第2話
それは一つ前に訪れた想区での事。
「エレナー! どこにいるんだー?」
少年は妹の名前を呼びながら森の中を走っていた。日はすでに沈みきり、両側の木々が一つの黒い塊となって迫ってくるようだった。
「エレナー!!」
身を切る冷たい風に負けぬよう、必死に少年は叫ぶ。しかし木々は少年を嘲笑うかのように激しく震え、そのざわめきに彼の叫びはかき消された。
「グリムノーツ」がこの想区を訪れたのが三日前。沈黙の霧を抜けた彼らを出迎えたのはうっそうとした森だった。沈黙の霧を抜けた先が森というのはさほど珍しい話ではないのだが、どうやらこの想区は森を舞台にした物語が元になっているのか、パックの偵察によれば想区のほとんどが森林地帯らしい。
想区が無駄に広いうえにどこを見ても木、木、木……という状態なので想区の住人を探す事も難しく、事実三日間の移動で一人の人間にも会えなかった。
故に「グリムノーツ」はここが何の想区なのかを把握していない。それはつまり、彼らが知らない脅威が想区内に存在するかもしれないという事である。
ここが赤ずきんや七ひきの子ヤギ、三匹の子ブタに関係する想区なら狂暴なオオカミ、いばら姫やカエルの王子に関係のある想区なら邪悪な魔女がいるかもしれない。食人鬼やトロール、巨大な獣が森を徘徊している可能性だって十分にある。
そして脅威となるのは生き物だけではない。人一人をなんなく飲み込める巨大な肉食植物。移動する底なし沼。あるいはそれ自体が意思を持って人を惑わす迷いの森。全て今までに訪れた想区で実際に見たものだ。
最も、グリム兄弟を筆頭にした創造主達ならその程度の脅威は軽く退けてみせるだろう。彼らが本気になれば、かの詩竜ジャバウォックでさえ数分は持つまい。そう思わせるほどに創造主達は強かった。
しかし「空白の書」の持ち主はそうではない。一部の例外を除き、多くの「空白の書」の持ち主はただの非力な人間だ。そしてそんな彼らが怪物たちのテリトリーに入ってしまえば……。
「エレナー! いたら返事してくれ……うわぁ!?」
足元さえよく見えない暗闇を走っていた少年の足が何かに引っかかる。焦る気持ちからか前のめりに走っていた少年は大きくバランスを崩し……。
「ほいっと」
倒れこむ寸前、横から出てきた手が少年の体を支える。
「よぉ、お坊ちゃん。そんなに慌ててどうした。お茶会に遅れそうなのか?」
シルクハットを被った
ルイス・キャロルのイマジン、帽子屋ハッタと三月ウサギだ。
「……ありがとう」
「いいってことよ。地面とキスしそうになっている人間を助けるのはマッドティークラブの会長として当然の事……キスだと?」
「どうしたの?」
「三月ウサギ! マッドティークラブは今日を『地面に感謝する日』と定めるぞ!」
「なにそれ?」
「日頃踏んづけている大地に感謝を示すために、全力で地面にキスをする日だ!」
「それサイッコウにイカしてるよハッタ!」
「だろ? だろ?」
「……エレナはいた?」
こんな状況でも通常運行な二人に苛立ちを覚えながら少年は尋ねる。
「いや。猫の子一匹、エレナ一人も見かけなかったな」
「でもウチは猫見たよー」
「ふむ、では訂正しよう。犬の子一匹、エレナ一人も見かけなかったな」
「そう」
これ以上二人に関わるのは時間の無駄だ。そう判断して先に行こうとした少年の肩をハッタが掴んだ。
「……なに」
もはや苛立ちを隠す事もせずに少年は振り向く。
「お前はここまでだ。三月ウサギと一緒にみんなの所に戻れ」
「なんで!」
「お前まで迷子になったらタイヘンだろ。 エレナが迷子になってタイヘンタイヘンタイヘン。迷子が二人でタイヘンも二倍だ」
「そうそう。タイヘンタイヘンタイヘンタイヘンタイなんだから」
「……それでも」
ハッタの手を払いのける。
「エレナは僕が見つけないと・・・・・・!」
「あっ、おい!」
ハッタの声を背後に聞きながら少年は走り出した。
「逃げられちゃったね、ニシシシ・・・・・・」
「チェシャ猫か」
闇の中からニヤニヤ笑いを浮かべた女が姿を現す。名前はチェシャ猫。ハッタ達と同じくルイスのイマジンだ。
「見ていたなら止めてくれてもよかったんじゃないのー?」
「いやいや、ボクもついさっきここに来たところなんだよ。・・・・・・ところでここはどこなんだい?」
「どこってそりゃ・・・・・・。俺らも闇雲に走ってきたからなぁ」
「そうそう、闇雲闇雲」
「というかお前の能力があればここがどこかなんてすぐに分かるしエレナがどこにいるかも分かるんじゃないのか?」
「あー、そういえばキミたちはその時まだルイスの中にいたんだったね」
ハッタが尋ねると、ルイスには言ったんだけどねとチェシャ猫は困ったようにしっぽをゆらす。
「どうにもうまくいかないんだ。さしずめ『どこにでもいるけどどこにいるかは分からない』ってとこだね。ここに来たのも全くの偶然さ。ティタニアの取り替えっ子も失敗したらしいし・・・・・・」
チェシャ猫はニヤニヤ笑いを引っ込めて星のない空を見上げる。
「何か嫌な予感がするよ」
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