第二十六幕 上膳は
第二十六幕
宴もたけなわ。酒が回った男衆が歌い舞い踊る。その様を、正木団十郎、小春は見つめている。目の前の膳には、手を付けていない。時折、正木は、小春に顔を向け横顔を確認する。角隠しで良くは見えないが、それでも鼻筋が通り、細く尖った顎の線や、横顔でも長い事が分かる睫毛を見やると見とれると共に、これから益々美しくなっていくのだろうと大いに胸を高鳴らせる。正木団十郎齢一八、この世の春である。そんな正木にずずいとお銚子を持って近づく男があった。男は、お銚子を掲げる。それに合わせ、小さくお辞儀をしながら盃を男に向ける。
「良くやった、団十郎!いやぁ来る縁談来る縁談断り続けておったから、女に興味が無いかと思ったわ。しっかし、こないな器量良しを娶るとは。これで正木家は安泰じゃ!夜が楽しみじゃのう。沢山子をこさえてくれや!」
酌をしながら、勢いよく大声でまくしたて、団十郎の腰をパンと叩く。顔は真っ赤で、相当に酒が回っている。正木家の縁者のようで、団十郎は、ただ頷いている。隣の小春は、表情を変えず、真っ直ぐ前を見つめている。
「ほら、お前様。またお酒が過ぎます。団十郎殿が困っていますよ。ごめんなさいねえ。」
男は、妻に引っ張られ、席に戻される。
正木は、盃を置き、小春に顔を向け様子を伺う。小春は、その視線に気付いているのかいないのか、顔を真っ直ぐに向けたままである。
その小春の視線の先には、両親が映っている。母親お妙は、正木家所縁の者達に酌をして回り、しきりに頭を下げている。一方寛治と言えば、そんな妻お妙を他所にほろ酔い、満面の笑みを浮かべ、酒を煽っては、男衆の舞に拍手を送っている。
小春は、手元をギュッと握りしめる。
照山の奥地の河原には、冷たい風が吹き抜ける。覚束ない足取りではあるが、いよいよ朔兵衛の間合いに入る新之助。その手前で足を止める。朔兵衛の圧が明らかに増す。
権兵衛は、生唾を呑み込む。
『なんじゃこりゃ!?俺ん時にゃ、遊んでいたのか!?』
自分と対峙していた時と桁が違いすぎる圧力に怯えるが、そのおかげで命拾いした事も理解していた。権兵衛は、何とも言えない表情で朔兵衛と対峙している新之助を見上げる。
いつのまにか風が止んでいる。激しい雪融け水の流れの音だけが響く。
朔兵衛は、不意に笑うと踏み込み喉に向け突きを放つ。新之助は、刀で突きを横に弾き、そのまま踏み込み中段に突きを伸ばす。それを、左に躱し、新之助の右側に刀を振り下ろす。新之助は、左前方に前転をし直ぐに立ち上がる。朔兵衛の刀は、地面の石に当たり火花を起こす。
再び対峙する二人の男。
「へへっ。俺の勝ちかな?」
朔兵衛は、またも笑う。
見ると、新之助の右肩が切れて血がにじんでいる。新之助は、右腕に力が入る事を確かめると、息を大きく吐く。
と、またも朔兵衛が仕掛ける。上段に袈裟斬りを振りぬくも新之助は間合いを外し、すんでで躱す。が、間髪入れずに突きが追撃してくる。これも身体を捻り躱すが、まま真横に薙いでくる。後ろに飛び退き、空振りを誘うと今度は、新之助が間合いを詰め袈裟に斬る。朔兵衛は刀で弾き、後ろに飛び退く。
弾かれた新之助は、大きく身体を反らせ、後ろに退がる。刀を握る手の痺れが尋常ではない。刀が、当たる瞬間、巨岩に弾かれた感があった。それだけ、朔兵衛の膂力が異常なのである。
「また、俺の勝ちだな。」
朔兵衛は、いやらしく口角を上げる。今度は、新之助の右脇腹が横一文字に斬られている。斬られた周りに血が滲む。痛みに脇腹を押さえると生温かいぬめりの感触が手を覆う。幸い傷は浅い様子である。
『迅ぇ。とても割って入れねえ・・。新は良く凌いでやがるが、このままじゃ・・。』
二人の命のやり取りを間近で観ている権兵衛は嘆息する。少しずつであるが、力が戻ってきているのが分かる。が、とてもじゃないが二人の動きの中に手を出せそうにない。今は、ただ見守るのみである。それが、ただ口惜しい。
そしてまた、朔兵衛が仕掛ける。それをすんでの所で躱し打ち込むが大きく弾かれる。そして、朔兵衛の斬撃の通りに着物と身が斬れる。何度か同じように斬り結ぶ。その度に、新之助は、朔兵衛の斬撃を躱し、弾かれ、斬られる。打ち込みが弾かれる度に、身体は大きく崩れ、手の痺れは増す。もう腕全体が痺れ、刀を握る感触があやしくなっている。堪らず、新之助は、大きく飛び退き間合いを取る。汗と血が交じり顔や斬れている着物から流れる。肩、胸は繰り返し大きく動き続けている。
相対している朔兵衛も流石に額に汗が滲み、息も上がっている。
「年は、取りたくねえな・・。いや、お前さんが存外しぶといのか。」
感心しているのか、皮肉なのか朔兵衛は独り言つ。
『な、何で、新之助は、あいつの斬撃を無理に避けてばっかりいるんじゃ?受ければ、そんなに斬られる事もねえんに・・!』
死合いを観ていた権兵衛は悶々と考えていた。そして堪らず、
「新っ、何で刀で受けねえんだ?無理に避けなくても良いだろうがよ!?」
その叫びに新之助は応えず、朔兵衛から眼を放さず、息を整えている。空の陽は、いつの間にか南中を過ぎ、西にわずかに傾き始めている。
「ははっ。受けねえんじゃねえ。受けれねえんだよ。なっ!?俺の゙斬撃゙が怖くてよ。」
代わりに朔兵衛が、笑いながら応える。
「なっ・・!?」
合点がいかない様子の権兵衛が声を上げる。
新之助は、何も応えないが、両腕の痺れが代わりに応えている。しかしこれは、いずれも斬撃を受けた訳では無く、自ら打ったものを受けられたものである。これだけでも、朔兵衛の斬撃を受けたくない理由になる。
「お前の゙打ち込み゙は、速いが軽いんだよ。ちっとも怖くねえ。それじゃ、俺は斬れねえ。」
朔兵衛は更に続ける。流石に息を整えているようであった。
新之助は、源右衛門に言われた事を想い出していた。
『お前は、相手を打とう打とうとしすぎる。それが、速さに繋がると思うておるが、今の振りじゃぁ軽いだけじゃ。それじゃあ、切れんぞ。お前の振りは、速いが怖さが無いわい。』
「俺の剣は軽い・・・。」
新之助は、独り放つ。刀を握る手に力を込めるが、痺れが強く力が入っているか定かではない。
「しっかし、お前の刀はどうなってんじゃ!?並のモノなら俺の受けで欠けるか、折れるんに俺の刀の方が欠けとる。」
朔兵衛は、自分の刀の刃を見ながら言う。朔兵衛の刀は、小さく二、三箇所欠けている。
一方、新之助の刀「水切り」は傷一つ付いて居ない。
そして、長岡次郎に水切りを譲り受けた時の事を想い出していた。
長岡次郎は、新之助に一振りの刀を差し出すと口を開く。
「エエか?この水切りは、かの名工左衛門次郎時貞が最期に遺した一振り。名の由来は、左衛門次郎にこの刀を託されたある武士が、負け戦で敵に追われ、矢も尽き、槍も折れ、後ろには滝壺、前方には五人の敵兵、いよいよという時に鞘から刀を抜き放ち一刀で五人を斬った。その際に、後ろの滝が切れ、一瞬水が止まったという。そこから水切りという。名刀というのは、使い手の危機を確かに救ってくれるが、使い手の氣に左右されやすい。使い手が、弱氣になれば、その実力の半分も出してくれんじゃろ。エエか?この刀は、まぎれも無く名刀中の名刀じゃ、お前が負ける時は、お前の気持ちが負けた証。腕は負けても気持ちで負けるな。それに必ずこの刀は応えてくれる。」
差し出された刀を両手で受け取った新之助は、長岡の話しを確かに胸に刻んだ。
更に長岡は続ける。
「それともう一つ、エエか。上善。上膳は水のし。水はどんな器にも収まり、高きから低きに流れる。多くの恩恵をもたらすが、時に全てを押し流し滅っする。決して何人に捉えられることもない。正に上膳。そんな水を斬ろうってんなら、心は、水の若く静かに激しくせんといかん。その矛盾を抱きこめる者はそうそういんがな。それか、水切り言ううんは、水が全てを切る事を言っておるのかもな。」
新之助は、長岡の眼を真っ直ぐに見て刀を掲げたまま動かない。
「まあお前にはちと難しいことだったな。とにかく大事にせえ。」
長岡は、動かない新之助を見てふっと笑う。
「上善若水・・。」
新之助は、肩を上下しながら、ひとつ呟くとふうっと息を細く吐く。
「さあて・・。」
息が整った朔兵衛の眼が光る。
刹那、一気に間合いを詰め、新之助の急所に襲い掛かる。
新之助は、刃を躱し身体を僅かに崩す。そこに次の刃が放たれる。それも躱すが、またも着物が裂け、血が滲む。
「あぁ、またっ!」
権兵衛が思わず声を出す。その手元では、何かをしている。
先程より速度が上がっているのか、新之助は躱した後に反撃が出来ずにいる。みるみるうちに、着物が裂けている場所が増え、そのどれもから血が滲んでいる。とうとう頬も裂け斜め一文字に血が滴る。このままでは、直ぐにでも朔兵衛の刃に捕まる事は眼に見えている。権兵衛は、見て居られないのか視線を落とし手元に集中している。
『こいつ、眼が恐ろしく良いな。ここまで仕留められないのはいつ以来か・・。全くおしい・・。だが、仕方ねえ・・』
刀を振りながら、朔兵衛は新之助に感心している。
躱し続ける新之助は、息が激しく、出血の量が増えた事もありふっと意識が遠のく。その際に、膝が僅かに崩れる。が直ぐに意識を取り戻し、踏ん張る。
しかし、その瞬間を朔兵衛は見逃さず、頸めがけて刀を横に薙ぐ。
『殺った』
頸に刃先が届く直前、朔兵衛は心の中でほくそ笑む。
が、金属音が響き、前のめりに身体を崩される。突然の事で流石の朔兵衛も事態が呑み込めず、右斜め先に居る新之助に眼をやる。
新之助は、刀を正眼に構え汗だく、血だらけで肩を上下に揺らしている。その眼は、鈍く光っている。刀を握る手がしびれているが、確かな手ごたえを感じていた。
『こいつ。俺の斬撃を刀で受け流したのか!?』
まだ、にわかに信じられない朔兵衛は、しばし動きを止める。
金属音で驚いて顔を上げた権兵衛は、二人の男の様子を見て、直ちに察する。
『すげえ。やっぱあいつは。遂に受けられる様になりやがった。こりゃ、俺も早くしねえと』
興奮しながら、権兵衛は手元の作業を急ぐ。
動きが一瞬止まった朔兵衛に新之助は、反撃の横薙ぎを放つ。
「ちっ。」
舌打ちしながら、横薙ぎを迎える為に、刀を構える朔兵衛。
ギンッ!
先程より大きな金属音が響く。
「ちっ。」
今度は、受けた朔兵衛が僅かに下がる。手が痺れて居る。それが、朔兵衛をイラつかせる。そこに次の斬撃が届く。それもまた受けるが、今度も弾き返せない。
このままでは、追い詰められると朔兵衛も打って出る。が、受け止められ、いなされる。間髪入れずに反撃が飛んで来る。
双方、受けては返し、受けては返しを繰り返す。響き合う金属音の重さと二人の迅さは尋常では無く、権兵衛はただ見ほけている。
『この小僧、急になんじゃ?剣の質が化けやがった。迅さが変わらねえのに重い。何より、こいつが静かで起こりが読めねえ・・』
朔兵衛は、攻防を繰り返しながら新之助の急な剣の変化に戸惑う。対峙している小僧は無心の表情で自分に襲い掛かってきている。朔兵衛は、空恐ろしさを覚えた。この久方ぶりの感情は、赤鯱頭目と対峙して以来であった。
「ほう・・。」
響き合う金属音を聞きながら、太陽と真向かいの林に陣取る男が感心の声を上げる。
「朔兵衛と互角に渡り合うかよ。あの小僧、また強うなったのう。やっぱ、おもしれえ小僧だの。」
男は、顎を撫でながら独り言つ。この男は、先刻、細田彦兵衛、保次郎を朔兵衛から救い、下山させた人物である。
『ほうか。こいつ、俺を斬るのを諦めたようやな。己を消して刀に委ねて刀に斬らせようとしてんのか。やはり名刀の類か。う~む、欲しい。こいつを殺したら俺のモンじゃ。しっかし、俺と斬り合いながら刀に委ねるとは、肝が座っておる。ホンにおしい‥。』
尚も斬り合いながら朔兵衛は、分析を行う。
「あの小僧の腕では、賢い判断だな。」
二人を眺めている男は、呟く。
「しかし・・。」
独り言を続けながら、顎に手を当て、眼を輝かせている。
「ぐっ。」
響く金属音。弾かれる朔兵衛の刀。朔兵衛は、大きくのけぞる。
体勢を整えるより前、新之助の刀が迫る。
「ちっ。」
急ぎ、刀を迎え打つ。
金属音と共に、弾かれ更に下がる、朔兵衛。その後も二合三合と刀を交えるが、全て朔兵衛は弾かれ、何とか凌いでいた。
『こりゃ、ちとキッツイのう‥。』
流石に朔兵衛も弱音を見せる。その腕は、痺れ始めていた。遂に二人の攻防は、完全にひっくり返っていた。ただその眼は鈍く光を放っている。
更に新之助は、斬り込み続ける。金属音が炸裂する。
『このままじゃ、俺の刀がもたん・・。まだか・・?』
何とか、新之助の猛攻を弾かれながらも受け流している朔兵衛は、欠けた箇所が増えた自分の刀を見ながら、焦りを隠せない。
下がりに下がって、遂に朔兵衛は、直ぐ背後に激流を背負う事となった。
「ちっ、背水かよ。いよいよまじいな・・。」
朔兵衛は、後ろの激流を感じ、始めて弱音を口に出す。
『すげえ、すげえ。新は、ほんにただもんじゃねえ。こりゃこのまま・・。いけっ新!』
権兵衛は、先程迄の動きを止め、見入っている。
「さて、そろそろか・・。」
林から眺めている男は、新之助の様子を見るにつけ眼を見開く。
ごくりと、喉をならす権兵衛。いよいよ決着がつきそうな予感に震える。
新之助が、ゆらっと動き出す。朔兵衛は、背中に冷たいものが走るのが分かる。
一歩踏み出す、新之助の動きが止まる。
「新っ?」
突然の事に、権兵衛は言葉が出ない。
「がはっ!」
次の瞬間、新之助は、激しくせき込み、その場に手を付き、しゃがみ込む。そしてそのまま大量に吐血する。
その様を見ていた朔兵衛は、口元を歪める。
「やっと、きおったわ!この時を待っていたんじゃ!こんな傷だらけで、そんなにいつまでも動ける筈が無いんじゃ。しっかし、ここまでとは、あやうく算段が外れたかと思うたわ!」
一気に捲し立てながら、改めて刀を握る。
「新・・。新っ!立てっ!新っ!」
権兵衛が、うずくまっている新之助に声を掛ける。
その声に反応したのか、ゆっくりとふらつきながら新之助は立ち上がる。
「ほう・・。立つかよ。しかし、もう・・。」
林の男は感心しながらも終わりを確信していた。
朔兵衛は終わりを告げようと、一気に間合いを詰める。
「まずいっ!新っ!」
再び声を上げる権兵衛。
それに応えるように顔を上げる新之助。しかし腕に力が入らず刀を上げられない。その眼に力は無く、口端から血が滴っている。
間合いを詰めた、朔兵衛は刀を振り上げ、袈裟に斬りつける。
「新っっ!!」
権兵衛の声がこだまする。
新之助は、左肩口から右腰まで一直線に着物事斬られて、血が吹き出す。
第二十六幕【了】
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