第三章
第三章
杉ちゃん一行は、製鉄所に到着した。玄関の戸をガラッと開けると、水穂さんの世話役として、来訪していたブッチャーが、杉ちゃんたちを出迎えた。
「おう、杉ちゃん、いったいどうしたんだよ。また何かあったのかい?」
「そうさ、あったと言えばあった。無ければこっちになんか来ないさ。一寸さ、水穂さんいるか?いるならすぐに呼んでくれ。頼むよ、ブッチャー。」
杉三は、すぐに早口で言った。
「頼むよって、水穂さんなら寝ているよ。直ぐに起こさなきゃ、いけないようでもあるのかい?」
「おう、すぐにおこしてやってくれ。急遽レッスンしてほしい奴がいるんだ。頼むよ。」
「レッスンって、誰にだよ?」
ブッチャーが面食らった顔をしてそう言うと、
「こいつ。名前は、えーと、何て言ったかな、名前は、忘れたが、こいつの厳格なる変奏曲は、第一級であると思う。だから、一寸手を加えて、うまくやってくれるように、仕向けてやってほしいんだ。」
と、杉ちゃんは答えて、すぐに、龍介の肩をたたいた。
「そうか。名前を忘れちゃ困るだろ、水穂さんに名前を紹介するときに、困るでしょ。杉ちゃん、名前くらい、覚えておかないと。」
ブッチャーは困った顔をした。
「だけど、名前を忘れたが、演奏の腕前は第一級だから!ぜひ水穂さんに聞かせてやってくれよ。こいつの演奏は、第一級である事は、疑いないんだから!」
「水穂さんにどう紹介したら、、、。」
ブッチャーは、また困った顔をして言うと、
「ぼ、僕の名前は、い、石橋龍介です!」
と、龍介が言った。
「はああ、なるほど。吃音者か。そういう事なら、杉ちゃんが、紹介したくなるのもわかるな。悪いことは言いませんから、お入りください。俺、すぐにお茶持ってきますから。」
そう納得してブッチャーは、杉ちゃんたちを製鉄所の中へ招き入れた。そして、三人を四畳半の中へ通してやる。水穂さんは、布団で静かに眠っていた。
「おい、起きてくれよ。お前さんに大事なお客さんが、来たんだよ。」
杉ちゃんはそういって、水穂さんの体をゆすった。
「起きてくれよ。大事なお客さんなんだから。」
杉ちゃんがそういうと、水穂さんはやっと、目を覚ましてくれた。
「もう、また睡眠剤でも大量に飲んだな。ボケっとしてないで目を覚ましてくれよ。ほら、お前さんに大事なお客さんだ。いいか、こいつは、吃音者だが、厳格なる変奏曲を、すごいうまく弾くんだよ。それを聞いてやって、もっとうまくなるように、アドバイスしてやってくれ。僕みたいな素人より、お前さんの方が、絶対専門的なことは知っているんだからな。」
水穂さんは、杉ちゃんに言われて、よろよろと布団のうえにおきた。
「こいつだよ。名前はえーと。」
「い、石橋龍介です。」
杉ちゃんに言われて龍介は、もう一回自分の名前を言う。
「よし。名前は一度言えば大丈夫だ。それでは、そこにある、グロトリアンのピアノで、厳格なる変奏曲を一回弾いてみろ。これを弾けば面白びっくり。よし、やってみろ。」
杉ちゃんに言われて、龍介は、恐る恐るピアノの前に座った。水穂さんがどうぞと言ったので、彼はピアノのふたを開けて、ピアノを弾き始める。
確かに、彼の演奏が、第一級の腕前であることは疑いなかった。確かに、演奏技術もあって、音も正確であるし、強弱もしっかりついている。だけど、どこか迫力がなく、なにかかけているところが、あるような、そんな気がしてしまうのであった。
龍介が弾き終わると、水穂さんは静かに拍手をした。
「どうですか、うまかったでしょ。水穂さん、すごい演奏だったでしょ。」
「そうですねえ。」
杉ちゃんにそういわれて、水穂さんは少し考え込んだ。
「確かに、素晴らしい演奏であるとは、思うんですが、もう少し、音量がないというか、もっと演奏に自信をもったほうがいいのでは。」
「そ、そうですか。も、もともと、演奏には自信がないですし、ただ好きでやっているだけですから、たいしたことないですよね。」
と、龍介は、当然のように言った。
「いいえ、きっと、もっと、自分に自信が持てるように練習すればもっとうまくなりますよ。もう少し、打絃を強くなるように、指を強化してください。」
「指を強化するね。そのためにはどうしたらいいんだ?」
と、杉ちゃんが言った。
「指は、指の練習曲を使うとか、そういう方法があります。指の練習曲は星の数ほどありますが、僕がウオーミングアップのつもりで使っていたのは、ショパンの練習曲でした。ほかの作曲家の作品でも、もちろん構いません。」
「なるほど、水穂さんは、指の練習にショパンの練習曲を使っていたのか。」
水穂さんの話に杉三は口をはさむ。
「ええ、右手の練習に偏っているのは、しょうがないと思いますが、メロディを奏でるのは、大体右手ですからね。右手の強化練習には最高の教材だと思いますよ。」
「へえ、あれが手の強化練習ねえ。僕は、あれを練習曲とは、どうしても思えなかったけど。」
また杉ちゃんが、やじった。
「確かに、音楽的に弾いてしまうピアニストもいますが、あれを使うとね、必ず指の強化練習になりますよ。厳格なる変奏曲が弾けるのですから、たぶんこれも弾けるでしょう。そうだなあ、たとえば、25の最終曲で指の強化練習をされたらいかがですか。」
水穂さんは、そう、アドバイスした。
「あ、有難うございます。そ、そんな、アドバイスまで頂ける何て、うれしいです。」
「そんなこと言ってないで、すぐに楽譜を買って、練習してみるんだな。そうして指の強化をすれば、きっと、もっと迫力のある、厳格なる変奏曲になるよ。よかったねエ!」
杉ちゃんは、にこやかに言った。
「だけど杉ちゃん、どうしてこの人を、ここへ連れてきたんですか?」
水穂さんが杉三に聞いた。
「ああ、決まっているじゃないか!コンクールに出て、腕前を披露してもらうためさ。それで、こいつを有名にするんだよ!」
「でも杉ちゃん、確かに、演奏はよいんだけど、まだまだコンクールという所には通用するかどうか。」
杉ちゃんがそういうと、水穂さんは言った。しかし、杉ちゃんの反応はこうである。
「そうか、じゃあ、お前さんの意見をどんどん出してくれ。こいつがどうしたら、コンクールというところで通用するかどうか、お前さんなりにこいつを鍛え直してやってくれ!」
「そうですか、、、。そのためには、指の強化だけではなく、気持ちの切り替えをできるようにならないと。」
水穂さんは、一つため息をつく。
「そうか。それでは、気持ちの切り替えをするにはどうしたらいいのか教えてやってくれ。頼むよ。よろしくな!」
と、杉ちゃんは、単純に答えをだす。
「こいつをなんとしてでも、コンクールに出して、有名にさせなきゃいけないんだ。」
「そうなんだね。一体何で、この人をコンクールに出させなきゃいけないんですか。なんでわざわざそんなところに。」
水穂さんが聞くと、杉ちゃんは、即答した。
「おう、こいつは、すごい演奏技術があるからだ。それ以外に何もないさ!」
「そんなことないでしょう。杉ちゃん、なにか魂胆があるんでしょう。コンクールに出させようなんて、そんな無茶なこと。」
「無茶なら、無茶じゃないように仕向けてくれ。後継者を作るのも、ピアニストの仕事だ!」
杉ちゃんは、またそういうことを言った。
「そういう事じゃないでしょう。いきなり、こうしてレッスンしてくれというんだもの、何かわけがあるんでしょう。杉ちゃんだけ一人が、なんだか盛り上がっているように見えるよ。」
「す、すみません。も、申し訳ありません。」
水穂さんがそういうと、龍介が、申し訳なさそうに言った。
「ぼ、僕、もう、十年近く、引きこもりを続けていて、もう、ピアノ以外にできることがなくなってしまいまして。」
暫く、杉ちゃんも水穂さんも、黙ってしまった。
「た、ただ、初めの頃は、一寸疲れただけだったんです。ほ、ほんとに、それだけだったんですけど、気が付いたときは、こんな長い年月立ってしまったんです。そ、その間に、店は、妹がやることになって、もう、自分は出来る事は、ピアノだけに、なってしまって。」
「そうですか。」
水穂さんは、しずかに言った。
「それでは、僕と同じですね。僕も、気が付いたらピアノしか、やれることはなかった。でも、そういう生き方は、危険すぎます。コンクールに出て、有名になって、やっていこうなんて、僕みたいな失敗をしたらどうなるんですか。演奏家としてやっていくのは、本当につらいもの何ですから。」
水穂さんは、そう言ったが、杉ちゃんは、こう続けるのだった。
「いやあ、そういう事じゃなくてもいいだよ。ピアニストってのは、そういう事だけじゃないでしょうが。ほかにもやることはいろいろ在らあ。とにかくな、こいつはもう時間がたち過ぎた。そうするしか、ほかに方法もないんだ。僕らと同じように、障害者として生きるしかないだろ。でも、それじゃあ、可哀そうだ。何か生きがいを持たしてやりたい。そういう訳で、こいつに厳格なる変奏曲、レッスンしてやってくれ。よろしく頼むよ!」
杉三は、そういって、水穂さんに頭を下げた。
「わかりました。」
と、水穂さんは言った。
「こういう時は、厳格なる変奏曲だけではなく、なにかほかの曲もやりましょう。そうだな、厳格なる変奏曲とは対照的なものがいい。何でも好きな曲でかまいませんから、もう一曲、なにかもってきてください。」
「よし、すぐに買いにいけや。楽譜屋は、早くしないと閉まってしまうぞ。」
杉ちゃんはにこやかに笑って、そういうことを言った。
「わ、わかりました。もっと穏やかな曲を買ってきます。」
という龍介に、杉ちゃんが、よし、よかった!と彼の背中をどしんとたたいた。
「一体、あの男性は、どういう経緯で杉ちゃんと知り合ったんですかね。」
と、ブッチャーが、台所でカールさんに聞いた。
「ああ、彼はですね、あの杉ちゃんが、石橋呉服店を訪問した時に、偶然知り合ってしまったようです。なんとも、石橋呉服店の長男さんだったそうですが、なんとも、店の経営を任された時、吃音者ゆえにうまくいかなくて、引きこもるようになってしまったそうなんですよ。それで子どものころに習っていたピアノをずっとやっているしかできなくなってしまったそうで。」
と、カールさんは説明した。
「なるほど、それで杉ちゃんは、躍起になっているわけですか。まあ、杉ちゃんの事だから、ほっておけないと思うけど、一度躓いたら、二度と帰れない人になってしまう、日本社会も、なんとかなってくれないかなあ。」
ブッチャーは、頭をかじった。
「そうですね。須藤さんのお姉さんだってそうですものね。本当に、一度躓いてた人が立ち直るのは、日本社会では、難しすぎますよ。」
「それにしても、あの方、ピアノうまいですね。」
ブッチャーは、カールさんの話をちょっとそらした。
「そうですね。素人から見れば、重大な問題抱えているのが、わからないくらいです。」
カールさんもそれを言った。しばらく二人は、龍介が弾く、厳格なる変奏曲を聞いていた。
「いいなあ、あの人は、ああして得意なものがあって。俺の姉ちゃんなんか、何も特技がないよ。」
ブッチャーは大きなため息をつく。
「得意なものがあってもなくても、心が病んでしまう人は、病んでしまうんですね。」
と、カールさんは、一寸溜息をついた。
その翌日。朝食を食べていた、石橋家の人たちは、今日は、兄の龍介が、楽譜屋さんへ楽譜を買いに行くと宣言したため、何だと驚いた。
「一体何処へ行くのよ。」
麻衣は、余りにも驚いてもう一回聞く。
「ああ、ただの楽譜屋だよ。昨日訪ねてくれた友達が、もっといい曲をやってみないかと言ってくれたので。」
と、龍介は、ご飯を食べながらそういうことを言った。
「もっといい曲って、もう厳格なる変奏曲は飽きちゃったの?」
麻衣が聞くと、龍介は、
「飽きてはいないけどさ、ただ、やってみたくなっただけで。」
と答えた。
「ちょっと待って。お兄ちゃん、もうほかの曲はやりたくないってあんなに言っていた筈なのに、約束が違うじゃないの。」
麻衣が驚いてそういうと、創介が、
「まあいいじゃないか。お兄さんもいつまでも、同じことをやっていたら、飽きるのは当たり前じゃないか。」
と言った。
「しかし周りの人にばれたら。」
麻衣は嫌そうに言うが、
「いいや、大丈夫だよ。もう十年近くたっているんだし、お兄さんだとわかる人は誰もいないよ。行かせてやればいいじゃないか。」
と、創介が、ことが起こるのを嫌そうに、そういうことを言ったので、麻衣は黙った。
「じゃあ、行ってきますから。」
龍介は、椅子から立ち上がる。麻衣も創介も、兄がなんでいきなりそういうことを言い出すのか、わからないという顔で、呆然とそれを見つめていた。
数分後、タクシーがやってきて、龍介を乗せて行った。中に誰が乗っているかは見えなかったが、龍介は、なにか楽しそうな顔をしている。
その日から、龍介の練習曲は、厳格なる変奏曲だけではなく、ショパンのノクターンとか、練習曲とか、はたまたラベルのソナチネまで増えた。何だか曲が増えたことにより、龍介の顔は実に生き生きとして、楽しそうに、弾いているのであった。杉ちゃんのすすめで、富士市の文化センターで開催されるピアノコンクールに、出場することになった。彼は、そうなるとさらに、にこやかな顔をしていて、楽しそうにピアノを練習しているのだった。それを麻衣や創介は、全く関心のないという顔をして、ただやり過ごしていた。
その数日後、龍介は、コンクールの会場である、市民文化会館にタクシーで向かった。市民文化会館の入り口で、杉ちゃんとカールさんが、応援に来ていた。タクシーを降りて、文化会館に入った龍介に、杉ちゃんたちは、シッカリやれよ、いつも通りにやればいいからな、何て言いながら、励ましている。
コンクールは、文化会館の大ホールで行われていた。コンクールと言っても、参加者は非常に少なく、毎回、決まった人しか、優勝できないことで知られていた。今年は、参加者が一人増えたという事で、お客さんたちはみんな喜んでいた。
「それでは、演奏に移らせていただきます。先ずは第一番、佐藤敏夫さん、曲は、ショパン作曲、バラード第一番、、、。」
ホールでアナウンスが流れて、一番目の演奏者から、順に演奏が開始された。一番から、十番まで出場者がいたが、みんな去年に開催されたメンバーと、全く同じメンバーばかりだ。曲もバラード一番とか、スケルツォ一番とか、有名なショパンの曲がほとんどである。或いは、ドビュッシーとか、そういう現代音楽ばかりだった。多分、五番目に弾いた人が一番になるだろうと、お客さんたちは、みんな予想していた。
ところが。
「それでは、第九番、石橋龍介さん。曲は、メンデルスゾーン作曲、厳格なる変奏曲です。」
というアナウンスとともに、龍介が出てきて、お客さんたちの表情が変わる。お、新人発掘か、と、お客さんたちは、面白そうな顔をして舞台を見るのだった。
龍介が、お辞儀をして、厳格なる変奏曲を弾き始めると、お客さんたちは、それに聞きいった。厳格なる変奏曲というから、硬くて重い演奏なのかと思われたが、そのようなことは全くなく、柔らかくて優しい所は優しく、迫力のある所は迫力があり、バランスのいい演奏を聞かせてくれた。演奏が終わると、龍介は、たち上がって、お辞儀をする。お客さんたちは、大きな拍手で、この演奏者を見送った。
十番目の演奏者が、ショパンのスケルツォ三番を弾いて、コンクールは終わった。去年までなら、演奏を聞いただけで、帰ってしまうお客さんが多かったが、今回は、結果が分かるまでお客さんは残っていた。
「それでは、結果を発表させていただきます。まず初めに、三位、佐藤敏夫さん、二位は、磯村華代さん、一位は、北野澄夫さんです。」
アナウンサーが順位を読み上げる。其れでは、去年と同じだと、お客さんたちは、がっかりした顔をする。この順位は、いくら演奏順番を変えても、変わらないというのが、恒例になっているのだ。
「えー、皆さん、お静かに。それでは、順位外ではありますが、好演賞を発表させていただきます。」
アナウンサーがそういうが、お客さんたちは、どうせまたあの男だろう、と、予想をつけてしまったようだ。客席にいた杉ちゃんたちも、あーあ、ヤッパリだめか、あれだけ頑張ったのにな、なんて呟いていると、
「好演賞は、石橋龍介さんに授与することにいたしました。ただいまより、表彰式に移ります。ただいま名前を呼ばれました方は、今一度、ステージの上におあがりいただけますよう、お願いいたします。」
と、アナウンサーが、棒読みのようにそういうことを言った。するとお客さんたちは、いいぞ、期待の新人!頑張れ!と言いながら大きな拍手をする。
龍介は、ほかの入賞者たちと一緒にステージに上がった。このコンクールを主催した、市民会館の館長さんに、賞状と、副賞である記念品をもらった時、龍介は、涙を流していた。
「好演賞、おめでとうございます。受賞した記念に、なにか一言、お願いいたします。」
と、アナウンサーにいわれて龍介は困った顔をする。それでも促されて、
「こ、こんな者が、こ、こんな、大きな賞をいただいていいのでしょうか?」
と、どこかの相撲取りが言ったようなセリフを言った。たちまち会場は、割れんばかりの大拍手で埋まってしまった。彼が、吃音者であることは、どこかへ行ってしまったような、そんな雰囲気になっていた。
「いいえ、大丈夫です、好演賞、おめでとうございました。」
アナウンサーは、そういうことを言って、次の受賞者のインタビューに移った。龍介は、にこやかに笑って、もう一回礼をした。
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