6,駅員になりたかった理由
「すみません。お待たせしました」
「いえいえ。それより大丈夫ですか。その格好」
「はい。
8時30分、衣笠さんは松葉杖を突いて診察室から出てきた。右足の踵から
「そうでしたか。この格好で、お仕事は大丈夫でしょうか」
「一週間の辛抱です。頑張ります!」
少し苦い顔をしながらも、笑顔で前向きな姿勢の衣笠さんに、僕は少し胸が高鳴った。
僕はこのまま車椅子を押して衣笠さんを勤務先まで送ることにした。病院から5分ほどの所にある、港に近いお洒落なオフィス街の一角にあるガラス張りの建物だそうだ。外からウエディングドレスが見えるらしい。
「駅員さんは、どうして駅員さんになったんですか」
再び並木道を辿って勤務先へ向かう途中、衣笠さんに尋ねられた。
「そうですね~。端的に言うと、世の中を少しでも優しくしたいんです。たくさんの人が利用する駅で、お客さまにやさしく接したり、設備を改良したり、それだけじゃなくて、色彩効果についてとか心理学を勉強して、心穏やかになれる空間を創りたいんです。うちの会社は鉄道会社の中では営業エリアが広いほうですから、取り組みを水平展開すれば、より多くの人が穏やかになったり、やさしくなれるんじゃないかなって。具体的にどうするかなんてことは、予算の都合とか色々考えなきゃいけないので難しいんですけど」
昨今、に限ったことかは知らないが、世の人々はあまりにも身勝手で、思いやりに欠けていないだろうか。自分さえ良ければ良いという風潮が、この国には漂っている。
例えば駅の階段は上り階段と下り階段で区分されているが、特に電車が到着したばかりで降車客により混雑しているときは、通行区分を無視する人々が通路を塞いでしまい、これから電車に乗ろうとする人が乗り遅れてしまう場合が多い。これは他者への配慮の欠如が顕著になる例だ。対策は注意書き程度に留まっている現状であり、あまり効果はないので、もっと効果を発揮できる案を考えたい。
「優しく?」
衣笠さんは首を左へくるりと回し、不思議そうに僕を見上げたので、例としてその階段についての話をした。
衣笠さんは前へ向き直り、再び口を開く。
「確かにそうですね。私もそれが原因でよく電車に乗り遅れます。でも、世の中にはやさしい人もいっぱい居るんですよ」
衣笠さんは言い終えて、再び首を左へくるりと回し、穏やかな笑顔で僕を見上げた。
そんな風に思えたらいいんですけどねと返そうと思った僕だが、見上げられて言葉が胸に詰まった。
「ホンモクさん、でよろしいですか」
衣笠さんは左の胸ポケットに着用している僕の氏名札を確認したようだ。
「はい、そういえば自己紹介していませんでしたね。
僕が自己紹介をすると、衣笠さんはにこっと微笑んで再び前へ向き直った。
「本牧、ユウキさん。本牧さんも、やさしい人です」
うわぁ、そんなこと言われたら、照れてしまってどうすればいいかわからない。女性との交際経験や風俗店の利用歴がないわけではないが、これまで出会ってきた女性からの褒め言葉とは何かが異なり、胸にギュッとくるものがある。「いえいえ、そんな」と返すのが精一杯だった。
「だって、病院だけじゃなくて職場まで付き添ってくれるなんて」
「いや、それは仕事ですので」
仕事ですのでなんて、感じ悪いな僕。
「それでも嫌な顔ひとつしないで、車椅子の押し方だって丁寧だし、何より、こうやって会話すればわかっちゃうんです。駅の仕事を志望した理由だって、人柄が滲み出てるじゃないですか。なにより、線路に落ちた私を助けてくれときの一生懸命さがひしひしと伝わってきました」
今まで、親を含めて僕をこんなに褒めてくれた人はいない。未曾有の体験に、僕はどうすれば良いかわからなくなり混乱した。
「ありがとうございます。僕なんかをこんなに褒めてくれて」
「なんかなんてこと、ないですよ」
「ははっ、ありがとうございます」
どうにか搾り出した言葉を紡ぐと、衣笠さんは前を向いたまま穏やかに笑んだ。衣笠さんこそ、僕なんかよりずっとやさしい人だろう。
「衣笠さんはどうしてウエディングプランナーを目指されたんですか」
お客さまに踏み込んだことを尋ねるのはいかがなものかと思ったが、何故か衣笠さんならOKな気がして、割と無抵抗に言葉が出た。
「私は人を幸せにできる仕事をしたくて、ウエディングプランナーは大切なパートナーとの新たな出発をハッピーにできると思ったんです。なんだか本牧さんが駅の仕事を選んだ理由と似てますね」
「確かにそうですね。衣笠さんならきっと良いウエディングプランナーになれそうな気がします」
「そう、でしょうか……」
衣笠さんは僕の言葉に苦笑し、俯いた。察するに衣笠さんはきっと、自分に自信がないタイプだ。せっかくいい雰囲気だったのに、僕の軽率な一言で気まずくなってしまった。
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