第1話 非凡へようこそ1

 九月十九日六時、早朝。


(はぁ~、眠い)


 重い瞼を手でこすりながらおぼつかない足取りで階段を降りる。こんな時は顔を洗うのが一番だ、と毎回起きる時に思うのは自分が朝に弱い人間だからだろうか? 洗面台から流れる冷たい水を両手で掬う。いくぞっと少し躊躇いながらも勢いよく睡魔でほんわかした寝ぼけ眼にぶつけ、完全に夢から覚めた。


(ひどい、寝ぐせ)


 ぽたりぽたりと頬を伝う雫をタオルで少しばかり乱暴に拭うと、鏡にはいつもの自分が映った。肩まで垂れた茶髪の毛先は、自分でも理解できないぐらいの方向にはね、顔立ちは男の子と言われても仕方ないなと自分でもつくづく思う。


(あ、もうこんな時間。早く、支度しよう)


 居間に置いてあった朝食を素早く食べ終わると着替えの準備をしに二階の自室で制服に着替える。学校指定の制服は、浴衣に似ていて上半身は赤、青、黄色の三色が散りばめられ、下半身の着丈は紺色のスカートになっている。肌寒いだろうと椅子にかかった黒の羽織を羽織り、いざ、学校へ。先ほどとは打って変わって確かな足取りで階段を降り、袂を揺らしながら元気な挨拶をして家を飛び出す。


「母さん、行ってきますっ」


 先に仕事へ向かった母は、当然挨拶を返してくれないが、これもまた当たり前の朝だ。勢いよく住宅街を走り、向かう先は、小中高の一貫校。それは、人工物が密集した市街地の先にある。


 はあ、はあ、はあ、はあ。膝に手を乗せ息を上げる。少し立ち止まり呼吸を整えた少女は、木造の家屋や商業施設が軒を連ねる市街地をゆっくり歩いていく。人工物が多くを占める市街地は次第へと色を変え、野草地の割合が高くなる。そんな通学路の途中で凪と会い「おはよー、凪」「おはよう、零」と挨拶を交わし、お喋りをしながら登校する。


 梅雨野凪つゆのなぎは、小学生からの幼馴染で、毎日こうして登下校は一緒に肩を並べておしゃべりをする親友だ。特に澄んだ黒い目に自分より少し長い青髪は、その物静かな性格によく合っている。それでも、話をするときに崩す無邪気な表情は、零だけが知っている。今日もたわいのない話をして、家から学校までの数十分は二人だけの空間になる。ごく普通の変わらない登校風景だ。


――――――


 朝のHRの鐘が年季の入った三階建ての木造建築に鳴り響く。『風吹町ふうすいちょう』の子ども達が集まる場所は、此処一か所に限られ、零と凪が在籍する一年のクラスは、小、中、高、関係なく一階。そして、二年は二階、三年は三階となっている。


 昇降口で上履きに履き替え、「中等部一年」という教室札が飾られた小さな木箱の世界で、零はそこに暮らす一人の住民となる。今日も時間割通りの授業を後ろの窓際の席で受け、時に身体を動かし、友達と話をする、そんな一日だろう。机に突っ伏し、窓の外を眺めながらふとそう思った。


(退屈だな、いつも同じ毎日)


 授業の内容はそっちのけで、陽の温かさにぼんやりしていると、いつの間にか放課後になっていた。同級生たちはというと帰宅の準備や部活動の支度に追われているようだった。


(はあー。帰ったら、今日も畑仕事か)


「零、今日、用事あるから先帰っていていいよ」


 零が憂鬱な思いに駆られていると、凪が声を掛けてくる。


「わかった、バイバイ、凪」

「うん、また明日、零」


 凪が用事とは珍しい。とりわけ部活に所属していない零も家に帰れば畑仕事が待っている。どこで道草を食って時間を稼ごうとも、畑仕事の当番は自分だけであり、結局やる時間が遅れるだけである。潔く教室の扉を開き、いつもは二人で帰る道を一人で帰ることにした。


(一人で帰るのってなんだか久しぶり、こういうのもたまにはいいな)


 当たり前の日常にうんざりしていた零にとっては、こんな些細な違いでも心が高ぶる感覚があった。普段は、お喋りをして帰る帰宅路を、観察するかのように首をキョロキョロ動かす。


 何気ない光景に目を凝らすと、当たり前にある街中には、初めて見る景色が浮かび上がっていた。


(何だろう? 何か音が聞こえる)


 ただいつもと変わらない賑やかな街中に、聞いたことのない音を零の耳は拾い上げた。周りの人はというと、話に夢中だったり、買い物に意識を向けているからだろうか、誰もこの音を気にする者はいなかった。それとも自分にしか聞こえないのか。音のする方へと歩み寄る。


(向こうの街角からだ)


 音の根源を捉える。次第に足取りは早くなり、路地裏の角を曲がる。


(近づいている。音が鮮明になってきた)


 音を頼りに狭くて暗い通路を歩いていると、雑音じみた音は何かの咀嚼音に変わっていた。好奇心に駆られた零は、そのまま奥へ奥へと歩み寄り、ようやく発生源に辿り着く。


(誰かいるのかな?)


 恐る恐る物陰から確認する。


「っ!」


 その光景を見て息を止める。明らかに見てはいけないものだった。


 目に映った先には、自分と変わらないぐらいの年頃の女の子が、天敵として恐れられている堕人に喰われている光景であった。一瞬にして非現実に呑み込まれる。巨大な四肢を持った四足歩行の堕人は、一言で表せば誰もが化け物だと叫ぶだろう。自分より何倍も大きい身体に、人間のような頭部からは何やら触手らしきものが無数に生えている。その触手の先端からは目玉が飛び出し、目玉一つ一つに意思があるように周りをキョロキョロ見渡している。


 零は胸の鼓動が早まるのを抑えられず、その場に座り込む。


(な、なんでこんなところに堕人がいるの? だって、今日は何も変わらず、平和な一日だったはずなのに。は、早く逃げないと)


  しかし、自分の意志とは正反対に身体が勝手に震えだし、言うことを利かない。初めて見る堕人に衝撃を隠せずに動揺していると、近くに転がっていた缶に足が当たる。カランっと甲高い音は、まるで自分の居場所を知らせているようだった。ぶわっと開いた全身の毛穴から汗が滲み出る。


(どうして、こんなところにっ)


 不幸にもその音に一つの目玉が反応すると、次々と他の目玉も音の鳴った場所を凝視する。


「もう一匹、迷い込んだ羊がいるみたいだな」


  堕人は低音で嬉しそうな声を零し、その声を聞いた零の身体は、より一層硬直し、動けなくなる。


「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」


 息を押し殺すために手で口元を押えて、その場を凌ぐ。震える右手に左手を添えて恐怖を和らげようとするが、恐怖は左手にも伝染し、震えは治まることを知らない。一方、堕人は触手を伸ばして至る場所を捜索していた。不幸中の幸い凹んでいた缶は、転がることはなく居場所の特定には至らなかった。


 だが、化け物は音のした方へゆっくりと触手を移しながら、着々とその距離を狭めていた。その距離は、ついに壁一枚のたった数センチとなる。


「はあ、ハア、はあ、ハア、はあ、ハア」


 零の焦りと堕人の食気の息遣いが交錯する。零は必死に口を押えてその場を乗り切ろうとするが、彼女の願い空しく壁から覗いた一つの目玉に発見されてしまった。

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