4,未来を乗せて
悲鳴の直後、足音と構内放送しか聞こえなかったホームがざわめき始めた。
ホーム前方へ振り返ると、悠生の責任範囲内である数メートル先の線路上に若い女性が倒れている。悠生は反射的にホームの支柱に取り付けられた非常停止ボタンを押し、周囲の列車を全て緊急停止させる手配を取った。ここまで15秒かかった。人混みの中で素早く動けず、混雑と自分の機敏性のなさに少々苛立った。この付近の列車は15秒で約200メートル進む。それだけ事故のリスクを高めてしまったのと、転落者にとってはこの時間が悠久の時と感じられ、大層恐怖を煽っただろうと思うと申し訳ない。
あぁ、また予知してしまった。
「業務放送、上り9号車付近、お客さまが線路に転落です」
悠生の放送と響き渡るブザーの音が駅全体を緊迫感で支配し、他の係員たちが集まってくる。悠生は人混みの中、失礼します! と声を上げながら女性を救出すべく、ホーム前方へ急いだ。
彼女に意識はあるようで、すぐに立ち上がろうとしたが、脚を挫いたのか、なかなか上手くいかない。
「右ヨシ、左ヨシ、足元ヨシ」
非常停止装置を扱うと付近の列車は全て停止するシステムになっているが、念のため左右と足元を確認し、このような場合のために設けられている転落者がホームへ這い上がるためのステップを伝って線路に降りた。
「大丈夫ですか!?」
「はい。すみません。脚を挫いてしまって立ち上がれないんです」
萎縮しながら詫びるあどけなさが残るショートヘアの女性。明るいグレーのスーツ姿に初々しさを感じる。きっと新社会人で、転落時にハイヒールでの着地に失敗して身動きが取れなくなったのだろう。例え着地に成功しても 、
スーツの袖にはレールにこびり付いた赤茶色の鉄粉が付着している。雨のため余計に汚れているうえ、尻餅を突いたスカートはびしょ濡れになってしまっただろう 。
「わかりました。ではよろしければ、僕の背中に負ぶさっていただけますでしょうか」
「はい。ありがとうございます」
女性はお辞儀とお礼をしてから、負ぶさりやすいようにしゃがんだ悠生の両肩に華奢な腕を回した。
「お~い! 大丈夫か!?」
気さくで下ネタとオヤジギャグが大好きな御年50歳、助役の松田がホーム上から声をかけた。
「大丈夫です! 今そっち上がります!」
悠生は女性を背負って、甘く爽やかなシャンプーの香りと、柔らかい胸の感触に少し緊張しつつ 、ホームへと上がった。
松田さんと一緒に担架で運べば良かったな。マニュアル的にも社会的にも。
悠生は平常心を取り戻すに連れ、彼女にセクハラ扱いされるのではないかと警戒し始めた。
本来、線路に転落して身動きが取れなくなった人を救出する際は担架を使用するが、悠生は女性の体型を見て、この人なら軽そうなうえ、長い間電車を止めたくなく、一瞬躊躇いはしたものの、えい助けちゃえ! と勢いで線路に降りてしまった。厳しい上司に発覚したら一喝されるかもしれない。
「お客さんも大丈夫?」
「はい。すみませんでした」
女性は悠生の背中に負ぶさったまま詫び、柔らかい髪の毛の感触、シャンプーの甘い匂い、吐息それぞれが悠生をくすぐった。
「いやいや、電車に轢かれなくて良かったよ。線路にお客さんの荷物が落ちてないか確認するから 、この兄ちゃんと一緒に待っててくれる?」
はい、と彼女が小声で言うのを聞いて、松田さんと他三名の係員が線路に降りて女性の荷物や他の落下物がないか、架線に付着物がないか確認し、10分ほどで順次運転を再開した。
それから、転落した
未来はウェディング関係の会社に勤める22歳の新入社員だという。
悠生が未来にホームから転落した理由を尋ねると、階段付近で目の前を横切った中年女性の引くキャリーカートに躓いた拍子にバランスを崩して転落。当人は転落して線路上に倒れ込んだ未来をチラッと見て、そのまま去ったという。
相当以前から駅構内や人混みでのキャリーカートによる事故が後を絶たない。キャリーカートの高さはちょうど視界に入りにくいのだ。鉄道会社では安全のため、キャリーカートを使用する際は周囲へ十二分の配慮をするよう呼びかけている。
7時50分、悠生は制服姿のまま駅で保有している車椅子に未来を乗せて、8時から診察開始となる近所の総合病院へ向かう運びとなった。応急処置と、骨折の有無を確認するためレントゲンを撮ってもらうのだ。
怪我人の未来に対して不謹慎だが、悠生は勤務中に職場から解放されるイレギュラーなイベントが嫌いではない。だが今回はいつセクハラで訴えられるかハラハラしながら、折り畳み式の車椅子をセッティングして出掛ける準備を整えた。
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