第二十七幕 菜の花
第二十七幕
里の外れ、田畑も無く、菜の花が咲き乱れる草原に一本の大きな欅が居を構える。その根元に一基墓標が立つ。
その墓標に手を合わせる者が一人居る。
春風が菜の花、欅の枝を揺らし、咽るような菜の花の匂い、爽やかな葉草の匂いを運ぶ。静かな里の外れに、風が騒々しさを起こす。
更に風は、手を合わせる者の真っ直ぐ伸びた艶の有る黒髪を浮かせる。
今まで墓標に向かっていた、その白く細い手は、風で顔に掛かった髪を掻き上げる。
「良い風。すっかり春ね。」
立ち上がり、眼を細めて、風を身に浴びている。
その時、後方から自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
その声のする方へ、身体を向け振り返る。
「おーい。やっぱり小春か。来てたんかぁ。」
権兵衛が、大きく手を振りながら歩き来る。。
その傍らには、赤子を抱いたお鈴が寄り添っている。
「権兵衛、お鈴ちゃん。来てくれたんだ。」
近づいてくる三人に、小春は嬉しそうに声を上げる。
小春は、首筋が細く、項、襟元は雪の様に白く、大人の匂いが薫る。顔だちも幼さが残る美しさから大人の女性へと見事に昇華した。里を訪れた者がすれ違うと必ず振り返る程、里随一の美人になった。しかし相も変わらず本人はそんな事は露ほども気に留めていない。
「ああ、陽気がエエから、散歩がてらな。また直ぐに戦に駆り出されっから。挨拶せにゃと。」
応えながら、墓標に眼をやる権兵衛。墓標の両脇には、白や黄色、茜色の春花が挿されている。
「小春ちゃん。こんにちは。」
お鈴が、小春に声を掛ける。腕の中の赤子は風を受けて気持ちよさそうに眠っている。
「お鈴ちゃん。久しぶり。うわぁ。また大きくなったねえ。」
小春は、眠っている赤子の餅のような頬を指で突く。
「うん。元気でねえ。お乳を良く飲むから、私が吸い取られそうだよ。」
小春、お鈴は、笑い合う。
優しい風が、四人を包み込む。
「あれから、随分経ったのう・・。」
権兵衛が、先程の挨拶とは打って変わった低い声で呟く。
「うん・・。まだ慣れなくて・・。」
権兵衛の言に小春は俯き応える。
「そうじゃろ。そりゃ俺もじゃ。まして小春はのう・・。」
「権さま。」
お鈴は、権兵衛の袖を引っ張り窘める。
「あ、ああ悪い。その、なんだ・・。ゆっくり気持ちを整理してったらええ。俺等も居るしな。小春は笑っとらんと。」
「そうよ。また家に遊びに来て。権さまの事で話したい事が一杯あるんだから。」
「本人が居る前でひどいのう・・。まあ愚痴を聞きに来てやってくれ。」
小春は、吹き出す。
「うん。ありがとう。二人とも。じゃ、またね。」
小春は、言いながら手を振り、歩き去っていく。
「おう。またな。」
「うん。じゃあね。きっと寄ってね。」
二人は、小春の離れていく背中を見守っていた。
「だいじかのう・・・。」
「大丈夫ですよ。小春ちゃんは、強い人ですから。ねえ?」
お鈴の腕の中の赤子が笑う。
「そうじゃのう・・・。でも、まさかあんな事になるとはのう。」
「そうですねえ・・。」
足元に朱い池を作りながら、何とか新之助は、立って居た。
「新っ!!」
「ぐはっ。」
新之助は、口から血を吐き出す。それでも、倒れない新之助。
「クソがっ!何しやがる!」
朔兵衛の脚には、鎖が巻きついている。その鎖の先には、権兵衛の腕が巻きついている。二人を繋ぐ鎖は、ピンと張っている。
朔兵衛が新之助を斬り付けるすんでの所で、権兵衛が放った鎖に脚を取られ、踏み込みが甘くなった。
「クソっ!放しやがれ!クソッタレ。」
大声で悪態をつく朔兵衛は、珍しく感情が乱れていた。
朔兵衛は、目の前でふらふら立って居る新之助を一瞥すると、踵を返し、権兵衛の方へと向かおうとする。
しかし、脚の鎖を巧みに引っ張り、上手く方向転換させさない権兵衛。
「クソがっ!いい加減に・・・。お前から斬り刻んでやるからな。」
朔兵衛は、言いながら足元に張られている鎖を屈んで持ち、逆に引っ張り上げる。
その膂力に、権兵衛が崩される。一瞬緩んだ脚の鎖を解き、一気に権兵衛に間合いを詰める。
慌てて、腕の鎖を外し権兵衛は、下る。グングン間合いを詰めていく朔兵衛。
「ひっ・・。」
その殺気に氣圧され、怯えながら後退する。その事が、いけなかったか石に躓き尻もちを付いてしまう。
「ようし。そのままそこに居ろよ・・・!」
朔兵衛は口角を上げる。
権兵衛の直ぐ目の前に、朔兵衛の脚が見える。立ち上がる事はおろか、息をする事も忘れ、脂汗が吹き出す。
「やっと、お前を殺れるわ。・・・ん?」
朔兵衛は、上段に刀を振りかぶる。その頬に何かの光が蠢いている。
ここまでと、権兵衛は眼を瞑る。
朔兵衛が斬りかかる刹那、顔に当たっていた光が、眼まで上っていた。その光は、川向こうの林の男の鞘からほんの少し抜かれた刀が陽光に反射したものであった。
「ぐはっ!」
悲鳴が耳に届き、恐る恐る眼を開ける。自分が斬られた訳ではないと確信が得られない権兵衛は、目の前の光景が信じられない。
それもそのはず、権兵衛の眼には、朔兵衛の腹から刀の切先が突き抜け、朔兵衛の口から血が流れている。
「お、おかし・・・、な、ん、で・・?」
そのまま、前に倒れ朔兵衛は絶命する。
倒れた朔兵衛の背中には、血の付いた刀を握る、全身血まみれの新之助が、立って居た。
「し、新っ!」
今にも崩れ落ちそうな新之助を、支えようと慌てて権兵衛が駆け寄る。その刹那、新之助は権兵衛の方へ崩れ落ちる。権兵衛は、新之助を受け止めしっかり抱きかかえる。
「新っ・・・!」
「あい、つが、斬り付ける、せつな、何ぞ止まりおった。それが、無かったら、まに、あわん、かった・・」
「ほうか!でも、何でもエエ!勝ったぞわし等!やったぞ!」
「あ、あ。な、んで、止まった、んじゃろ?」
「ええやろ、何でももう!それより、早よ帰って、手当せにゃあ。」
「ああ。そ、やな。」
言いながら、視線の先に川向こうの林を捉える。意識が遠のきながら、どこかに見覚えのある刀を挿した男の去るのが見えた。
「あ、おい、おい新っ!しっかりせい!」
抱きかかえる腕に一気に重さが掛かり、新之助が意識消失した事を知る。
二人に踵を返し、山奥に消えていく林の男の顔に満足気な笑顔が浮かぶ。
朔兵衛が斬りかかる刹那、顔に当たっていた光が、眼まで上っていた。その光は、この男の鞘からほんの少し抜かれた刀が陽光に反射したものであった。
自分にずっしりと寄りかかる新之助を支えながら権兵衛は、その重みに命が繋がっている事を実感し、心から安堵する。
身体中の痛みも相まって動けず、しばらく川の轟音を聞いていると、何処からか声が届く。
「・・・権ー・・・権兄ー・・。」
その声が段々と近づいて来るのが分かる。聞き覚えのある二つの声が重なり聞こえる。
「こ、ここじゃあ。早うここへ・・・!」
「ご、権兄の声じゃ!」
「ほうじゃ!無事のようじゃ!えがったー!」
「権兄ーー!」
彦兵衛、保次郎は、もう泣きべそをかき、権兵衛の声のする方へ急ぐ。
「え、えがった・・。助かるぞ、新・・。」
権兵衛も込み上げるものがある。
「あっ、おった!権兄ー!」
「権兄ー!新も居るぞ!よくぞ無事でー!」
彦兵衛、保次郎は、二人を見付け走り寄ってくる。
「あ、ああ、えがった、えが、った・・・。」
涙で滲んでいる視界には、二人の後ろにも誰か駆け寄って来る。しかし、権兵衛の視界は徐々に黒くなり、何か叫んでいる事も聴き取れなくなっていった。
第二十七幕【了】
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