第2話 非凡へようこそ2
「見ぃつぅけぇまぁしぃたぁ~」
その声は、かくれんぼで遊んでいた我が子を、父親が見つけた時に発するおちゃらけた声に近かった。
「あっ」
それに反応した子どもは、きっと歯を見せて笑うのだろう。だが、出た声は声とも呼べない短い走馬灯で、たったそれだけで動くこともできなかった。瞬時に触手が右脚に絡みついてきてそのまま引きずられる。
「放せっ。嫌ぁーーーーーー。誰か、誰かっ、助けてっ」
「今日は、ついてるな。向こうから餌がやってくるとは」
必死に小さな十本の爪でアスファルトの窪みにしがみつき抵抗する。だが堕人にとってそれは何の抵抗にもならなかった。触手は簡単に零を上空に持ち上げ、宙吊りにしながら自身の口元に運ぶ。
「ぐあ~」
堕人は、零の身体よりも大きな口を開けてまだかまだかとその時を待ち望んでいるようだった。唾液に満ちた舌と喰われた彼女の血肉が挟まった歯が見える。
(こんなことなら、いつもと変わらない平凡な日々を、大事にするべきだった。私がいなくなったら残された人はどう思うのかな。母さんは、一人になる。あの日以来、帰ってこない父さんをずっと待っているのに、私までいなくなったらきっと心が壊れてしまう)
あ、壊される。
絡みついた触手が脚を放し、餌を待つ口の上に、零の心情とは無関係にあっけなく落された。
「誰か、助けてぇぇぇ」
叫ぶほかなかった。堕人は、舌を出し、落下してくる自分を待っている。次に瞼を閉じたら、舌は頭から絡みついて血の気に満ちた口へと持って行き、あの少女みたく喰い尽くすのだろう。
(ああ、この命、こんな奴に奪われるくらいなら、誰かのために残りの灯火を燃やし尽くしていたい)
ただ強く、そう願った。その願いは、上空を舞う者に届いたのだろう。白き者は、願いを拾い上げるかのように軽やかな動きで、救い出した。
「もう大丈夫」
「はあ、はあ、はあ」
放心状態の零に優しく声を掛けた者は、腰まで伸びた白髪が印象的な小さな少女であった。そんな少女は、堕人に目線を移すと、蔑みの言葉を発する。
「そんな化け物になってまでそんなに食べたい? そんなにおいしいものなの? 人間って?」
一つひとつの触手の先端から口が現れ、様々な声音で返答する。
「ええ、そうとも」
高音で若い女性のような声。
「特に、程よく肉のついた女の太ももは、この上なく美味である」
渋くてかすれた男性のような声。
「ふーん、きもい」
少女はそれらをキモイという一言で片づける。
「餌でしかない人間になめられたものだ。結局、お前らは喰われる運命にあるのに、雑種どもが」
そして、セリフに合わない元気な子どものような声。
「へー、私のこと知らないんだ」
堕人の言動から自身の存在を知らないと察した少女の唇は、笑みの形を作る。
「あん?」
その瞬間、堕人は四本の脚で勢いよく地面を蹴り上げ、少女に襲いかかった。頭から生えている無数の触手は、剣に変形し、無作為に振りかざす。その剣先が少女の首にかかるところで、スルッと後方へと躱す。次々と切り裂いてくる剣を、羽が生えた蝶のように軽やかに躱していく。
「なぜだ。当たらない。どうなってやがる」
堕人に動揺の心が生まれると否や、躱しながら間合いを詰めた少女は、左腕から瞬時に剣を出現させた。
「君の
左腕に具現化させた剱は、白い髪のごとく艶のある白銀の日本刀で、自身の髪のように長い刃長は、少女の図体には合っていなかった。だが、突発的で突拍子のない剱捌きは、前方の左脚をスパッと水分の詰まった果実同等、容易に切り落とす。
「ぐぎやあああああああああーーー」
堕人は痛烈な痛みに悲鳴を上げる。
「その様子だと初めて痛みを知ったって感じだね。だってこれは、特別性だもん」
「くそが、なめやがって、喰い殺してやるっ」
さらに数本の触手を剣状に変形させ攻撃の手数を増やす。
「ふん、単純過ぎる。数を増やしたところで変わらないよ。君はこの剱で十分さ」
それを見た少女は鼻で笑い、一蹴する。まるで肩慣らしを終えたかのように、少女は先ほどよりも俊敏な動きで攻撃を避け、剱で触手を切り落としながら再び距離を詰めに行く。
目にもとまらない剱捌き。剣と剱がぶつかり合うたびに鳴り響く金属音に近い異質な反響音。その様子を見ていた零は、これが現実なのか夢なのか頭が錯乱していて冷静な判断もままならない。ただ怖くて何も見たくないから目を閉じた。それにしても現実味がない。殺気に溢れた空気が零の体を縛り付けてくる。今この場から逃げ出したいと、焦る気持ちを押さえつけるように必死に心を落ち着かせる。だが、不安が消し去ることはない。
(もし、今戦っている子が倒されたら私も喰われる。あんな小さな子が堕人に勝てるの?)
零の心情とは裏腹に、堕人の触手はズタズタに切り落され、修復が間に合わないぐらい疲弊しきっていた。
「お前一体、何者だ?」
堕人は、真っ白な髪に返り血を浴びた少女に、弱弱しい声で尋ねる。
「これから死ぬ君に、特別、教えてあげる。私はね、人から救済の天使と崇められた者、故に人間を守るために堕人を狩る者。それじゃあ、さよならー」
剱を縦に構え、頭部を狙う。しかし、堕人は、執念深く諦めない。
「ぐあぎ、ぎ、ぎ」
振るった剱先を間一髪、額を掠めながら躱し、残った脚力を振り絞り、三足歩行で逃亡を図ろうとする。斬られてなくなった前方左足は、落とした拍子で折れた紅いチョークのようで、アスファルトに擦りながら血の絵を描く。そんなこととは知らず、酷く怯えて蹲っていた零は、自分の方向に近づく堕人に気づかない。
「君、逃げ―――」
天使は声を張り上げるが……。
「えっ」
状況が呑み込めない零の身体は、鉛のように重くなり思い通りに動かせない。顔を上げた時にはもう遅く、化け物の頭から出た鋭く細い剣先は左目を掠め、迸る鮮血とともに訪れる痛烈な痛み。突然、視界の半分を失った零に容赦なくその剣は左肩を切り落とす。
剣は、そのまま心臓近くまで入り込み、ゴミのように投げ飛ばされた。軽い身体は地面とバウンドを繰り返し、その反動で腹部からは臓器がこぼれだす。リズミカルに転がっていく身体は次第に失速し、ゴミと化した零は、うつ伏せの体勢のまま身体をびくつかせた。身体に溜め込んだ紅い絵具で体中は血まみれになり、うっ、うっ、はあ、はあ、と吐息混じりのどうにもならない声を漏らす。
身体の痺れは彼女を拘束し、身体の悪寒は彼女に不快感を与え、身体の眩暈は彼女に浮遊感を与える。何本にも枝分かれした人工の川は、温かい血の源泉となった零本人が作り出したもので、零は血がカラになっていく淋しい感覚があった。
「早く、傷を。傷を癒さなければ……」
重症を負っているのは堕人も同様で、傷を癒すために勢いよく捕食にかかる。その光景を天使はただただ傍観するだけだった。
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