序章
2,背後からの悲鳴
4月1日、年度初めの6時30分。
今日、この駅で何かが起きる。
それは人身事故や信号トラブルのような大きな事象ではなく、急病人救護や人がホームから線路に転落するなど、数分間運転を見合わせる程度のものだと直感した。
◇◇◇
7時30分。今朝はしとしと雨だ。雨や雪の日はホームが滑りやすく 、
ラッシュアワーのプラットホームに立つ僕は、線路に溢れ出そうな止め処ない人の流れや、矢継ぎ早に到着する列車が人々を吸い込んでゆくさまを監視していた。この駅は対面式ホーム。上り線と下り線でそれぞれ乗り場が分かれている。
「ドア閉まります。列車続いて参ります。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
季節に関係なく冷たい風が吹く都会の人々の心が少しでも温かくなるように。少しでも元気に出掛けられるように 。そして彼らが無事に帰って来られるように。日頃からそんな願いを込めて、3時間睡眠の気怠さを振り払いできるだけ明るい声で放送している。
電車のドアチャイムが鳴ると、戸袋上の赤いランプがそのリズムに合わせながら点滅して、ドアがカチャリと閉まる。2004年以降にデビューした車両には聴覚障がい者に考慮して、ドア上にランプが取り付けられている。
混雑車両ではよく旅客の荷物が車外にはみ出たりしてドアが閉まらなくなるから、係員が手で無理矢理閉める。このとき、自らの手が挟まれてもすぐに抜けるよう必ず手袋を嵌める。各車両の側面、行先表示器の隣にある『車側灯』と呼ばれる赤いランプが消え、ドアがしっかり閉まり何も挟まっていないと確認すると、内心ホッとする。だが列車はすぐに走り出すので油断ならない。このタイミングで黄色い線からはみ出して歩いていた人が車両と接触し、人身事故が発生する場合もある。また、自分も誰かに押されて事故に遭わぬよう僅かに片足を前に出して重心を分散させ、関係者のみに許された黄色い線の外側2本目の線からはみ出さぬよう留意する。
鉄道に触れていると、ふと思うことがある。
通勤時間帯、1本の列車には1編成10両あたり2千人前後の人が乗っている。それだけの命と、それだけの心を運んでいるのだ。僕らの仕事はそれらを安全に、時刻通り運ぶこと。
ラッシュアワーの列車なんてきっと、ストレスや憂鬱の缶詰だ。ストレス社会の缶詰とも言えるだろう。僕がこの鉄道会社に入社した理由には、こんな社会を少しでも住みやすくしたいという野望もある。
この人混みの中に、希望を持って生きている人が在ればと願う。
あっ、あの人は確か……。
上り列車が駅を出ると、自ずと向かい側の下り線が見える。そのとき下りの線路上を千鳥足で歩く、薄汚れた黒いジャンパーを羽織った初老の男性を発見した。しかし緊急停止の手配は取らない。なぜなら彼はつい先日、泥酔して線路に転落し、ちょうど入線してきた列車に轢かれて亡くなったからだ。
脳と心臓を砕くような悲鳴は徐々に力を失い、命の
もうあんな思いはしたくない。骸を拾い集めるのも、自分の目の前で命が消えゆくさまを見届けるのも。非常停止手配をしても間に合わないタイミングで列車が入線したとはいえ、彼を線路に転落させ、未来を奪ってしまった不甲斐なさも。
多くの鉄道員はそれを一生背負い続ける。しかも何度か同じ経験をする。一人よがりかもしれないが、これ以上重荷は背負いたくない。たった一人の命は、肩が砕けてしまいそうなくらい、ずっしり、ずっしり重いのだ。
唯一の救いは、近い将来、この駅にホームドアが設置されること。これで少しでも事故が減ればと願ってやまない。
僕には予知能力のほかに霊感もあり、こうしてしばしば亡くなった人の
カタン、カタンカタン、カタンカタン。
ほら、男性に構わず下り列車が入線してきた。雨天のためスリップしないよう低速だ。列車が彼をゆっくり隠そうとするが、車両の足回りは隙間だらけ。彼は頭隠して尻隠さず状態。きっと客室の床からひょっこり顔を出しているだろう。おっと、車両をすり抜けて全身が見えた。
電車に乗っているときに彼と遭遇すると、床から首がひょっこり顔を出したり、僕の霊感体質に気付いてからは『あっかんべー』や『べろべろばー』をしてきたりと陽気だが、公衆の面前で噴き出してしまいそうだからご遠慮願いたい。だがそのお茶目さに、何処か救われている。
「きゃあっ!」
なんだ!? 突如、背後から女性と思われる澄明な悲鳴が響き渡った。さっそく予感的中か? 悲鳴から連想されるのは暴行傷害事件、転倒、転落など様々。一刻も早く事象を把握すべく、僕は声が聞こえてきたホーム前方へ急いだ。
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