第十八幕 小春日和
第十八幕
稽古の帰り、小春は城に続く、橋の上でしゃがみ川を眺めていた。河原の彼岸花はすっかり枯れはて、あの日新之助と眺めていた、子ども達の声は聞こえない。川の音が寒々と続く。
「そんなところに居たら風邪を・・。」
小春は、声の方へ勢い良く顔を上げる。
「おわっ。」
声の主は、急に小春がこちらを向いたので驚きの声を上げる。
「正木様・・。」
顔を上げた、小春はまた川に視線を落とす。
「そのように、がっかりされなくとも・・。誰かと間違われましたか?」
頭を掻きながら、正木団十郎は、小春の隣にしゃがみ込む。
「そのような事は・・。正木様こそこんなところに居たらお風邪を召しますよ?」
小春は、正木の方を見るでもなく応える。
「はっはっはっ。ご心配には及びませんよ。それよりそろそろ正木様というのは、止めてもらえませんか?団十郎とお呼び下さい。」
正木は、小春の方に熱い視線を向ける。
「いえいえ、正木様は正木様です。」
小春は、正木を見ない。
「しかし、当家に嫁ぐのにいつまでも嫁が正木様というのは、どうも・・。」
「はあ。でもまだ正式に嫁いだ訳ではありませんので。」
「何とも頑固な方だ。まあそこが良いところだが・・。」
『ホントにめげない男だわ』
小春は、川から視線を外さず思う。
「・・イネに大分絞られているそうですね?」
「そうですね・・。」
「全く、親父殿にも困ったものだ、小春殿にはそのような事は必要ないと言ったのに・・。イネに預けると聞かんのだから・・。直ぐに止めるように説得します故。今、しばしの辛抱を。」
「でも、お父様が正しいと思いますよ。正木家は由緒正しいお家柄、そこの嫁になる女が礼法、作法をおろそかにするのはもっての外。」
「おおっ。まさか小春殿からそのような言葉が聞けるとは!某も小春殿の夫として相応しい様に精進せねば。」
一人盛り上がる正木を尻目に小春は、冷静に。
「ただ、それと私が合っているかは、別です。凜様の方がよっぽど正木家の、ううん団十郎様の細君には相応しいと思います。」
「えっ!?今、何と!?」
「だから、凜様の方が正木様のお嫁に相応しいと。」
「違います。名前・・、今、団十郎様と・・。」
小春は、どこまでも話が通じない団十郎に怒りがこみ上げる。
「ちゃんと聞いてください。私は、正木家の嫁に相応しくないと思っています。舞、お茶、礼法、作法、所作、どれも私には向いて居ないし、きっと正木家に迷惑を掛けます。それに比べ、凜様は、どれをとっても私とは比べ物にならない。昔から正木家と団十郎様の事を良く知っていて、見目も見事。正木家に相応しいのは、凜様です。」
初めて、小春は正木の方を向いてまくしたてる。
正木は、その小春を黙って見つめる。
「小春殿。」
「はい?」
「小春殿は、凜と比べて落ち込んでいるのですね?」
「はいっ?」
小春は、『ダメだこの男は‥』と再び川に視線を落とす。
「小さい頃、某は、剣がそれはそれは弱くて・・。」
「急に何の話を!?」
「まあ。聞いてください。」
「はあ・・。」
「某は、正木家の嫡子としてそれは厳しく育てられました。兵法、学問、武術、正木家次期当主に必要なありとあらゆるものを叩きこまれていきました。・・・しかし某は、それが嫌で嫌で、特に武術、剣が嫌いでした。どんなに剣を振っても振っても、手の皮が剥けても、打ち据えられる。毎日毎日、泣きはらしては、何故こんな事を?と自分の身の上を嘆いていました。」
重い雲色から小雪がちらつき出す。正木は、白い息を吐きながら話しを続ける。
「ある日、某は全てが嫌になり、全ての稽古を投げ出して屋敷から逃げ出しました。しかしそこは子ども、何処に行くとも当てが無く、河原に座りただ川の流れを眺めていました。丁度そこのところで。」
言いながら、正木は、少し先の河原に指を伸ばす。小春は、その先に視線を移す。
「あの日も、今日の様にとても寒く、小雪が舞っていました。それでも某には、寒さを感じる事は無かった。寒さどころか何も感じていませんでした・・・。」
河原に膝を抱えている幼い正木。ただ一点川の流れを見ている。その小さな身体に小雪が落ちては消えている。
直ぐそばには、近所の子ども達が、寒さに負けじとはしゃいでいる。正木は、その声を遠くに聞き、ただ座っている。
「何をしているの?」
急に声を掛けられ、正木は身体を震わせ、声の方へ視線を向ける。視線の先には、女子の服を着ているが、袖と裾を捲し上げ膝もあらわになっている自分と同じ年ごろの女子が居た。自分に向けられている眼は大きく、玉の様に光っていた。
正木は、自分に向けられている視線から逃れるように顔を背け
「別に・・。」
「あっちに行って、一緒に遊ばない?」
言いながら、女子は正木の隣どかっと座る。驚いた正木の鼻を付いたのは、少しの土の匂いと花のようなほのかな甘い香りである。正木は、わずかに胸の鼓動が早くなったが、それに戸惑い、女子から少し身体を離す。
「某は、正木家次期当主になる男、その方らのような市井の者と遊ぶなど・・。」
「わっ、怪我してるじゃない!どうしたの?」
女子は、正木の話しを遮り、正木の手を取る。
「触るな!」
慌てて手を引っ込める正木であったが、自分の手に感じたことのない柔らかい肌の感触が残っていた。胸の鼓動は更に高鳴っている。正木は、女子の顔に視線を向けられない。
「良いから。見せなさい!」
引き下がらない、女子に押され、渋々皮という皮が剥けている手を女子に差し出す。何でこの女子はこんなに自分に世話を焼いてくるのか?不思議に思い、女子の顔に改めて視線を向ける。
女子の顔は、まだまだ幼さがあるも目鼻立ちはハッキリしており、肌も多少土汚れがあるが雪の様に白い。正木の刻が止まる。
「これは、ひどい・・。どうしたらこんなに?。」
「剣の稽古じゃ。某は、強い武士にならねばならぬ。剣を振って振って、強くならねば・・。」
何故か、正木の顔を大粒の涙が次から次へと落ちる。それを黙って見守る女子は、正木の手を優しく包みこむ。
「そう・・。偉いのね。」
「偉い!?」
意外な言葉をかけられ、正木は、涙で濡れた顔を女子に向ける。
「うん。だって、手がこんなになるまで頑張っているんだもん。偉いよ。誰にだって出来る事じゃないわ。」
氷漬けになった心に陽光が差すように、正木は、女子の言葉を聞いている。いつのまにか、涙は止まっていた。
女子は、自分の帯に結んでいた小袋に手を伸ばし、中から小箱を取り出す。小箱を開けると白色透明の軟膏を指に付ける。
「何をっ!?」
「良いから!良く効くんだから。剣術の先生しているうちの爺様が調合した、秘伝の薬。私の周りで良く怪我する奴がいるから、いつも持ち歩いてんの。」
女子は、軟膏を正木の手の平に塗っていく。正木は、はじめに痛みが走り、身じろいだが、軟膏を自分の手に丁寧になじませていく女子の手の感触に、痛みも和らぎ、身を委ねている。
「はいっ!これですぐに良くなる!」
軟膏を塗り終わり、女子は小箱を小袋にしまう。自分の手を眺めている正木。その手は、軟膏でなのか輝いて見え、温かい。
「某は、偉いのか?」
手を見つめながら、正木が独り言つ。
「うん。偉いよ。だって強いお侍様になって私たちを守ってくれるんでしょ?」
「守る?」
また、自分の中で意外な言葉を聞いて、女子に目をやる。正木の前に居る女子の眼は尚も大きく輝いている。
「うん。私たちを。その為に、強くなろうとしてるんでしょ?」
「守る・・。某が・・。」
正木は、再び皮の剥けた手を見つめる。
「だから、私たちが安心して遊べるの。お侍様のお蔭。」
「そなた達を、某が守る。」
「うん。それがお侍様のお役目でしょ?爺様が言ってた。」
正木は、もう一度女子に顔を向ける。やはり女子の眼は輝いている。温かい輝きに感じる。
「そなた、名は?」
「小春ー。」
後方から別の声が迫ってくる。
「小春ー。」
振り返ると、泣きながら小柄な男子が走り寄ってくる。
「新っ!どうしたの!?また泣いて」
女子は、立ち上がり泣いてきた男子に駆け寄る。
「権が、権に・・。」
男子は尚も泣きじゃくり女子に訴える。
「また権兵衛にやられたの?しょうがない。」
女子は、男子の手を取り、遠くで騒いでいる子どもの群れに向かおうと駆け出す。
正木は、その背中を黙って見送っていた。急にその背中が振り返り、
「お侍様、きっと強くなって私たちを守ってねー。」
正木に手を振り、女子の背は遠くなっていた。再び一人になった正木は自分の手を見つめ。
「某が守る。そなた達を・・。そなたを・・。小春。」
「某は、あの時に救われ申した。ただ辛い日々に大義が生まれた。」
豆だらけになった自分の手の平を愛おしそうに見つめる正木。
「そして、里を守れるよう強くなろうと稽古に励みました。いつか、守れる程強くなったら迎えに行くと心に決めて。」
正木は、言いながら小春の方に向き直る。
「まだまだ、弱輩の身かもしれませんが、御前試合で勝ち残りを果たし、小春殿を守る為に、婚姻を申し込みました。」
「そうだったんですか・・。でもそんな昔の事・・。」
「ええ。小春殿は覚えていらっしゃらないでしょうが。某の胸にはハッキリと刻まれていました。そして、この時を迎えられて某は、身の引き締まる思いです。」
「はあ。」
「時を重ね再び目にした小春殿は変わらず、いや、一層優しく美しく輝いていました。だから、某としては、舞やお茶、礼法などが出来なくても一向に構わないと思っております。小春殿がそのままで居てくだされば充分です。」
小春は、返事に困り黙っている。小春の胸は多少の鼓動の高鳴りがある。今だかつて、そんな事を異性から言われた事が無く、戸惑っていた事もあるが、ここまで褒められ嬉しく思う気持ちもある。そんな自分の心の扱いに窮していた。
「ややっ!思わず、また一方的に想いを話し込んでしまいました。冷えが厳しくなってきている。大事なお身体に障ります。送ります。」
二人の周りに振る小雪の量が明らかに増えてきていた。
「いえ。大丈夫です。ここから、家は直ぐ近いですし、正木様のお屋敷とは反対方向です。自分で帰ります。家のものも正木様に送ってもらったとあれば、大騒ぎになります故。」
「そうですか・・。では、これを懐に。」
正木は、懐から紺色の手拭いを取り出し、小春に手渡す。
手拭はほのかに温かい。である。
「ですが、これを頂いては、正木様が冷えます。」
「良いのです。自分の冷えを嘆き守るべき小春殿に寒い思いをさせることこそ名折れとなります。某の為と思い、お持ちください。」
「では、有難く。」
小春は、温石を自分の懐にしまう。懐の中が早速温かい。どこまでも真っ直ぐな想いをぶつけてくる正木の想いが懐に入っているようである。
その様を満足気に見届けた正木。
「では、これにて御免。」
頭を深々下げ、橋から遠ざかっていく。それを見送る小春は、懐の温かさに手を当てていた。それに気づき慌てて手を放し、正木と反対方向に足早に歩き始める。
一ノ瀬の家までもう少しの所で、沢山の籠を担いだ新之助が歩いてくるのが目に入る。
新之助も小春に気付いたようで、小春に近づき目の前で止まる。
「よっ、帰りか?」
問われて小春は、小さく頷く。懐の温かさが何となくバツが悪く、新之助の顔が見れない。
「新は?」
「俺か?俺は、父上が編んだ籠を売って歩いてるが、さっぱりでのう。」
新之助の背には、大量の籠がひしめき合っている。小春は、思わず吹き出す。
「新は不愛想で口下手だから、商売向いてないもんね。」
「大きなお世話じゃ。」
小春の眼に新之助の袖から前腕が映る。そこには、痣が模様の様に見える。
「また、こんなに怪我して・・。」
小春は、痣模様の腕を握る。
「ああっ。お前の爺様の道場でしごかれているからな。」
「最近は、熱心に通って稽古に励んでいるっておじいちゃんが言ってた。頑張ってんだね。」
言いながら、小春は、新之助が少し見ぬ間に大きくなっていると感じた。以前は、少しの差で小春が大きかったが、今は頭一つ分、新之助が大きくなっている。背丈だけでなく、身体全体が大きくなっている。肩幅、胸板、腕の太さが小春の知っている新之助のそれではない。
二人は、御前試合が終わった後から一度も逢っていなかった。
小春は、新之助に男を感じた。
一方新之助も、久方ぶりに逢う小春に女の匂いを感じていた。
「お前こそ、毎日、踊りやらお茶やらを仕込まれて苦労しとると聞いとるぞ。源爺が毎日愚痴を聞かされて敵わんと嘆いとったぞ。」
「爺様は、また余計なことを・・。」
「偉い武家に嫁ぐのは大変なんじゃな。黙ってても良い暮らしが出来ると思っとったが。」
「うん。まあ・・。」
小春は、俯きそっけない返事を返す。珍しく二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
「しっかし、困ったのう。この籠を売らねば、我が家は年を越せぬと父上に言われたんだがなあ。」
沈黙を破るように新之助が口を開く。
「そっか。新の家も大変だね・・。あっ、良いこと思いついた。ちょっと。」
小春は、新之助の腕を引っ張り、一ノ瀬家とは反対方向、城下の方へ歩き出す。
「なっ、何処に行くんじゃ?」
「良いから。こんなところじゃ人も居ないし売れないよ。」
新之助は、言われるがまま引っ張られていく。そしてこの感覚がひどく懐かしく感じていた。それは、小春も同様であった。
里の城の程近くでは、小さいながら市が開かれており、人通りもそれなりといった感がある。そこに連れてこられた新之助はようやく止まった小春から解放される。
「さて。ここで、新は籠を広げて売って居て。後は、私が上手くやるから。」
言いながら、小春は、新之助に背を向けて遠ざかった行く。
「おっ、おい。上手くやるって・・。相変わらず勝手な奴じゃ。」
文句を言いながら、渋々籠を下ろして、道端に広げ始める。
籠を広げ終わったところで、相も変わらず人が籠を見に立ち止まることは無い。ただただ人の流れを見送っていると、自分の方に向かってくる足音が聞こえる。
「あっ、これこれ!ようやく見つかった!」
市全体に響くような大きな声を上げながら小春が籠に向かってくる。その声に市に居た人間が一斉にこちらを向く。
「これだわ!かの熱田神宮と深いご縁がある籠職人が作った籠!これの中に食べ物を入れて年を越すとその年には、食べ物に困らないばかりか、商売も繁盛するっていう籠。ずっと探してたのよ。」
籠を手に取り、小春は大仰に捲し立てる。
「おっ、おい!」
新之助は、そんな小春に小声でたしなめる。
「良いから。」
小春も小声で新之助に返す。
そうこうしている内に「なんだ。なんだ?」と籠屋の周りに人が集まり出す。
「死んだ、爺様が商売で大損して借金で毎日食うや食わずていた折に、人からこの籠をもらって、みるみる商売繁盛、借金も跡形もなく返せた。って言ってた。今、私の旦那の商売も上手くいっていなくて、各地を周り、ようやく見つけた・・。」
ついには、泣く芝居をする始末。袖で隠した顔を新之助にのぞかせて目配せをする。呆気に取られていた新之助であったが、生唾を飲み込み、意を決する。
「そ、それは、それは、奥方様。遠路はるばるご苦労様です。良くぞ見つけてくださいました。申す通りこちらが、かの熱田神宮が所縁の籠、霊験あらたかな、有難い籠にございます。」
「おおっ!やはり。これは、目出度い。」
二人の芝居に周りに集まった観衆もどよめく。
「して、これは如何ほど・・?霊験あらたかな籠。さぞやお高いんでしょう?」
小春が、上目使いで新之助を眺める。二人の間に沈黙の間が出来る。ここで、観衆も息を呑む。
「皆様が気持ちよく年を越せるように、普段は百文のところ、何と三十文とさせて頂きます!」
「まあ、何と安い!くださいませ。」
小春が、言終わる前に、周りに居た観衆が押し寄せ、我先にと手を伸ばし、籠を買い求めた。
「上手くいった。上手くいった。」
湯気が出て居る、饅頭を頬張りながら満足気に小春は、発する。
「全く、お前は、何をしても生きていけそうじゃな。」
隣で、同じように饅頭を口にしながら新之助は話す。籠の完売の礼として新之助は小春に、饅頭を買ってあげた。
二人は、市から少し離れた小さな神社の参道の階段に並んで座っている。
「まさか、新があんなに芝居が上手いとは、思わなかったわ。あれが無かったら、こんなに上手くいってなかったよ。」
「ありゃ、お前に引っ張られて仕方なくじゃ、夢中で良く覚えとらん。」
「にしては、上手かったよ。見直した。」
小春は、新之助の頭を細い指でつつく。
「褒めても、もう何も出んぞ・・。」
「なあんだ。じゃあ、もう褒めるのやめよう。」
言いつつ笑顔で、饅頭を噛みしめる。
「でも、楽しかった。こんな楽しいのは久しぶり。」
小春は、いつの間にか懐の温かさを忘れていた。
「ほうか。そりゃ良かった。」
新之助も小さくなってきた饅頭を頬張る。
重たい雲間から柔らかい陽光が二人の背中を温める。舞っていた小雪が陽光に照らされ、光の塵として二人を包む。
第十八幕【了】
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