5,桜並木の下で

 7時51分、悠生は未来を車椅子に乗せて駅を出た。


 鉄粉が付着し雨水で濡れてしまった未来のスーツは濡らしたタオルで叩きドライヤーで乾かしたが、残念ながら汚れは殆ど落ちず、袖は黄土色のままだ。


 悠生は線路上で未来を背負ったときからずっと、セクハラで訴えられないか不安だが、未来はそれについて特に触れてこないので、少し安堵感を覚え始めていた。


 桜がちらほら咲き始めたオフィス街の並木道を、車椅子を押しながらゆっくり歩く。雨は止み、雲の隙間から光が差して心地良い。


 骨折した可能性のある未来には悪いと思っているが、悠生にとっては駅に閉じ籠っているより春の到来を感じられて悪くない。むしろ良い気分だ。


 ふたりは何人に追い抜かれたのだろう。通勤時間帯のピークとあり、スーツ姿の急ぎ足が目立つ。


 未来の勤務先であるブライダル企業、『ルゥルーコーポレーション』は遅刻を承諾してくれたが、実際のところどうなのか。入社初日だし 、減給されたり解雇されたり、社内での風当たりが強くならないか、悠生はそちらの心配もしている。


「あの、色々ご迷惑をおかけしてすみませんでした。病院連れて行ってもらったり、電車止めちゃったり」


「いえいえ、お客さまが悪い訳じゃないですし、助役の松田も申しておりましたが、触車事故に至らず何よりです。僕の方こそ本当は担架で救出すべきなのに、否応なしのような雰囲気醸し出して背負ってしまい申し訳ございません」


 小さな肩をすくめる未来に、悠生は少し穏やかな顔をつくって本音を告げた。


「いえそんな! とんでもないです! 助けてくれて本当にありがとうございます!」


「ははっ、そうおっしゃっていただけるなら幸いです」


 未来の言葉を聞いて悠生の力はふっと抜け、肩の荷を一つ降ろせた。


 僕が病院に連れて行ったために勤務先で色々なければ良いが、それだけは本当に心配だ。脚の具合も心配だが、仕事の心配は解けないままだ。


「こんなに親切にしてくださって、本当にありがとうございます。今度何かお礼しなきゃですね」


「いえいえ、本当にお気遣いなく」


「もしかして、会社のほうでお客さんから品を受け取らないように言われてるんですか?」


「いえ、そういうわけではございませんが、お客さまからお品ものを頂戴した経験がないもので、恐れながらお受け取り致しかねる可能性がございます」


 都会は危ない人が多いから、こうやって人との距離を取るのかな。駅員さんも地元の駅とは違って妙にかしこまっている。さっきの助役さんみたいな感じがいいんだけどな。私みたいな世間知らず、全然警戒する必要ないのに、なんか可笑おかしい。


 悠生のビジネスライクな口調に、未来は思わず笑みをこぼす。悠生はなぜ笑われたのか理解しかねたが、黙って車椅子を押し続ける。


「私、田舎者なので、つい人に物をあげたくなっちゃうんです」


「失礼ですが、どちらのご出身で?」


仙台せんだいです。宮城県の。こっちは桜咲くの、早いんですね」


 仙台はあまり田舎という気のしない悠生だが、よく思い浮かべれば都会の喧騒のみでなく、海も高原もあるとても広い都市だ。


「そうですね。こちらは卒業シーズンか年度が替わる頃に満開になります」


「そうなんですか。春が早く来るのはちょっと嬉しいかも。


 桜ってすごく素敵ですよね。春はこうしてほがらかな花をめいっぱい咲かせて楽しませてくれたり、新しい生活を始める人の背中を押してくれる。一週間経ったら、まるでもう私のエールがなくても大丈夫だよねと言わんばかりに花を散らすけど、それでも緑のカーテンになって夏の暑いときも優しく包み込んでくれる。少し冷え込む秋には葉を紅くして、心に鮮やかな火を灯してくれる。冬になったら葉を散らして、私たちは落ち葉で焚き火をして、みんな集まって焼き芋したり暖を取ったりして、寒くて寂しい気持ちになりがちな心に温もりをくれる。でも優しいだけじゃなくて、その間に樹液を懸命に貯めて、春になったらまた花を咲かせて、寒い冬の間よくがんばったね、また一年がんばろうね、私がずっと見守ってるからねって、いつも応援してくれる、まるでお母さんみたいな木なんだなって」


 悠生は未来の言葉に絶句した。桜といえば出会いや別れの象徴だったり、心穏やかにしてくれるという印象はあったが、そこまで深くは考えていなかった。


「あっ、あの、私、もしかして何か変なこと言っちゃいましたか!?」


「あぁいえいえ! とても素敵な感性をお持ちだと思いまして、絶句してしまいました」


「そんな、素敵だなんて、ただ思ったことを言ったまでですし、よく考えたら都会の人は焚き火なんて滅多にしないだろうから、私ってやっぱり田舎者なんだなって」


「いいじゃないですか田舎。僕は憧れますよ」


「ふふっ、良かったら今度、仙台にお越しください。あ、ちょっと止まってもらえませんか」


 はい、と返事をして、悠生は車椅子を止める。右横には自販機があり、未来は555ミリリットル入りの天然水を購入した。


「はい、せめてものお礼です。これなら安心して受け取っていただけますよね?」


 未来は純真無垢な笑みを浮かべながら身体を捻り、悠生が着用している駅社員用ブレザーのポケットにペットボトルを差し込んだ。


「あ、すみません! ありがとうございます! ちょうど喉が渇いていたのでありがたく頂戴いたします!」


 駅の仕事は長時間立ったままであるうえに、案内放送などで喋り続けなければならないためとても喉が渇き、口がベタつく。そんなときの水はオアシスのようで、本当にありがたいのだ。


「ふふっ、良かった」


 駅員さんの素顔がちょっと見えた気がして。正直なところ、都会の人への恐怖心が拭えず、駅員さんの畏まった口調は不安を煽っていたけど、この人はきっといい人だ。砂漠と言われる都会で最初に出会った人は、とても親切な人だった。

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