいかな?」
「陽ノ原零です」
「ありがとう、零。それじゃあ、目を閉じて」
やはり彼女は、自分よりも救われていた。こんなに感謝するなんて救われた側にすることじゃない。零は言われた通り、目を閉じる。
――――――
「ぐちゃ、ぐしゅ、ばき、ばき」
あ、これは、嫌いな音だ。命あるものが壊れる音がする。零は、急に怖くなり、瞳に隙間風を入れるかのごとく、僅かに目を開けてしまう。
「いやだ」
突拍子に否定の言葉が出てしまった。右目に映ったものは、白じゃなく朱だった。見てしまった罪悪感よりも、彼女をこんな無残な姿にしてしまった罪悪感で一杯になる。零が見たのは、切断された自分の腕に自身の腕を託した少女の姿だった。分かっていた、分かっていたけれど、かわいらしい姿が壊れていくのを見て、いたたまれない思いに駆られる。
「いいの、おとなしくしてね」
少女は、自分の身体がどうなろうとお構いなしに潰れた左目に自身の左目を、最後に心臓近くに自身に埋め込まれた宝石のような丸い何かを埋め込んだ。その宝石のようなものは、この世の原石を詰め合わせたように神々しいものだった。
異空間の崩壊が訪れる。白と黒の世界は、確かな色を取り戻し始めていた。そして、異空間は、現実世界に押しつぶされる。それは、彼女も同様でボロボロに朽ち果てていた。朱雀は、喜びにも悲しみにも捉えられるような何とも言えない複雑な表情で、最後に言葉を残して消えていく。
「さあ、目覚め時だよ。……どうか、私を、救ってね」
――――――
「……」
とても長い夢を見ていた気がする。目覚めた零は、戦闘が繰り広げられた路地裏の広い空間で一人横たわっていた。起き上がると、零を中心に大きな血の水たまりができていて、壁のあちこちにも血がへばりついていた。その惨状を見てあの時の記憶が蘇る。
(そうだ、ここで堕人に遭遇して、それで目と腕を切られて……私、あの子の身体を移植してもらったんだ)
けれどまるで実感が湧かない。それはなぜか? 移植の痕跡もなく不思議なほど身体には違和感がないからだ。しかし、零の脳内には所々違和感が垣間見える。
(何だろう? なんの記憶だろう? これは、私のじゃない)
その違和感の根拠は外見ではなく内面にあった。自分の知らない記憶、あの子の記憶が頭のあちこちを駆け巡る。自分とあの子の記憶が混同し、調合し、絵具が交じり合って何とも言えない色に変わっていくかのように頭の中が困惑している。
「とりあえずここから離れよう」
それでも今はこの非現実的な光景から離れたい気持ちが強い。そのためにも素早く血のついた羽織を鞄にしまい、人が見ていないか周りを確認してここを去ろう。しかし、血塗れの場所をそのままにして大丈夫だろうか。そんな不安が脳裏を駆け巡ったが自分にはどうしようもないし、こんなところを誰かに見られたらそれこそ大変なことになる。零は困惑している頭を置いていくかのようにその場を後にした。
(母さんが帰ってくる前に家に帰らないと)
零は小走りで挙動不審になりながらも、裏道を頼りに家の近くまで向かう。裏道は堕人の住処と言われていることもあって、幸い住民は誰一人いなかった。
結局、いつもなら数十分程度で帰れる道のりに一時間以上かけてしまった。時計の針は五時を回っていた。零は安堵の溜息を漏らす。幸い家にはまだ母は帰っていなかった。まあ、当然である。母の帰りは不規則だが大抵帰りは遅い。
だが、あれほどの惨劇があって冷静にものごとを考えられるほど、自分の心は成熟していない。急いで風呂場で血を洗い落とすと、二階にある自分の部屋に行き、下着姿になる。何より心配だったのは、自分の身体だった。何処かおかしなところがあれば、気づかれないようにしなくてはならない。姿見で自分の身体を先ほどよりも細かく確認する。
(特に、変わったところはないけど、左目の色素が薄い? ような気がする)
他にもおかしなところはないか念入りに探していると、ドアを開ける鈍い音がした。
(帰ってきた! やばい、こんな時に限っていつもより早いっ)
「ただいまー」
母の声は、今の零にとっては安否確認のような挨拶に聞こえた。
「おかえりー」
零は、いつものように元気な声で迎えの振舞いをする。
「今日は早く仕事が済んだよ。夕飯の準備するから待っててね」
「うん、先、風呂入ってくる」
先ほど血を洗い流す際に風呂を沸かしていたこともあって、湯舟はお湯で満タンになっていた。傷跡や移植の痕跡はないものの、恐る恐る湯船に浸かる。そんな不安は温かさで一瞬にかき消された。
(よかった。痛いところもないし、やっぱり身体に支障はないみたい)
心と身体に一息の休息を与えると風呂から上がり、久しぶりに母と一緒に夕食を食べる。朝や昼は母が準備をしてくれるが、夕食は基本、母の帰りによって左右される。そのためほとんどの夕食は自身の手作りなのだが、全く進歩せず、それどころか料理をする人から見れば、間違いなく料理をしたことがないと判別されるぐらい下手である。
しかし、母の手料理は、不思議なぐらい美味しい。その美味しさに零が気を許していると、母が突拍子もなく親の勘を駆使したかのような質問をしてきた。
「今日、なんかあった?」
「え、いや、何もないよ」
「ふーん」
「なんで、そんなこと聞くの?」
「いや、畑仕事していないから」
あ、完全に忘れていた。毎日いやいや言いながらも零が畑仕事に手を抜くことはなかった。だからきっと不思議に思ったのだろう。
「いや、そうそう。さっきまで体調悪くてさ。明日やるからさ」
「そう、ならいいけど。他にも何だか――」
そう母が何かを指摘しようとしたところで耐えきれなくなった零は、今できる最低限度の理由で話を断ち切り、戸惑いを隠しきる。
「その、もうお腹一杯。あーおいしかった。ご馳走様。疲れたからもう寝るね」
「あ、うん。おやすみ?」
(危なかった。何でこういう時、鋭いんだろう?)
零は母親に見破られていたのではないかと冷や汗をかく。こういう時、親というものは厄介だなとつくづく思う。久しぶりに夕食を共にした我が子の異変に違和感を覚えたのだから。階段を上がり、自室のベッドに寝転がる。
時刻はまだ九時過ぎ。あんなことがあったのに身体の方は異常なほど調子がいい。しかし、それと対になるように心の方は、疲れ切っていた。今や自分の身体になった朱雀の部分を右手でさする。
(左腕と左目、それから心臓、あの子からもらった場所からあの子を感じるような気がする。はあ、なんか自分が自分じゃないみたい)
それ以上深く考えずに瞳を閉じて眠りについた。
――――――
朝になった。いつもと変わらない朝だ。だが、零だけが昨朝の身体とは違う身体で朝を迎えた。
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