第4話 風吹町の大天使

「はよう、おはよう、零?」

「あ、おはよー、凪」

「何どうしたの? 考え事?」

「……いや、寝不足かな」

「そう。早く寝なよ?」

「うん」


 零は、昨晩、あったことをぼんやりと思い出していた。とりわけ今日の会話は、何かを話すことはなく、歩を進めるだけだった。


 ――朝のHR、担任は、深刻な表情をしながら教室に入ってきた。はあ、この前、受けたテストの結果が想像以上に悪かったのだろうか。それとも単に二日酔いとか。零は、机に突っ伏して邪推を図るが、教卓に立った表情を見て、これは違うと受け止める。クラスメイトもいつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、賑やかだった教室内は、一瞬にして静けさを取り戻した。


「皆、今から大事な話をする。木下が昨日の帰りから家に帰っていないそうだ。木下の親が捜索願を出して、それから何時間も経っているが、未だに見つかっていない。考えたくはないが、警察によると堕人に襲われた可能性が高いとのことだ。この件が解決して落ち着きを取り戻すまで、放課後の部活動は中止。帰りもなるべく一人で帰らないこと。一人で帰るにしても人気のないところは通らないことだ」


 先生の話を呆然と聞く者、動揺を隠せない者がいる。それもそうだ。昨日まで元気だった人気者の女の子が、翌日には、この世に存在しているか分からないのだから。


 木下愛華きにしたまなかという少女は、スタイルがよく金髪の髪がとても印象的で端整な顔立ちだった。自分とは違う感じがしてあまり話したことはないため、どんな子かは詳しく分からないが、率直に綺麗だなと思った。


「皆、動揺することも分かるが、この世界に生きる者として危機感を持ってもらいたい。私たち人間は、無力で、堕人になど到底太刀打ちできないが、一つ意識を変えることで危険から回避はできる。守られる側にできることはそんぐらいで、後はただ、天使様に救いを願うことだけだ」


――――――


 鐘の音は昼休みの合図を示していた。午前中の授業は、皆、上の空で誰も身に入っていないようだった。それは零も同じで、悪い想像ばかりを繰り返していた。明確には覚えていないし、けどどうしても悪い結論に辿り着いてしまう。昨日遭遇した堕人が捕食していた人間は、木下さんなのではないか? 何度もあの光景を思い返すが、どうしても印象的に残っているのは、金ではなく赤で形作られた女人形の髪で、本人かどうかは確信が持てない。


 うっ、気持ちが悪くて前かがみになる。昼食中に思い出そうとしたのが間違いだった。今食べた固形物が、胃液とともに逆流してくる感覚に襲われ、外に出すまいと涙目になりながら吐き気を食い止める。隣で食べていた凪が、零の容態に気づいて心配の声を掛ける。


「大丈夫? 空気を吸って吐いて。落ち着いて。無理もないよ。きっと皆も、同情から恐怖に変わったんだよ。次の被害に遭うのが自分かもって」

「凪は、怖くないの?」

「怖いけど、仕方ないって受け止めるしかないし……。それに死に遭うのも一つの運命なんだって。幸運な人がいるから不幸な人もいるんだって」

「……うん」


 凪の考えは、深く考え込まず、ありのままを受け入れろと言うことなのだろうか。それは遠回しに、他人のことばかりに悲しんでいたらキリがないし、生きることに疲れてしまうと言っているようにも聞こえた。けれど零は、それこそが人間の特権なのではないかと考える。だって他人の思いに同情できるから人は優しくなれるし、強くなれると思うから。


 午後の授業も活気がなく、今日の時間割は静かに終わりを迎えた。


 午後三時。下校の時刻になった。昇降口から出ると、鋭く刺さる熱波が零と凪を迎えていた。地上では昨日と今日で、堕人に巻き込まれて大変なのに、上空にいる太陽は至って平然である。


「今日は暑いな」

「そうだね」


 二人は、羽織を鞄にしまい、二列になるだけで会話する気は全くない。話す気力を奪われた零は、目の前の景色だけをぼんやり見て歩く。辺りには警察らしき人間が住民に話を伺っていた。きっと木下さんの件だろう。こんな暑いのにスーツ姿とはなんて大変な仕事なんだろうと思っていると、商店街が見え始めた。そこで凪と別れる。


「堕人のこともあるから、凪、気を付けて」

「心配症だね、零は。大丈夫だよ。こんな明るいし、警察も巡回してる」


 凪の家は、市街地から離れた坂の上にある。何の用事もなければ通らない道は、まさしくこの先に家がある人達専用の道である。凪にさよならの挨拶を言い、市街地に入った零は、数百メートル歩いたところで立ち止まった。そこは昨日、あの音に誘われた路地裏の空間に続く通路であった。


(そういえばあの場所はどうなったんだろう? あのままの状態なのかな。でも、警察が捜索しているのに騒ぎになっていないなんて)


 零は、おかしいと感じたが、昨日のこともあってどうしようか思い悩む。帰ろうと脚を一歩前に踏み出すが、鬱々とした気持ちが芽生えてしまった以上、これを持ち帰ったところで解決はされない。ならいっそのこと自分の目で確かめに行くことにした。疑念を勇気に変え、昨日遭った現場に向かう。網目状になった路地裏を掻き分けて、あの場所へと。


 ――三時過ぎだというのにこの道に入るとまるで真夜中に迷い込んだようである。奥へと進むにつれて心臓の鼓動が激しくうねる。これが、不安と恐怖から来ることは、零が一番自覚している。一度強い衝撃を受けた者に残る記憶は、その場で見た最も印象的なものに固執され、身体はその時の感覚をずっと覚えている。しかし、歩いてもあの場所に辿り着けない。


(あれ? 確かこの道のはずなのに。暗くて道を間違えたのか――)


 引き返そうと背後を向くと目にあったのは、闇をかき消すかのように振るわれた一筋の刃であった。


「っ!」


 上体をずらし、肩を斬り裂く軌道を間一髪躱した。攻撃してきた張本人の靡く髪は、一髪も重力に逆らうことなく元に戻り垂れ下がる。戸惑う零に、袴姿の女性は、容赦なく剱を振りかざす。一連の攻撃を必死になって躱し、斜めの一文字を転げながら避けたところで剱を突き付けられた。

 

「貴方、なんで天使の魂を持っているの?」


 その闇に同化した背中まで垂れた黒髪女性は、キリっとした大人らしい顔つきで、剱の先端を首に押し付け、鋭い目と声で問いかける。鋭利な武器を目の前に戸惑う。剱を用いた間接的な尋問が怖くて、必死に弁解する。


「え? いや? その、私は、朱雀さんに助けられただけで」


 思いもよらない返答に大人びた少女は、眉間に皺をよせ、苛立ちの声に疑念が加えられた。


「何故その名前を。とぼけないで。貴方、堕人それとも人間?」


 その質問に対して戸惑う。何とかして誤解を解きたいのは山々なのだが、昨日と今日で零の身体は、自信を持って人間であるとは言い難い状態だ。一部を除けば人間でもあるし、含めれば天使とも呼べる。だが、零は天使としての自覚を持ち合わせていなかった。特段、人間と異なるところもなければ、自分は自分という人間である己の部分が強いからだ。それでも、いや、そんなあやふやな状態だからこそ零は言った。


「……私は、人間です」

「じゃあ、どうして天使の匂いが貴方から漂うの? 堕人である貴方が殺したのではなくて?」


 剱が皮に食い込む。誤解の払拭に失敗した零は、どうにかして間を繋ぎ、昨日あった出来事を正直に話した。


「本当なんです。朱雀さんは瀕死になった私を救うために身代わりになったんですっ。嘘じゃないですっ、信じてください!」 


 そう強く断言した零に顔を近づけた女性は、自分が納得するまで零の顔を見つめ続けた。

 女剣士の険しい表情は解消されていき、向けられた刃は次第に造形を失っていった。


「人間の命を守るとはいえ自身の命を犠牲にするなんて、何て子なのかしら」

「でも私は朱雀さんと約束しました。天使の代わりになるって」

「代わり? 人間だった貴方が天使の力を使いこなせるの? 堕人を目の前にして臆することなく戦えるの?」

「それは……分かりません。けれど、やりもしないで諦めたくない」

「そう。天使に課せられた役目がどんなものか、自分で実感しないとわからないのなら仕方ないわね」


 女性の口調は相変わらず鋭く、その口調に合う否定されたような言葉の羅列は、遠回しの是認にも受け取れた。


「あの、あなたの名前は?」

神島風月かみしまふうげつ、風吹町の大天使だわ」

「私は、陽ノ原零です」

「それじゃあ、陽ノ原さん、貴方の使命感がどれ程のものなのか、私が確かめてあげるわ」

「確かめる?」

「戦う意思の証である天の剱を具現化できるかどうか。貴方が堕人でないことを証明するにはそれに限るわ。できなければ貴方は堕人として殺さなくてはならない」

「そんな。私、堕人なんかじゃないです。信じてくれたんじゃないんですか?」

「くどいわね。貴方の瞳に免じて見逃してあげているのに。それにさっきの強気な発言を撤回するのかしら。剱を具現化できないのに堕人を倒すなんて、そんな大それたことできるの? そもそも人間が天使の体、ましてや宝珠ほうじゅまで受け持っているなんて処罰対象なのだから」


 そして神島は、零に向けて断言する。


「これから私との修行が終わるまでに、貴方が具現化できるかどうかで処罰の有無を判断する。早速明日、この市街地で落ち合いましょう」


 そう告げると黒い髪を靡かせながら路地裏の出口へと消えていった。


――――――


 夜になった。帰宅した零は、昨日出遭ったあの場所に行くという昼間の目的などとうに忘れていて、神島に課されたお題に苦悩していた。


(剱の具現化なんて一体どうすれば。でも私には、選択肢が一つしかない。認めてもらうには何が何でも成功させないと!)


――――――


(夏の名残がある秋は、夜になっても暑いものだわ。吹く風は、涼しさより生温さをもたらしてくる。だからこのなんとも呼べない季節は嫌いだわ。もう秋だと言うのになんて図々しい。あの時もこんな曖昧な季節だった。この纏わりつく生温さも非常によく似ている。きっとあの時守れなかった自分への罰なのだろう)


 神島は、誰もいない学校の屋上で誰かと話をする。


「主天使様、行方不明の守護天使、朱雀の所在が判明いたしました。堕人との戦闘で巻き込まれた少女を救うため、自らの肉体を身代わりに消滅したそうです」


 神島の報告に主天使様と呼ばれる者は、中性的な声で受け答えをする。


「……そうですか。その少女はどうなりましたか?」

「体に支障はないようですが、その子は朱雀に代わって自分が役目を果たすと言っております。しかし、私としては堕人である可能性もあり得ると思われます。どうなさいますか?」  

「そうですね……その子は剱を具現化できます?」

「情報が少ない以上、決め手に欠けると思いましたので、可能かどうか私の独断で試練を与えました」

「そうですか」

「しかし、仮に具現化を成功し、堕人ではないと分かったところで、あの子は元々私たちとは違って人間であります。守る側ではなく守られる側なのです。私は――」

「貴方の気持ちもわかりますが、それは貴方も似てはいませんか? 私は当人の意見を最優先に尊重し、覚悟と実力が見合っているかどうか見定めてから決めます」

「……承知いたしました」


 テレパシーはそこで途切れ、神島は町全体を眺めていた。屋上から見える景色を俯瞰しながら考えに浸る。


(きっと、昼間出会った零という子は堕人ではないでしょう。なら住民を脅かしている堕人は、一体何処にいるのかしら。他の被害者が出る前に早く討伐しなくてはならないわね)


 神島は、十数年とこの町を守ってきたが、堕人を見つけられないことに違和感を抱いていた。

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