第二十五幕 奮戦
第二十五幕
「失礼致します。準備が整いました故。おこしくださいますよう。」
小春の座す、化粧の間の障子から侍女の声が掛かる。
小春は、眼を閉じて口からふうっと息を吐くと眼を開けゆるりと立ち上がる。
宴の準備が整っている広間では、正木小五郎をはじめ正木家の面々と一ノ瀬家が向かい合わせで座している。本来ならば、里の家老職の正木家と一侍大将の一ノ瀬家では、格が離れているため同席することなど在り得ない。それだけで、小春の父寛治の喜びようは、伺い知れる。対して団十郎の父小五郎は、見るからに落胆の色が伺える。ここまで、近隣豪族の姫を息子の嫁にと奔走し段取りしていた事が無駄になってしまっては、致し方無い。
広間の上座には正木団十郎が直垂にて座し、その後ろには、紅い縁取りがされた金屏風が立てられている。
宴の間は、程よく沸いており、宴の始まりを待っている。
そこに、広間上座側の襖が静かに開かれ、花嫁が団十郎の隣に腰を下ろす。その様にどの者も眼を奪われ、息を呑む。それには、落胆していた、小五郎も含まれている。団十郎と言えば、顔が綻ぶのを必死で我慢している。それほどに花嫁姿の小春は光を放って居た。
照山の川は、雪融けが始まった事もあり水量は増し、流れもごうごうと音を立てる程である。
権兵衛は、川の水を口に含み、勢いよく顔を洗っている。周りには、ゴロゴロとした大きな石が転がり、草木は生えておらず、見渡しが良い。こんなところに居たら直ぐに見つかるのは分かっているが、喉が張り付く様に乾いていた事と、顔に付いた血の匂いを取りたかった為、川の流れる音を聞くにつれ、川原に出てしまった。
雪融け水は、流石に冷たく、手や顔の感覚は失われ、喉を通った水が腹に抜けていくのを感じる。火照っていた身体は、一気に冷めていく。
「ふう」と一息吐き、立ち上がり再び藪の方へ向かおうと振り返る。
しかしそこには、朔兵衛が立って居た。
「よう。悠長に顔なんぞ洗って、大層余裕じゃのう。」
思わず下がる権兵衛、咄嗟に懐に手を入れる。
その刹那、権兵衛の胸に向かって何かが高速で飛んで来る。身体を捻りながら何とか躱すが、川原の石に足を取られ体勢を崩す。
「もう一人の小僧を、呼ぼうってんだろ?させねえよ。あの小僧がいちゃ、ちと厄介なんでな。」
朔兵衛は、手元の何かを引っ張りながら、言い放つ。
改めて、その手元をみるとそこには、黒々とした鎖分銅がある。
我ながら、良く躱せたものだと己で感心しているが、全身が冷たく粟立つ。それもそのはず、玄武館では、実戦で使用するであろう槍や薙刀、弓矢等の武器の扱いや対処方法を学んで来たが、鎖分銅は、学んでおらず、実際に使用するところも初見である。まして、それが朔兵衛程の使い手となると震えて当然である。
「楽に逝かしてやりてえが、久々に使うからよ、思わぬ所にあたったら勘弁してくれや。」
朔兵衛は、手繰り寄せた鎖分銅を右手で回している。回る鎖分銅が空気を重たく叩いている。
権兵衛は、もう一度懐に手を入れる。が、無い。いくらまさぐっても草笛が手に触れない。どうやら、先の分銅を躱す際に落としたらしい。周りを見渡すが、草笛になりそうな物は生えて居ない。直ぐ右後方には、急流があり藪までは、三十歩程先にある。
権兵衛は、いよいよ肚を据え、刀に手を掛ける。
刹那、風切り音が響き、権兵衛はまたも身体を捻り何とか黒い分銅を躱す。
「おっと、すまねえ。刀を抜くのを待てば良かったかよ?」
放った分銅を手繰り寄せながら、朔兵衛が言う。それにしても権兵衛の眼には、朔兵衛が分銅を放った様に見えなかった。放つ者が微動だにせず、放たれてくる分銅を相手にしなければならない。
「良いぜ。抜きな。」
分銅を回しながら、朔兵衛が権兵衛に促す。
権兵衛は、朔兵衛から眼を離さず、ゆっくりと刀に手を持っていき、一気に鞘から刀を抜き放つ。
朔兵衛は、ニヤッと口角を上げ、権兵衛を軸に右にじわじわと回っていく。
それに合わせ、必然と権兵衛は左に向きを変えていく。すると権兵衛は川の水を背負う事になってしまった。
『くそっ』
心の中で舌を打った、権兵衛の背中に冷たいものが流れる。
更ににやつきながら、朔兵衛は分銅を回している。
背中にある急流の轟音と眼の前にある分銅の風切り音が権兵衛を追い詰めていく。
『どうする?どうする?このままじゃ殺られる・・。考えろ、考えろ!』
そんな権兵衛の脳裏に、不意にお鈴の顔が浮かぶ。
「さあて・・。」
朔兵衛はいやらしく言い放つと分銅を回す速度が明らかに増した。
『来るっ!』
権兵衛は、刀を握る手に力を込める。
その様を確認したかのように、朔兵衛は分銅を投げ放つ。
一気に黒塊が眼の前に迫り、権兵衛は思わず刀で受ける。金属のぶつかる音と同時に分銅の鎖が受けた刀に巻きつく。
またもにやつく朔兵衛。
「取った。」
言いながら、鎖を引っ張る。グイっと権兵衛の手から刀が放れる。そのまま前方に身体も引っ張られた勢いに任せ、権兵衛は前のめりになりながら朔兵衛に向かい駆けていく。駆けながら、権兵衛は、小太刀を抜き放つ。
「うおっ!?」
目の前の小僧が詰め寄って来る事を予期していなかった朔兵衛は流石に声を上げる。グングンと間を詰める権兵衛は身を低くして朔兵衛の腹を狙う。
『こいつも中々‥』
権兵衛の迅さに驚く朔兵衛。権兵衛の持つ小太刀が、自分の腹の手前まで迫っていた。
『クソがっ!』
鳴り響く金属音。
二人の足元に権兵衛の太刀を飲み込んだ鎖分銅が転がっている。
朔兵衛は、鎖分銅を放し、太刀を鞘から斜めに抜き、腹を狙ってきた小太刀を受け止めていた。
朔兵衛は、直ぐに体勢が前方に突っ込んでいる権兵衛の腹にめがけて前蹴りを出す。しかし権兵衛は直ちに察知し、両腕を下げながら後方に下がる。下げた腕に重たい衝撃が走る。何とか蹴りを受け止め、そのまま更に後方に下がる。蹴りを受け止めた腕がしびれている。
『こいつまた・・・。分銅の時と良い、反応が異様に早え。もう一人の小僧だけかと思ったが・・。しゃあねえ・・。』
権兵衛に感心しながら、朔兵衛は太刀を鞘から抜き放つ。
「まっさか、刀を抜かされるとはよ・・。」
言い放つと、朔兵衛の纏う氣が圧を増す。
『こりゃあ、まじいぞ・・。新、どこじゃ・・。何とかここに居ることを知らせんと・・。』
権兵衛は、朔兵衛の圧に呑まれまいと踏ん張る。小太刀を握る腕が蹴りを受けたしびれの為か、震えている。
「さあて、そろそろ逝ってくれっか?」
そう言いながら、徐に間合いを詰めていく朔兵衛。権兵衛は、直ちにしゃがみ、何かを掴んで無防備に近づく朔兵衛に投げつける。
「うおっ!?。」
朔兵衛は、自分の顔面に飛んできた無数のモノを腕を上げて防ぐ。どうやら、石を投げてきたらしい。
「礫かよ・・。」
舌打ちしながら、刀を握り直す。朔兵衛の間合いを詰める速度が緩む。
投石、礫、印地打ち等呼ばれるが、石を投げる事が、この時代には列記とした戦法として存在していた。かの武田信玄の二十四将に挙げられる、小山田信茂も投石部隊を用いて合戦に当たったと伝わっている。尤も、合戦で用いる時には、布で石を飛ばしたり、網に大量の石を入れ網事投げるといった方法を取っていた。とにかく苦し紛れに石を投げる事も相手を苦しませる戦法になり得るという事である。それにここは川原、石だけは大量に転がっている。
「くそっ!また」
権兵衛は、また朔兵衛に掌一杯の小石を投げつける。顔面に当たる事は防いでいるもののいよいよ間合いを詰める事が出来なくなっていた。
『そう思ってんなら、次に投げてきたら、それに合わせて一気に詰め寄り切り捨てる』
そこは、朔兵衛、来ると分かっている投石などそれに合わせて身を躱し、間合いを詰める事など容易い。また投げくるように誘いの反応を取っていた。
案の定、権兵衛は、またしゃがみ、石を拾う。
『よーし。そうだ。いい子だ』
その様をほくそ笑み朔兵衛は、眺めている。
『んっ!?』
目の前の小僧が投石を仕掛けてくるものと踏んでいた朔兵衛の眼には、思いも寄らない光景が眼に映り、明らかに戸惑う。
それもそのはず、目の前の権兵衛は、両手で抱える程大きな石、いや岩を掲げ挙げている。
「おいおいおいっ。そんなの当たると思ってのか!?」
その滑稽な様に朔兵衛は、笑いながら声を掛ける。
それには応えず、真剣な表情で岩を掲げ挙げる権兵衛。
『しゃあめえ。これで終いとするか・・』
面食らったものの飛んで来る石の大小に関わらず、やることは変わりないと、朔兵衛は気を取り直す。
いよいよ、権兵衛は岩を投げようと両腕、両膝を屈める。
「うおおりゃあぁ!」
『んっ!?』
投げ終わりの隙を待っていた朔兵衛の眼にまたも思いも寄らない光景が入ってくる。その刹那、反応が遅れる。権兵衛が、投げる瞬間、朔兵衛から身体を外し川の方へ岩を投げたのである。
「糞がっ!」
何かに気付いた朔兵衛が、悪態を吐きながら、地面を蹴る。
岩は、川に大きなしぶきを巻き、山に水が弾ける音を響かせる。その水しぶきを浴びる権兵衛に、一気に間合いを詰めた朔兵衛が袈裟に斬りかかる。
権兵衛は、小太刀を迎撃の構えに上げる。が、腹部に重たい衝撃が走る。
「がっ!」
権兵衛の腹に朔兵衛が、鋭い蹴りを放っていた。その衝撃で二、三歩後ずさりし、膝を付く権兵衛。そのまま、吐しゃ物を吐き出す。その中に、血が混ざっている。口の中が鉄の味がする。
『くそっ、あばらがやられた・・』
息をする度に腹が軋んで激しく痛む、息が細く苦しい。そこに足音が近づいてくる。
朔兵衛は、止めを刺そうと太刀を振り上げる。権兵衛は、防ごうにもどうにも身体がいう事を効かない。ただの一撃でそうさせる、それほど朔兵衛の膂力はすさまじい。
『これまでか・・。くそっ、新・・。お鈴・・』
流石に観念し、眼を瞑って斬られるのを待つ。
「オメエは良くやったぜ。せめて楽に逝かせてやる・・。」
朔兵衛は、権兵衛に静かにつぶやき、振り上げた太刀を振り下ろす。
「ぐっ!」
刹那、朔兵衛の動きが止まり太刀は、権兵衛の項直上で止まっている。
朔兵衛の口から一筋の血が流れる。そして、右頬が腫れ上がっている。どうやら、朔兵衛の頬に投石が当たったらしい。
『・・・生きている』
朔兵衛のうめき声で、眼を開けた権兵衛は、自分の起きた事を吞み込めない。
「誰じゃっ!?」
朔兵衛は、投石があった右方向を向き怒号を上げる。すると、藪からガサガサと新之助が現れる。
「新・・。」
その姿を見て、かすれた声を上げながら、権兵衛は涙ぐむ。
「権、すまねえ。遅くなった。」
歩を進めながら、新之助は、膝を付いて居る権兵衛に声を掛ける。
「新っ・・!」
権兵衛は、その声に応えるように何とか立ち上がり、朔兵衛の制空権から放れる。
朔兵衛は、面倒な奴が来おったと舌打ちをする。警戒をしていたのは、飽くまで新之助であり、朔兵衛としては、新之助が来る前に権兵衛を仕留めて置きたかったのである。
権兵衛は、朔兵衛が新之助に気をとられている今の隙に後ろに下がる。が、その腹は軋み背筋を伸ばせない。
手には、幾つかの小石を握りしめ歩を進める新之助。その内に握っていた小石を手放し、刀に手を掛け鞘から抜き放つ。
それに呼応するように朔兵衛の氣の圧が一気に増す。
『しっかし、どうする?新が来てくれたとはいえ、この男は、今までの賊達とケタが違え。それに加え、新はどう見てもさっきの男にやられたんが、抜けて居ねえ・・。俺もまともに動けねえ・・。どうする?何か手を打たんと・・』
二人の男が互いに迫る中、権兵衛はうずくまりながら、必死に考えを巡らす。それもそのはず、明らかに新之助の足取りは覚束かず足元の石に足を取られ、ふらついている。呼吸は荒く喘鳴、顔色も青白い。しかし、それでも新之助は歩を進める。死地に躊躇なく向かう新之助の姿をただ観る事しかできない権兵衛であった。
第二十五幕【了】
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