第二幕 橋の上
第二幕
息遣いの荒い3人の男達が、嫌がる女を抱えて山の獣道を急いでいる。
「コラ、暴れるんじゃねえ!おとなしくしてろ」
腕の中でもがいている女に一人の男が怒鳴る。女は猿ぐつわを噛まされて声を出せずにいる。今にも泣きそうな女をしり目に、男達は走り続ける。水の流れる音がする。やがてその音が大きくなり、河原に出た。河原といっても、山奥にあり、まだまだ水に削られていない岩がゴロゴロと転がっている。水の流れも、ここ何日かの雨によって濁流となっている。河原に出ると、お互いの話声も良くは聞こえない。
「よし!ここらまで来れば良いだろぅ!」
首領格の男の大声に男たちは、抱えている女を比較的平らな岩に寝かせる。女は、両手足も縛られており、満足に動けないものの必死に、もがいている。年は、十六、七と女盛りを迎えつつある。顔立ちは、目鼻がはっきりとしており、まだ幼さは残るが、凛とした美人である。
もがいた拍子に、着物から太腿が露わになる。その雪のように白い太腿を見て男たちは、生唾を「ごくっ」と音を鳴らして飲み込み、欲情に満ちた眼で眺める。
「こりゃあ、上玉じゃぁ」
首領格の男が言いつつ、女を組み敷こうと身を乗り出し、足の紐を切った。子分格の男たちは両側から女の手を押さえる。女は、首を何度も横に振りつつ、足で抵抗を試みるが、空しく男に掴まれ、拡げられてしまう。そのまま、女に覆いかぶさろうとする。女は、観念したのか目を瞑った。
ドサッ、と音がして自分の身体に重みが加わるのを感じる。いよいよ来たと心の中で思った。が、それにしても重いと眼を開けようとすると、
「ぐわっっ」
声が聞こえ、両手が自由になる。眼を開けると、自分の重みの正体が、子分格の男達が気を失って自分に倒れ込んでいるのが分かった。やっとの想いで、子分達を押しのけ、身体を起こすと親分格の男が、何者かと対峙している。
首領格の男は、背に背負っていた太刀を上段に構え威嚇する。対峙している男は、動じず中段に木刀を構えている。川の音が激しい。
「せいぃっ!」首領格の男が、太刀を振り下ろす。
太刀の切っ先がわずかに動いた瞬間、頬を木刀にて打ち込まれる。
「ほりゃあぁ!」
対峙したものは、叫びながら相手の頬めがけて木刀を横にただ払う。型も何も無く飛びながら木刀を振った。
ただ、その疾さが尋常なものではなかった。対峙していた二人の距離、二間余りを一瞬にて詰めた。頬を打たれた男の意識では、太刀を振り下ろしきっている。なぜ、自分が、地面の岩を舐めているのか理解ができない。ただ、音が『ヒュッ』、としたのは、はっきりと聞こえた。
バシッ、とまた音が鳴る。
「コラァ、このバカ新!あんたはいつもやり過ぎる!」
何故か助けてもらった女が助けた男の頭を小突いている。
「痛てェ、何すんだ!小春っ!」
頭を押さえつつ男、坂田新之助は叫ぶ。
それには無視をして小春が、倒れている賊達を介抱しはじめた。
子分格の一人は、眼を覚ますやいなや介抱していた小春の顔を見るなり飛び起きて後ろに飛び退く。その様子に小春は、驚いて動かず見守る。眼を覚ました子分格はそのまま首領格の介抱に向かう。一方、先程驚いていた小春はもうひとりの子分を抱き抱え起こす。直ぐに眼を覚ましたもうひとりの子分は、しばらくぼーっとしていたが、丁寧に小春に礼を述べた。
やがて意識を取り戻した首領格は、頬を押さえ新之助に向かい
「痛つつ・・、おまえが、山賊遊びをしよういうからやったが、おまえは、加減を知らんのか?」
「ほいだ、ほいだ」
他の二人は頷く。
「ふん、どうだか権兵衛、オレが見つけるのがもちっと遅かったら小春をどうするつもりやったか。」
「バ、バカ言え、何もしたりせんわ!雰囲気が大事じゃろうが、こういう事にわ」
「ほいだ、ほいだ」
言いつつ小春をちらちら見る権兵衛。小春は、新之助を睨み権兵衛の視線には気づかない。
「と、とにかく、もうお前みたいな悪鬼とは、遊びとうない。帰ぇるぞ」
「ほいだ、ほいだ」
「他に、お前ら言うことないんかい?」
「・・ほいだ、ほいだ」
「・・・無いんかい・・」
三人それぞれ、痛みのある場所を押さえつつ、その場を去っていく。
その様を見送りながら小春は、
「皆、ごめんねェ」と三人に叫ぶ。
くるっと、新之助に振り返ると、ほのかに女のかほりがする。
「こんなんだから、皆から、悪鬼や悪朗とか言われるんよ。何でも力任せに行くと孤立してしまうんだから。また、うちのじいさまに絞ってもらわないと。」
「い、いやだ、おまえのじい様の剣術なんぞ型ばかりでつまらん。そのくせ強くて敵わん。これでも、オレは力抜いてるつもりじゃが。だれも、怪我はしてねぇだろが。」
「そういう問題じゃない。力の使い方をちぃとは、学べと言うとんの。独りで生きていくことは出来んのよ。」
「う~ん、でも、身体が動いてくれ、使ってくれと聞かんのじゃ、力が湧いてきてしょうがねぇんじゃ。オレもどうすりゃ良いか解らん。誰かを傷めつけたいわけじゃねえ。他の者と違うのはオレも解っている。何かをせんといかん気もする。どうすりゃええんじゃか・・・。」腕を組んで悩んでしまった。
小春は、そんな新之助の様子を、何とも言えない眼で見つめる。そして、「ふふっ」と笑い、
「分かったから、もう帰ろう。」
新之助の手を引き里に向かい歩いていく。小春は、新之助の言うことを無理に理解しようとは思わなかった。新之助が人と何かが違うのは、傍で見てきている小春には分かり過ぎるくらい解る、が、どう違うかは小春にも解らない。いや解ろうとはしていなかった。小春にとって、新之助は新之助で有ることが何より大事であり、何者でも関係なかった。ただ、こうしている時が何時までも続いていけばいいと淡い想いを抱いていた。自分たちの年齢や、今の世がそれを難しくしているのを理解しながら・・。
新之助は、小春に急に引っ張られ、体勢を崩しながら、
「うわっ!コラ!急に、引っ張るな」
小春に足並みを揃えていく。二人は、山道に消えていった。
「はっはっはっ!」
大きな声で笑ったのは、小春の祖父、源右衛門である。今日山の河原で起こったことを小春から聞かされ楽しそうに笑う。
源右衛門は、代々伝わる古流剣術玄武流の伝承者である。体躯は五尺あるか無いかと小柄であるも、老いてなお盛んで血色豊かな顔色と纏う氣も満ち満ちており、傍にいるものも元気になる雰囲気がある。髪や顎に蓄えている立派な髭は見事な白銀色である。源右衛門は、この里の者ならば知らないものが居ない程の強者で戦では必ず、首級を挙げること十、二十は当たり前、しかも、相手の返り血を浴びることはあっても矢傷以外の自分の血は流さなかった。又、戦場での相手に向かう時の鬼の表情から返り血の修羅、『赤鬼』と呼ばれ、尊敬され畏怖された。
一時は、城の武術指南役を務めたが、今は後進に道を譲り、隠居生活を楽しみつつ、町道場を開き、力の余っている里の若者に剣術を教えて、何時いくとも限らない戦場にて生き残れるようにしている。そんな源右衛門の門下生に対しての口癖は
「何をしても生き残れよ、生きれば勝ちよ。殺すと思うな、生きると思え。」
であり、かつての赤鬼とは思えない言葉である。
これに対し愛孫小春には、「ただ戦場が怖かっただけ、敵とは言え、人を殺めるのはつらかった、だが生きてまた、家族に逢うために必死に人を切った。だから怖がる自分を鼓舞する為に鬼のような表情をしなければならなかった。儂は臆病者なのだよ。」と自嘲気味に笑っていた。こう伝える、かつての赤鬼を膝の上から見上げる幼き小春には、とても暖かく映った。小春は、この孫を溺愛する祖父の率直さが好きだった。
「もう笑い事じゃないよ、爺様。誰も怪我しなかったから、良かったものの・・まったく新の奴はいつまでも子供なんだから。」
「はっはっはっ、新之助はもう小春に尻に敷かれているようじゃの?」
愉快そうにまた祖父は笑う。
「そ、そんなんじゃないよ、ただ私は幼馴染として、いつまでも成長しないあいつが心配なだけ。」
顔を若干赤らめながら、小春が必死に否定する。そんな様子に祖父は優しく笑い。
「そういうことにしておこうかの。」
「もう、何それ。」
小春も何だかんだ、楽しそうに返す。
外は、中秋の名月にふさわしい金色の月が優しく照らしている。その傍らに、薄銀色の雲が気持良さげに浮かんでいる。庭には、秋の虫達の静かな歌が風に乗り、ススキ、彼岸花達が穏やかに揺れている。その風が開け放ちの部屋に秋のかほりを運んでいる。二人は、静かに秋の匂いを感じている。
トットットッ
母屋の方からこの離れに向かう足音がする。
「小春や、父上があなたにお話があるそうです。直ぐに父上の部屋まで来なさい。」
凛とした声が、二人の静寂を破る。
廊下から顔を出したのは、小春の母、お妙であった。
お妙は、小春の母だけあって、やはり美人の顔つきで、白地に桜の模様があしらわれた明るい着物にも負けない、華やかさがある。しかし、小春と違うのは、その華やかさを時に打ち消してしまう程の芯の強さ、厳しさをその眼に秘めている点である。今の母には、その厳しさが僅かに伺える。
「父様が・・、はい、伺います。」
小春は、何かを感じたのか神妙な表情になり、祖父に視線を向ける。それに、源右衛門は、何とも言えない眼でただ静かに頷いた。小春も決心したように、それに頷き返し、立ち上がる。
お妙は、養父に一礼して踵を返し母屋に戻る。小春もその後に続く。いつのまにか、風は止んでいた。
「父様、参りました。」
襖を開ける前に小春が声をかける。
「うむ、入りなさい。」
小春が、襖を静かに開けると、部屋の真ん中に、父、寛治が座っている。床の間には、源右衛門も着用した朱色の鎧兜が置かれている。寛治は、白髪交じりではあるが、まだまだ黒い髪を束ねており、口髭も黒々としている。体躯は、剣を嗜んでいる武士にしては、細身である。肌も白みを帯びている。その白い顔にほのかに火があたり、口を開くのが見える。
「以前、お前に話した事について、今日、先方から正式に申し出がなされた。」
「・・・はい。」
表情を変えず、ただ返事をする小春。
「これは大変誉な事ぞ、小春や、かの正木団十郎殿は馬廻りの中でも若くして時期家老に目されている鋭才。その正木殿がお前を見初めてこうして縁談を申し込んでくださっている。お前ももう今年で十七、輿入れ時期にもちょうど良い。」
「・・・。」
無言の小春。視線は真っ直ぐ父に注ぐ。ただ、膝上の手元はぎゅっと着物裾を掴んでいる。
その視線を真っ直ぐ見れずにやや視線を逸らしながら父は続ける。「・・何が、不足じゃ小春?正木殿は、その才もさることながら、お人柄も良く、人望も厚く若輩にして良く馬廻り衆をまとめている。城の老職連中も自分の娘を嫁に貰って欲しくて、お披露目会を催す程。また他国の姫様を輿に入れるかとの話も出ているくらいじゃぞ。その正木殿がこのいち侍大将の一ノ瀬家の娘、お前が良いと選んで下さったんじゃぞ。」
「・・本当にそれだけですか?」
言った声が震えている。
その声に、寛治はスッと、身を正し
「赦せ小春、嫡子がいない当家にとって、次期老職との婚姻関係が、どれだけ大切かわかるであろう?」
娘に必死に頭を下げる父。
その姿に、小春は眉をひそめて、我慢ならなくなり
「本当にそれだけですか!正木様の舅になれば、晴れて重臣に肩を並べられるからではございませんか?一ノ瀬家がではなく、父上が!」
「これ、小春、父上に何という事を。控えなさい。」
お妙が制する。
「良い。・・そうだ。父は侍大将として、このまま終わりたくない。どうにか立身出世をしてやると東奔西走して得た千載一隅の好機じゃ。儂には、才が無い。だからこうして一人娘の力を借りるしかない。しかし、それでも男子としての野望は捨てられんのじゃ。今まで、お前に不便な想いをさせた事はないはず。頼む、ここは、情けない父の為に受けてはくれんか。」
・・又、頭を下げる。
「・・ほんに情けない。」
小春は、小さくつぶやく。
小さな頃から、小春は源右衛門とは違うこの父の身勝手な率直さに嫌悪感を抱いていた。
寛治は、もちろん父源右衛門から剣の手ほどきは受けたものの、その才は乏しく、源右衛門も早々に兵法等の学問を学ばせた。
本人もそれは自覚しており、剣で直接人と切りあうより、多くの兵を指揮して戦を左右する兵法が性に合っていた。
そればかりか、兵法を学ぶにつけ、剣を軽んじ始めた。いくら一人が強くなろうとも、戦の流れは変わらない、むしろ多くの兵を導く兵法こそ今の世に必要なものであると。益々、兵法にのめり込む。
そんな姿勢が父、源右衛門との確執を生じさせた。
源右衛門としては、先の想いから剣が取れなくとも戦場で生き残れるように勧めた事が裏目に出る結果となった。しかし、寛治の悲しい処はその身分にあった。いくら自分が兵法を収めたとて自分は、兵を率いる身分に居ない。
また足軽が兵法を学ぶなどは何事と、戦う力もないくせにと寛治は父とは違い周りにとても軽んじられてきた。寛治は寛治で、兵法も知らない猪連中め、突っ込んで真っ先に死ねばいいんじゃ。と小馬鹿にしている始末。当然、その態度は、周りも見て取れる。益々生意気と、戦訓練の時には、寄ってたかって寛治を標的にした。傷だらけの帰り道に寛治は、悔しさと元々の性質にて、出世し兵を率いる野望を募らせていった。しかし、事実戦場では、寛治を苛めた足軽たちは、我先に突っ込み次々に戦死していった。寛治は、学んだ兵法のおかげか、どんなに負け戦にしても生き残った。弱くても死なない寛治は、徐々に名が知られるようになる。それとともに寛治は目的の為なら、武士に一番大切な誇りをいとも簡単に捨てられる気質のおかげで侍大将まで出世を果たす。
もちろん寛治を良しと思わない同僚も多い。様々な嫌がらせが寛治を一層意固地に、自分の野望に向かわせている。そんな折に、正木団十郎からの縁談である。寛治は浮き足立っていた。
先ほどいち侍大将と寛治は言ったが、一ノ瀬家はまったく対照的な有名人を二代に渡って排出している家柄である。正木の目に留まることは至極当然のことであるかもしれない。
「・・・分かりました。その話し御受けいたします。私も武家に産まれた女子の身。父の立身出世の為、身を捧げる事は当然の事。覚悟は出来ております。」
しばらく眼を閉じていた小春は、決心したように父にはっきり応える。その眼に、迷いは無い。その言葉通り小春もこの時代に生きる女としての役割を十分に理解していた。
例え、心の中にもう一つの想いがあろうとも・・。
「おおうそうか、そうか受けてくれるか!それでこそ我が一ノ瀬家の娘。これにより、我が一ノ瀬家は安泰じゃ、何れは、儂が軍師として兵を率いこの国を強靭にしてくれようぞ。先方には、さっそく明日にでも返事をしよう。いやあ、目出度いのぅ。」
「それでは、父様、私は床に入る時刻故これにて失礼します。」
興奮している父の言には応えず、小春は静かに部屋をあとにする。
その様子を母、お妙は静かに見送っていた。
「酒じゃお妙、酒を用意せい。今宵は、祝い酒じゃ。」
その声にお妙は、ため息が出そうになるのを堪え、「はいっ。」とだけ返事をして台所に消える。
布団の上で、中々寝付けない小春。どうして?覚悟していたはずなのに・・。なぜ、こんなに震えているの?怖い。横に寝返りを打ち布団の中で膝を抱えるが一向に、身体の震えは収まらない。
「小春、もう寝ましたか。」
襖の外から、母お妙の声がする。
「いいえ、起きています。」
その返事に、静かに襖が開き、お妙は部屋に入り、小春の傍に座る。小春は、上半身を起こし、母の方へ座りなおす。静かな夜である。虫たちも床に就いたのか、鳴き声が止んでいる。ただ二人の刻だけが過ぎていく。
「・・・父上を、恨んでいますか?」
静寂を破ったのは、母お妙であった。
「・・・いいえ。」
首を小さく横に振る小春。
「ただ・・、怖いんです。知らない人の許に嫁ぐのかと思うと。どう仕様もなく。母様、私は弱いのでしょうか?」
言いながら小さな肩が小刻みに震えている。
お妙は、壊れそうな娘を包み込むように抱きしめる。
その瞬間、堰を切ったように小春は、大粒の涙を流し母の胸に顔を埋める。声も無く泣く。
「あなたは、弱くありません。弱いのは、私たちです。おのれの出世の為に、一人娘を差し出すしかない父、それを止めることもできずただ見ている母。・・・弱い私たちをどうか赦しておくれ。」
それを聞いて小春は、益々涙が流れ落ちる。泣き声が漏れ始める。
抱きしめている母の胸が震えている。母も涙を流している。
二人の泣き声が部屋を満たす。
「あなたには、好きな人と添い遂げてほしかった。居るのでしょう?好きな人。」
「・・はい。」
母の胸の中で頷く小春。
小さく悲しそうに笑い、母が続ける。
「私にも好きながいました。しかし、その男は、小作人の方。当然、武家に産まれた私は同じ武家の者との結婚しかゆるされていませんでした。それでも、二人で隠れて月見や花見をしたりしてそれは、楽しかったのですよ。
・・しかしそれを知った父は、当時武術師範であった、養父上に心酔していた為、強引にそなたの父上との縁談を取り決めてしまいました・・。
私は、何とか気持を伝えよう、あわよくば駆け落ちしようとも想い何度も彼の許へ行こうとしましたが、父の監視が厳しく文すら出せない始末。そうこうしているうちに、彼はある戦で足軽として狩り出され、帰らぬ人となったと聞きました。
彼は、とても優しい人でした。男で無いかのように女子である私を大切にしてくれました。まして人を傷つける事なんて出来る人では無い、たとえ自分が生き残る為とはいえ・・。『早く、人が人を傷つけあう世が終わると良いなァ』と彼はいつも言っていました。そんな彼を戦で死なせてしまった・・。
私は、無念で無念でなりませんでした。何日も何日も泣きはらしました。もうどうでもよくなり、ある日彼の後を追おうと川に身投げしようと夜家を抜け出しました。
橋の上まで行きもう飛び込もうと思ったその時、髪に差していた簪が足元に落ちました。それは、一緒に行った夏祭りの時に、彼がなけなしのお金で買ってくれた唯一の物でした。それを見た刹那、私は彼が、止めに来てくれたと感じました。『自分の分まで生きて欲しい』と。彼は、この里を、そしてきっと私を守る為に、あれだけ嫌だった戦に逃げずに行ったのだと分かりました。
私は、彼の分まで生きていこうと決心しました。どうせ一度は捨てた命、何があってももう大丈夫とそなたの父と夫婦になりました。」
「・・そんなことが母様にあったのですか。」
小春は、母の初めて聞く女子としての部分に驚くと共に、大いに共感した。小春にとって凛とした母は、母であり何があっても動じない絶対的なものと感じていたが、今は一人の女子としての母をとても魅力的な人として感じていた。
「そうですよ。女子ですもの。それにしても男共はいつも戦の事ばかり、里の為、家の為といくら言っても結局自分の事ばかり、女子を自分達の道具としてしか見ていない。本当に、国の為、家の為に働いているのは女だとも知らずに。」
母は、又日頃口にしない生きた言葉を話している。小春は、それがとても心地よくもっと母と話して来ればよかったと今更ながら思う。
「本当に・・。いつの日か、女子が大切にされ、自由に好きな人と添い遂げられる世が訪れるのでしょうか?」
「きっと、来ます。私はそれができる男を少なくとも一人知っています。その日が来る為にも、私達女子はどんな時も強く生きなければなりません。もしかしたら、小春の子の時にはそうなるかも知れませんよ。」
「そうですね。女子は強く。弱い男達の為に。」
いつの間にか小春は笑顔になっていた。少なくとも身近に自分と同じ想いをしてきた女子が強くしなやかに生きている。それが、小春の心に火を灯した。母娘は強く手を握りあっていた。外から、入る月明かりが静かに母娘を照らしている。風も再び吹き始めた。
明くる日、午後のゆったりとした刻が流れている中で、新之助は里にある小川に架かる橋の上で釣り糸を垂らしている。雲は日に日に高くなり秋の空を形作っている。小川には、小魚が水面に銀色の光を反射しながら泳いでいる。大家族なのか、魚たちの数は大小様々多い。が、なぜか新之助のびくには一匹も入っていない。
「ふあぁ~。」
それを気に留めるでもなく新之助は大欠伸をしている。
「そんなんじゃ、釣れっこないよねぇ。」
楽しげに近付いてきたのは、小春である。
「おっかしいのぅ、こんだけ魚が居んのに一匹もかからん。これじゃぁ、晩のおかずがない言うて父上に怒られてしまうわ。」
頭をポリポリ掻きながら首を傾げている。その様子を、川の光の反射か、眩しそうに小春は見つめながら両手を後ろに組み新之助にゆっくり近づく。
新之助の傍まで来たら、そのままの姿勢で、新之助の周りをうろうろしている。若い魚が、飛び跳ね水面に波を立てる。
「何ぞ、話があるんじゃろ?」
釣り糸を見ながら小春に静かに促す。
「うん。」
小春は足を止め、うつむき加減にて新之助の隣にちょこんと座る。
「小春が、その動きをする時は、いつも何ぞ話があるときじゃからな。」新之助は視線を変えない。
「ふふっ、やっぱり新之助には隠し事できんね。昔から、変なとこ鋭いよね。まぁ、それで救われとるんだけど・・。」
哀しげに笑う小春。小春も新之助の垂らしている釣り糸を眺めている。
川の流れる音。遠くの山では、鳶が鳴いている。二人の居る橋より、下流では女たちが井戸端会議をしつつ洗濯に精を出している。その近くで子供たちが、川に入り遊んでいる。
今日も、里は平和だ。
「私達にも、ああいう時期があったね。」
小春は、下流の子供たち、女の子に苛められて泣いている男の子を見て眩しそうに話す。
「散々、小春に苛められたのう。」
「そうそう、いっつもすぐ泣いてたよね、新は。おかげでついたあだ名が、泣き虫新。泣かされるくせに私の後ろにいっつも付いて離れんかった。こいつは、本当に男かね?私が、守ってあげないといかんと思ってたなぁ。」
「あの時は、お前を絶対に女だと思えんかった。だから、何で男が、女の着物来て女の名前してるんだろうと不思議だった。」
「ふふっ・・・でもいつからか、私が新の背中を追うようになっていた。」
「そうでもないじゃろ、結局いつもオレをガミガミ怒りよって、尻を叩かれてる感じがしよる。」
「それはあんたが、いつも不甲斐ないからでしょ!・・・でも楽しかったな毎日。・・・いつまでも続けば良いなと思ってた。」
「・・・。」
新之助は、黙って釣り糸を見つめている。
小春も同様である。川面が午後の日差しに反射し、二人の顔を無言で照らしている。
「・・・私ね。輿入れすることになったんだ。」
小春は、視線を動かさず発する。新之助は、釣り糸を見ている。
「相手は、馬廻り頭の正木団十郎様だって、何でも私を見初めてくれたらしいの。それに、正木家と婚姻関係になれば父上も出世の足掛かりになる。一ノ瀬家には、男子が居ないから私が、それをするのは当たり前のこと。なにより正木様は噂に名高い偉丈夫、私も不足はないわ。」
小春は力一杯捲し立てた。そうしないと、何かが溢れてしまいそうな自分が怖かった。
「・・・ほうか。そりゃ目出度いの。男女の小春に嫁のもらいてがあったのか。」言って、新之助は小春に身体を向ける。
「そうじゃよ、目出度いじゃろ。」
小春は、新之助に横顔を向けたまま返す。
「きゃっ!」
突然、新之助は、小春の両肩を掴み身体を自分の方に向ける。
「急に何するのよ。」
驚いて、思わず新之助に目を向ける。その瞳は、わずかに潤んでいた。我に返ると慌てて下を向いてしまう。
「小春、決めたんじゃな。」
新之助は小春をまっすぐ見つめ肩を掴む手に力を込める。
「いっ、痛い!ちょっ、痛いよ、新。」
「どうなんじゃ、小春。お前決めたのか?」
「・・・うん。私決めた。」
小春は、顔を挙げ新之助を見つめ返す。
「・・・本気、なんじゃな?」
「うん。本気。」
新之助は、まばたきせずに小春の瞳を見つめている。
その瞳の奥に哀しさがあるものの眼差しには迷いは無かった。
肩を掴んでいた力を緩め
「ほうか、それならいいんじゃ。」
新之助は静かに微笑んだ。
身体を川に向け、又釣り糸を垂らす。
「ふあぁ~。さあ、晩のオカズを釣らにゃいかん。」
新之助は大きく背伸びをする。
その様子に、小春はあきれたような、安心したような笑顔になり立ち上がる。
「したら、魚に嫌われんようにね。」
「はい、はい。そうするわ。」
小春は、新之助に背を向けて歩き出す。新之助は、小春の去る足音を聞いていた。その視線の先には、真っ赤な彼岸花が揺れている。
花は葉を想い、葉は花を想う・・
第二幕【了】
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